大滝沢の大災害と、義弟の死
そのころ私は、浜横川鉱山に、選工夫として雇われていました。選工夫のなかでは、一番の年長者でした。給与は一番少なくて、一番遅れて入ったのですから仕方がありませんでした。我が家は炭焼きが家業でしたので、1釜出すごとに3日の手助けが入用なので勝手な願いをして、臨時雇いで雇ってもらいました。年齢では、年かさでしたが、可愛がっていただき、楽しい何年間でした。或るとき検査の結果で、血圧の高い事がわかりました。仕事が重労動のため、主人は、私には黙って会社を断ってきました。仕方なくやめることになりました。
ここでさかのぼって、書き記したい事を思い出したので、昭和38年の7月11日のことです。横川川上流の大滝沢が集中豪雨にみまわれて、大規模な山崩れがおきました。運悪く作業小屋に避難をしていた村人が11人小屋もろとも呑み込まれてこまれてしまいました。屋外にいた人は助かりました。残された家族は勿論のこと、部落としても、中堅の人たちを11人も失って途方にくれました。下流の渡戸部落でも、大半の水田と道路を流されました。川にかかっていた橋は流されてきた材木に押し流されてしまいました。道路の車は全部とまり、勿論スクウルバスも、途中までなので村内は歩いての通学でした。食量などはどうしたのか覚えがありません。後遺症はながく続きました。翌年の39年2月に、義弟が幼い子供と病弱な妻を残して急死してしまいました。義弟は、先の災難にはまぬがれることができたのですが、あまりのことに、夢であってほしいと、神仏に祈りました。頭の真中が、剥げたのには自分ながら驚きました。心配をすれば、剥げるときいておりましたが。心配事がつづき、我が家には平和は望めないのかと思いながら過ごしていました。