末子さんのこと
ここで思い出すのは小姑、末子さんの事です。彼女は私より10歳年下でした。妹がなかったので、何かにつけて興味をもって接してきました。ほかの小姑たちとは違ってあっさりした感じでした。生まれつきなのか、我慢強さには驚くほかありませんでした。末っ子にありながら甘えると言うことがなかったのでした。他の者たちが意地悪をしても、其のときはしらんぷりをしていましたが、どちらがとうかと言ったことはわきまえていました。将来頼もしき女性なると思い、少なからず愛情をそそいできました。彼女もこたえてくれました、また我慢もしてくれました。一緒に生活したのが10年でしたが、肉親のように思えました。彼女の結婚はあまりにも期待薄でした。太鼓判を押した娘でしたのに、思うようにはいきません。何処で狂ってしまったのかわかりませんが、相手ばかりもせめられませし。やはり大勢の家族の中に入ったのですが、持ち前の粘り強さと明るさで困難を切り抜けたと思います。あちらの小姑方のお話に、実家は兄嫁さんでもってきましたと。其のとおりとおもいます。
ただ今では、大勢の、小姑たちも、大半なくなりあとの人も、入退院の繰り返しで、あと二人だけが健在です。私とて、年齢ですので明日の事は、わかりません。昭和も30年に入って家にもちこまれる、兄弟のいざこざを片付けながら、夫にも耕地総代の大役、消防の大役と、つぎつぎにもちこまれました。片腕の末子さんは嫁にやり、大役をお断りしましたが、住人としていつかは、やらねばと、私の健康も何とかなると思い、協力するからということで、お受けしました。先ず経済的にゆきづまり、日雇い稼ぎなので、どうして日々を過ごしたのか、思い出せませんが、これきりと言うほどに知恵を絞ったことでしょう。姑から受けた力添えは勿論のことでした。絶対のおばあさまですから、ご機嫌を損ねたら大変なことになります。孫たちの言動にも気を使いました。姑は、全部見通しでした。夫は陰で、いわしで鯛を釣れといっていました。真心がなければ、口先だけでは、通じません。必死で尽くしました。困難があったでこそ、あの行動が取れたと思い、家中の絆は深まって行きました。姑とすごした月日はそれから10年あまりでした。実母よりずっと長くすごしたわけです。お互いに心を開き偽りのない日常でありました。一人の義兄あたる人が私に言ったこと、おまえさんは、姑と手を組んで、亭主をだまして、酒をのまして、全力で働かせて、3頭だての馬車で餓鬼どもを載せて走っているよ。何たる酷い女かえ。呆れて返す言葉もなく、涙をこぼしました。すると義兄の言った言葉は、俺はなあ、結婚よりずっと前からこのような家庭を持つ事を望んでいたよと、言われました。我が家の場合は、望んでなったのでなく、日ごろの生活の中から生まれたものでした。貧しさはいつまでも続きましたが、家族皆で心を寄せ合って信頼の上に生活がおくれたことがなによりの喜びでした。