中世の大河原
かりのやど かこふばかりの くれたけを         
         ありしそのとや うぐいすのなく
と「李歌集」に詠んだ後醍醐天皇第八皇子宗良親王は、興国5年(康永3年 1344)に大河原城(下伊那郡大鹿村)に入り、南朝勢力の回復を図り、以後30余年に渡ってこの地に居住しました。
 大河原を中心とする大鹿村には、その当時を物語る史跡が多く残されています。今回は、大鹿村の中世の史跡を特集します。
1.香坂高宗とその本拠大草・大河原
 宗良親王を大河原の地に迎えたのは、当時大草郷(上伊那郡中川村)から大河原まで領有していた滋野氏の一族であった香坂高宗であった。香坂氏の領有していた大草郷から大鹿村にかけての地域は、山間の地であり、古くから牧の経営がその経済を支えていた地域と言われている。平地に比べて経済力では劣っていたが、大河原は、中央構造線が作る赤石構造谷に位置し、谷を南に下ると青崩峠を経て遠州に至り、北に上ると杖突峠を経て諏訪に直接出ることができた。加えて、当時北朝方の小笠原氏が領有していた天竜川の西側からその動静をうかがいにくいという利点があった。(当時天竜川東岸は、南朝方武士の勢力圏であった。)香坂氏は、この地域に大河原城、堀田城、駿木城を配し、堅固な防御線を引いていた。   
中川村には、香坂氏の館跡があります。天竜川の東岸、大草城の北約500メートルに残されている館は、現在も鎌倉時代の武家の館の縄張りをよく残しています。写真は、香坂氏の館です。西と北は断崖の上にあります。なお、後方の山は中央アルプス南駒ヶ岳で氷河期の名残りであるカール地形がみられます。

2.駿木(するぎ)城
 駿木城は、宗良親王が大河原に居住していた頃、児島高徳の子高春居住していた城であると伝えられている。どのような城であったか、また何年頃まで存在したのかは不明である。昭和8年市村みな人が調査報告した「長野県史跡名勝調査報告書」によると第1郭は城地の南側にあったことになっている。また第2郭は城地の西側(写真では、展望台の向こう側)であったとされている。城地にあたる所が明治32年開墾されたため、当時の面影は、ほとんど残っていないのが現状である。

3.堀田城
 堀田城は、宗良親王の家来堀田正重の居城と伝えられている。正重は尾張国中島郡堀田が本拠地であった。堀田城は、宗良親王の居城大河原城の前衛の城であった。南北朝動乱が終わると共に堀田氏は尾張に帰り、堀田城は廃城となった。

4.大河原城
 香坂氏の居城といわれる城で何時作られたかは不明である。城は、小渋川、大田村沢の断崖に面し、北西は空堀をもって防備した。香坂高宗が宗良親王を最初に大河原に迎えたのはこの城であった。(その後親王は更にここから4kmほど奥の御所平に移った。)現在、大河原城は、小渋川に削られ、ほとんど痕跡を残していない。ただ、北西の空堀とそれに続く郭のごく一部が残っているのみである。

駿木(するぎ)城跡

大河原城跡  遠くの雪をかぶった山は赤石岳(3120m)

5.福徳寺本堂
 福徳寺本堂は、大鹿村上蔵(わぞ)地籍にある鎌倉時代に作られた長野県内最古の木造建築である。明治45年特別保護建造物に指定され、昭和25年に文化財保護法の改正により重要文化財となった。そして昭和28、29年文化庁により解体修理が行われた。
 福徳寺の本堂が建てられた年代は、文化庁の解体修理の時にも明らかにすることができなかったが、本堂の須弥壇の上に安置されている薬師如来・阿弥陀如来像の正嘉4年の台座銘に
「此御堂立はしめは平地2年申つたへて候」
とあることから、創建は平治2年(1160)と推定されている。建立した施主も不明であることから、信仰者たちが長い間かけて建立したものと考えられている。本堂自体は、解体修理のより鎌倉時代後期のものとみられている。桁行3間、梁間3間、一重入母屋造、こけらぶきの簡素な建物である。
 江戸時代の天保年間に老中水野忠邦(天保の改革の推進者)がこの本堂のことを聞きつけ、自分の居城のある浜松に移築させて欲しいと請われたことがあったが、地区の人々は、相談の上ていちょうにことわったという歴史も持っている。
 福徳寺本堂は、現在も地区の人々によって守られている。
福徳寺本堂外観
福徳寺本堂内部


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