夫作三との結婚1
私が19歳のとき我が家は全焼してしまいました。分家から出火して、隣あっていたので、それに茅葺の屋根でたちまちのうちに焼けてしまったのです。正月の14日で、その寒さはいまだに忘れることはありません。家の中の物は、殆ど焼けたようでした。火の回りが速く地下室があるために、落ちたらたいへんとなかにはいろうとする人を、母はひっしで抱きとめていたそうです。父が馬を母が写真を私が仏壇から位牌をだしたのです。姉と二人で土蔵の土戸といっていざとゆうときにだけおろす戸ですそれを閉めました。女子供には、ふだんは、おろせるものではないのすが、火事場のなにじからとかいってできたのです。それからずいぶん、不自由と困難がまちうけていました。
戦争はひどくなり都会からは疎開をよぎなくされ、一家でくるのですから、住む所が広い田舎の家といっても、夏場は蚕もかわねばならず、ほとほとこまりました。雨露をしのぎ食べる物だけは何とかなつたのでから、それで我慢をしてもらうよりしかたがなかったのです。娘盛りのぶすのわたしにもいくつかの縁談がありました。
作三との縁談も、そのうちからでした。母が亡くなって何年もたち、我が家のきりもりは、全部といってよいほどに私がやっていましたから、経済的のこともわかっておりました。それ故に嫁になんていく気になりませんでした。第一に嫁入りの仕度が出来ません。我が家には、特別な収入もなく、仕度を用意するなんて考えてもみませんでした。もし裸で良いといってくれる人が現れたときそのとき考えてみようかと、勝手のよいことを思っていました。若者は殆どものが兵隊にとられていませんでしたから、関心が薄かったと思います。主人はたまたま除隊となっていたのです。世間ではあの人のお嫁になる人は誰かしらと、噂のまとだったとか後になって聞きました。私よりましなお方がいたでしょうに。縁があったと思います。お断りはしたのですが仲にはいってくれた方からお見合いだけはしてくれないと、顔だけはたててもらいたいとおっしゃられるので、仕方なしに致しました。
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