飯田への引越しと、神稲建設さん勤務

 息子夫婦も、子供も3人となり家を持つことを考えたのか、親と同居を持ちかけてきたのです。主人は即賛成のようでした。私は返事もできず黙っていました。母親からは、善い返事は期待できないとみて、私抜きで具体的なことはすすめてしまいました。留まることと、離れることの半分半分でした。同居の自信のないままに、飛び込んでしまい、新旧で思わぬ事態に遭遇するばかりで、どうすることもできなくなり、張り切っていた主人が倒れてしまいました。一人あてがわれた部屋の窓から眺めた、夕暮れの空にとんでいるカラスの姿はいつまでも忘れないと思います。幸い20日ばかりの入院にて退院ができました。しばらくは、通院でしたか、これからは、俺にかわって稼いでくれよと言われた時には、眠れぬほどに悩みました。見知らぬ土地にきて、どうして仕事を探すのか、思いもよらぬことでした。どんな仕事でもよいから、住み込みで入れたら、なんとかして生きていこうと思い。僅かの手ずるにすがって仕事を探しました。断られたところもありましたが。程なくして、建設会社のビルの管理人に採用されました。賃金が少ないと言うことで主人は気乗りがしなかったのですが、高ければそれだけに仕事がきついと思いました。とにかく入れてもらいました。慣れなくて困った仕事は、皆さん帰られたあと、電話の交換をせねばなりません。下伊那の方言が皆目わからず何を知らせてきているのか判らず、聞きとれたことを紙に書きとって、その係りの人に渡しました。下伊那地方は雨が降れば、災害になる場所なのです。一刻も早く知らさねばならず、神経を使いました。最初のうちは、問題もあったようですが、二人の熱意がわかってもらえて、ずいぶんやさしくしていただけました。9年あまり仕事をさせてもらいましたが、健康に恵まれミスもなく、生涯において最良の年月でした。川島の家を後にする時は、泣くのはこれきりといっていいほど大声をあげて泣きました。主人もきくみも、あわせるように泣きました。送り出しにきていた、姉は逃げて帰ったと後から聞きました。それほどにして出ていったのでしたが、後から振り返ってみれば幸いとなりました。行く先には、何が待ち受けているのか判らないものと、つくづく感じました。