矢ケ崎宏江の自分史 平成12年9月24日
辰野町横川源上にて執筆開始私の生い立ちの概要
私の生まれたのは上伊那郡、現在の辰野町川島村渡戸の、農家の三女として生まれました。家には祖父母と父母と大勢の叔父や叔母姉兄、下には弟達、真ん中に育ちました。それだけにもまれにもまれて自分ながら大変だったろうと思います。 生家の油屋はその昔油を売っていたらしいのです。大変大きな萱葺きの屋根でした。またとてつもない地下室があって小さいものをいじめた兄たちは縄で縛られて、吊り揚げられていて、いじめられた私達は親すがってやめてもらいました。
父の思い出
私の父昇は婿養子でした。かっこ良いやさおとこでした。口かずの少なく我が子さえ怒ることをしませんでした。時には夫婦喧嘩していることもありました。幼いながらも私はいつも父に立ち向っていったそうです。お父様が悪いと言って。父は悲しそうにどこかに行ってしまったそうです。今考えるとかわいそうな気がいたします。母亡き後寂しそうでした。この手が母さんにそっくりと私の手にふれたりして、ふりはらったりすると怒り父はその時どんなにか悲しかったことでしよう。私は父にたいして冷たい娘でした。
私の結婚にたいしても賛成はしてくれませんでした。親の反対を押し切って結婚をいたしました。実家に泣き言は一回もいたしませんでした。過労のため何度も倒れて死にかかつた時には、枕もとに座っているのは父でした。お父様ごめんなさい悪い娘でした。未だ後悔をしています。最後に、見舞った時今夜は俺を見てくれと言われて3日待ってと言いましたら、待てないと言ってその晩の内に亡くなりました。
母の思いで゛
誰でも同じだと思いますが、母はわたくしにとって最高のひとでした 眼を閉じれば今いまも鮮明に母の顔を思い浮かべる事ができます。お母様 嬉しい時悲しい時心のなかで叫んでいました。そのとき母が答えてくれるのか良い案がわいてくるのです。それにしたがって、実行すればうまくいつたことがありました。母はいつでも私の中に生きていてくれると思います。早く死んでしまいましたがあの母の娘であったことを誇りと思っております。母のことを書いているときりが無いのでこの辺でおきます。

写真は中村のおばさんから提供して頂きました
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