大久保文書について



「大久保文書」(千村荒町文書)は、長野県下伊那郡大鹿村の大久保家より下伊那教育会に寄贈された近世文書です。

大久保文書FAQ

文書の時代は?長年間から明治初期までです。江戸時代全体をカバーしているといえます。
数はどのくらいですか?約6,000点あります。
千村荒町文書と言われることもあるのはなぜですか?大久保文書のほとんどは実は、江戸時代伊那谷の幕府領の代官であった千村氏の陣屋の文書だったのです。
千村氏の陣屋は飯田城下の荒町(現飯田市中央通り)にありました。その関係で「千村荒町文書」と呼ばれることがあります。
文書からどんなことがわかりますか?下伊那の近世史、特に幕府領のことがこの文書からわかってきます。
特に千村氏は、伊那谷の幕府領から年貢として米のかわりに榑木を徴収して、天竜川で運んでいるなど、江戸幕府の林業政策の一端をになっていました。
陣屋の文書がほとんど丸ごと残っている大久保文書は、幕府の林業政策を解明する上では貴重な史料なのです。
千村氏の文書がなぜ大久保家に保管されていたのですか?明治維新後、飯田の荒町にあった陣屋が解体された時、大久保家の先祖が馬数駄分の文書を譲り受けたといわれています。それが大久保家に伝えられてきたのです。



千村氏
千村氏は、美濃国久々利(現岐阜県可児市)に5000石の所領を持つ尾張徳川家の家臣でした。
それと共に信濃国伊那郡内の幕府領の榑木成村(榑木を年貢として出す村)を支配する代官もかねていました。
陣屋は飯田城下の荒町にありました。


榑木
榑木とは、屋根用板材のことです。近世初期には、サワラが使われていました。
伊那谷には、山が多く米のかわりにくれ木で年貢を納めていた村もありました。そのような村を「榑木成村」といいました。(これらの村々も次第に年貢を金納するようになっていきました。)


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