貧しい生活が続く1
其のころになって大分、食料事情もよくなりました。アメリカよりどんどんと入ってきました。また他の物も出回って、なにかにつけて暮らしが楽になりましたが、我が家は依然として苦しい日々でした。家だけではなく、親類がみなまずしかった、病気になったり、不幸がおきればおきたで、相談を持ち掛けられるのでした。僅かでも何とかせねばならず、其のたびにお父さんは大変だったと思います。農協へいって、借金をしてきました。保証人は組合人であれば、額はいくらでも借りる事ができたので、農協には借金のたえることはなかったです。着るものは買う事もできないので、繕ってまたつくろってまるで、雑巾のようなものを着ておりました。ある人はいったそうです。わかたの蔵の南側を見たらそれは見事なものだよと。それを聞かされても何とも思いませんでした。嫁入り支度には、一生涯着る物を持って来る慣わしだったそうです。そんなことは知りませんでした。それとなくいびられたものでした。二人ともぼろぼろになるまで着て其の上に継ぎをあてるのでまるで雑巾をまとっていました。また充て布が違う色の布なので見事なものでした。 またある人は、色男の作さ(夫のこと)が台無しだと言いました。私のせいみたいに。おむつもなく、ゆかたをといてそれにしたり、実家からもらってきたらと、いわれてもそれもできず、益々裸になりました。野良への履物は、藁で作った足中草履でした。新しいものはもらえず何時もおさがりなので、一度で良いから新しいのを履いてみたかった。畑に通うみちは、爪先上がりの坂道ばかりで、素足にはくたびれた藁草履、重い荷を背負っているので何時も傷だらけでした。傷口からバイキンが入らなかったものでした。田んぼの代かきはもっと酷かったものでした。泥の中に傷だらけの足で、馬と代掻きをやるのですから、今にして思えば、ゾットします。あのなかで、子供を産み食べるものとて満足でなく周りの者達にいじめられて、よくも生きて来られたものです。わたしだけではなかった。同じ年代のひとの中には、もっとひどいひどいめにあっているひともいました。密かにひとめのつかぬ場所で語り合いました。其の人の言ったことは、からすか、すずめになりたいと言いました。自由になりたいと。鳥になれば自分の意思で物を食べて自由に行きたいところに行かれるのに、自分はいつも綱をつけられた馬か牛で家畜同然よりもっとひどいあつかいをうけていると言いました。私たち嫁さんは、なんだったかしら。昼間は家畜と同じ労働力であり、夜は子孫を残すことが要求されておりました。3年たって子なきは、去れで、この事にあまり反感も抱いておりませんでした。