食糧難の時代

 食糧難が何年も続き食べられる木の芽や、生えている草は、皆食べました。年寄りは大分亡くなったように記憶があります。歯がないので、硬いものは、食べられず、栄養不足だったと思います。悲惨このうえも無き時代でした。食を失った若者は皆帰り年寄りと女と幼き子供達、 不自由に耐えて苦労をしいられてがんばってきたのに敗戦になり其のまま終わった人も多く見ました。振り返ってみれば、まだ幸せだったかも知れません。食べる物なく、着る物もなくないないづくしのそのなかで、大勢の小姑たちに囲まれて、何も個々に書き記すことはありません。見てくれる人があったら想像におまかせしたいと思います。夫のやさしさと我が子の成長に、がんばらねばと思い続けてまいりました。夫は山仕事、私と小姑たちで山坂の畑を耕して、其の仲に雑穀を撒き又芋などうえました。山畑から帰る時には燃料になるものを拾ってこなければ小言をいわれるのでした。登るときには勿論堆肥になるものを背負います。家に帰れば子供を背負います。近くの水道から水を運ぶのも子供を背負ったまま、両手でバケツをさげました。よくあんな力があったものだと思います。大勢の小姑たちから、からかわれました。わたしは、この家のお手伝いに来たのかしらとも思いました。でも違うなんとかせねばと考えて、私なりに開ける道があることに気付きました。真夜中に下のかわらへ泣きに行っていました。お母さまと亡き母を呼んでいたのです。教えて教えてと叫びました。小姑の中に飛び込みなさいと教えてくれました。ああその手があったんだ、翌日から実行に移しました。どのようにしたのかは覚えがないけれど、てき面に情勢は良くなっていきました。姑が一番かわりました。今度は夫のところに苦情はいきましたが問題ではありません。カゲナガラ喜んだのは、おとうさんでしたから。小姑達はだんだんと縁付いてかたづいていきました。舅が事故にあって急逝しました。予期しなかったことでしたので、多少のつまずきもあったようです。義弟の遺族年金が親におりたので、家計の方へも助けて貰ったこととおもいます。結婚の費用はなんとしても山林の木材を金に替えたり、借金をしたりで姑と相談をしてなんとか、繕うことができたと思います。はっきりしたことは知りません。結婚はしたけれど、お里がえりが多すぎて、こちらが片付けばまた片方からお帰りでたいへんでした。自分は、帰る所がなかったから行かなかったけれど、帰るところのある人は帰るのね。帰る事は恥と言われた時代でしたが、恥も牛蒡もありゃしない、里え里えと帰られたのです。姑は気をもんだことと思います。数日すると、迎えが来たり、送り届けたりで帰っていきました。