貧しい生活が続く3
余りの無理が遂に私の健康を害してしまいました.妊娠中毒で水ものどえも通らなくなりました。酷くて倒れてしまいました。医者はただちに、入院を進めましたが我が家には、お金もなければ、その気もなかったのでした。医者に事情を話すと中絶して、3年間妊娠しては、ならないことを言い渡されました。症状が治まると、又無理をして働きつづけているうちに、完全に動けなくなりました。漸く気持ちの上からも張り合いがあると思ったのも束の間、家族の目も疲れ果てているかにみえました。其のころ岡谷に良い医者を紹介してくれる人があって、診てもらうことができました。先生はある日、旦那と来るようにいわれて、がんではないかと疑っても見ました。私を待合室にまたせて、主人と二人でお話なさいました。時々漏れ聞こえるのに、奥さんを殺すも生かすのもあなたしかないといっておられるのでした。帰ってから話をしたのか、姑はなんとしても治しておくれ、幼い孫達の世話は俺には出来ないといって涙をこぼしました。自棄になっている自分に気付きました。不味くても我慢して食べよう、そして働いている我が家ののみにもなってみようと少しづつ気持を変えていきました。全快するまでに、1年ぐらいはかかりました。その間の苦しみは大変でした。自殺を考えたのもそのころです。最初は自分だけでと思っていましたが。子供もつれていこうとおもいました。諏訪湖でと考えていました。雨のふる寒い日でした。岡谷の駅前の喫茶店にはいり子供たちに、ミルクコウヒーをのませました。何も知らない子供たちは、おかわりをせがむのです。どんなにかおいしかったのか、目が輝いていました。帰りの電車代しか金は残っていないのです。もうお金はいらないのに、なぜか、使いませんでした。露天でトマトを買って与えているうちに、子供の姿はないのでした。察して逃げたと思い、駅にいって、ただずんでいるうちに、チンドンヤの一連が入ってきました。其の後から、子供たち二人もきました。きくみは、私の手につかみながらチンドンヤ、チンドンヤと、大騒ぎをして一連に睨まれました。怖くなって、入ってきた列車に乗り込んでしまいました。小野駅まで乗り越して、飯沼まで(姉の嫁ぎ先)2キロぐらい歩いて行きましたが、きくみの足では無理だったと思います。姉は今でもあの時の私達親子の姿を思い出すのか、涙をこぼします。義兄は、何も考えずここにいればいいといってくれました。暫くのうちはよかったけれども、姉の子供たちとの喧嘩がはじまり、嘉秋は、姑や父親を恋しがります。義兄は子供を置いてここに来るようにいってくれました。心をきめて帰ってきました。姑の顔色は忘れましたが、主人が子供たちを抱きしめて泣き崩れたあの光景は忘れません。お父さんは苦しく悲しかったのだ。義兄の家へは帰りませんでした。わが子の安住の家はここより他にはないと又心をいれかえたのでした。