近世の飯田町は,中馬などの物流の中継地として,また飯田下伊那地方の政治経済の中心として栄えていた。しかしながら町に関係する史料は,昭和22年の飯田大火などたび重なる火災により焼失してしまい,その実像を知ることが困難になっている。飯田町の人口についても「飯田小史」や平沢清人先生がまとめられたものがあるが,断片的なものにとどまっている。 昨年5月,飯田町の問屋をつとめていた野原家から下伊那教育会に3000点余の文書(野原文書)が寄贈された。野原文書は,近世の飯田町のようすを知ることができるばかりではなく,豪商のくらしについても知ることができる貴重な史料である。歴史委員会では,現在,その整理を進めている。本稿では,野原文書の一割余をしめる宗門改帳を手がかりに,江戸時代特に18世紀の飯田町の人口についてその概略を明らかにしていきたい。
2.野原家について
野原家は,現在も通り町2丁目にある。その起源は,織田信忠(織田信長の長男)の家臣仲谷勘右衛門が本能寺の変の後,飯田に定住するようになり,野原仁兵衛と名乗ったのにはじまると伝えられている。仁兵衛の三男が「綿半」の初代半三郎,四男は「綿文」の文四郎といった。両家ともに飯田町の町役人をつとめる家であった。「綿文」の野原家では,主は代々文四郎を襲名し,飯田町の内の7町,番匠町(現通り町1丁目),池田町(通り町2丁目),田町(通り町3丁目),松尾町1丁目・2丁目・3丁目,大横町の問屋役をつとめていた。(以下7町と総称)また,家業として,綿屋・酒造業・質業などを営み、次第に富裕になっていった。そして島田村(松尾)の森本家などとともに,飯田藩御用達として藩財政にも深く関わっていった。
3.野原文書の特徴
野原家に残されていた近世文書は,約3000点にのぼる。時代的には延宝年間から明治年間の約200年に渡っているが,宝永年間から寛政年間までの18世紀のものが多くをしめている。内容的にみると,次の5種類に大別できる。@役用記,宗門御改帳などの町役人(問屋役)としての文書。 A御定借金の集金帳をはじめとする御用達としての文書。 B大福帳,醸造記録,質改めなどの家業に関する文書。 C法事記録,婚礼記録など野原家の個人的な文書。 Dその他の文書 第1図は,野原文書を年代と上記の種別を10年を単位に表したグラフである。このグラフから,野原文書の点数は,1750年代以降急激に増加し,19世紀に入ると激減していることがわかる。18世紀後半の文書数の激増を数量的にくわしくみてみると,町役人関係の文書も増えているが、次いで家業に関係する文書量が増加していることがわかる。野原家が商家として順調に発展していったことを物語るものであろう。(野原家の外向きの時代)一方、19世紀に入ると文書数が激減すると共に文書の構成も質的な変化をみせている。それまで主体であった町役人、家業関係の文書に代わり葬儀・法事関係、婚礼関係など野原家の個人的な文書が多くなっている。特に19世紀初頭の享和から文化初年にかけて家業の文書数が減っているのが目につく。寛政末年の書簡に火事見舞いに関するものがあり、この火事が野原家の経営に影響を与えたのではないかと推測されるが、この点については文書をさらにくわしく検討していく必要がある。 この時期、飯田町の問屋役には野原文四郎に代わり,「綿半」野原半三郎が問屋役として名を連ねており、19世紀初頭が「綿文」野原家の1つの転換期であったといえる。
4.野原文書の残された時代の飯田町
この時代、飯田町は、貨幣経済の浸透とともに物流の中心地として発展していった時期である。特に明和の裁許によって公認された中馬により、飯田町を経由する物流の量も増えていった。それと共に飯田町と在郷町との商売を巡っての争いもおこっている。また、飯田藩では、年表にあるように18世紀の後半に入ると、流通経済の発展を藩財政取り込んでいこうと動きを強めている。宝暦12年の飯田藩全藩をまきこんだ千人講一揆もこのような流れの中でおこったものである。
5.宗門改帳に現れた7町の人口の動き
A人口が減少している町(池田町・番匠町を中心に) 表2 元文3年〜明和2年までの番匠町の人口
この時期、番匠町では元文期〜宝暦初年までは、家持・借家・下人ともに減少傾向にあった。その後増加に転じているが、元文3年の人数までは回復してはいない。池田町でも同様な傾向がみられるが、ここでは、下人の人数がこの時期、88人→36人と半数以下になっている。下人の人数の減少は、番匠町・池田町の人口動態で特徴的なものである。7町の下人の人数にしめるこの2町の下人の割合は、元文3年では、67%であったものが、明和2年には、38%にまで減少している。この人口の変化については、番匠町・池田町の町人の商業をはじめとする家業の経営形態の変化が背景にあるのではないかと考えられる。しかし、この点については、家族構成など宗門改帳をさらにくわしく分析していく必要がある。
5.飯田町全体の人口の動き
これまで野原家が問屋役を勤めていた7町の人口についてみてきた。飯田町全体での人口に関しては、宝暦3年、安永8年、安永10年、天明3年、天明4年の「拾八町惣人数目録」の控えが残されている。表3は各通りの人数を表にしたものである。宝暦から天明にかけてのごく限られた時期のものであるが、18世紀の後半に飯田町には、6,000人に近い人々がいたことがわかる。特に伝馬町・桜町通りの人口の増加が多く、この時期、この通りが発展していったことが人口からも裏付けられる。天明3年から4年にかけて、約250人の人数が減っている。天明元年12月から同7年8月にかけて、飯田町全体では、68軒の家が欠落していること、同時期の飯田藩全体の欠落数にしめる天明3,4年の割合は、49%である。これらのことから天明の飢饉は、飯田町においても人口減という形ではっきりと現れている。 6.おわりに 飯田町全体でも7町と同様に人口の増加傾向にあり、安永末年の時点では、飯田町は約6,000人の人口をようしていた。しかし、天明の飢饉により人口も減少することになった。 |