再び義母の死と、子供達の結婚
それから4年後、心の支えとおもっていた姑は突然倒れられ、そのまま帰らぬひととなりました。仏前に呆然としておりました。憎しみあったこともありました。お母ちゃんは、正直の上に馬鹿がついいる、それを馬鹿とゆうものだとののしられましたが、おばあちゃんよりは、はるかに足りませんでした。実母よりずっと優れていることがありました。そっと頂いておりました。それが大分功を奏したのでした。79歳でしたが、もっともっと生きててほしかった。大勢の子供は、泣くものはいませんでした。嫁のわたしだけが、涙をながしたのか、おばあちゃんは、孫の嘉秋にいったとか、後でききましたが、おかあちゃはな、このおばあちゃんがな、連れてきてな、誰のものでもない。お婆ちゃんひとりのものだ。おぼえておけと、いったそうです。そのころは、痴呆もすすんでいましたが。舅がなくなってあんなに、泣いた嫁さんは、みたことないよと。近所の人のはなしでした。
きくみは、相変わらず大勢のともだちをつれてきました。男女と半々ぐらいでした。子供ではないので、悩み事相談を私にもってくるらしいのです。お母ちゃんに聞いてもらったら、みたいに連れて来るらしいのでした。迷惑をかけられました。親身になって話は聞いてあげられましたが、具体的なことになれば、全くのお手上げですもの。我が子にも問題もおきて、子供と一緒にに苦しんだこともありました。48年の春に長男秋には長女が結婚しました。どうして費用を捻出したのかは、思い出しません。主人の力によるものかもしれません。盗みだけは、しませんでしたから。子供たちの言葉に、無からの出発とだったと何度かききましたが、当たり前のことと聞き流していましたが、彼らなりに苦労があったことでしょう。
1年経てば出産がまっております。今度は御めでた続きで目が回りそう。つまらぬことに悩んでいる事など吹き飛んでしまいました。どこかで救われるものです。親類のどこかで婚礼あり、出産あり、諸々の祝い事に追いまわされました。その間には、病人から葬式ありで、甥姪の結婚式を30何回か招待されました。仲人を3回受けて、悲鳴をあげたいほどでした。