子供を抱くと、喜びに彼の顔は崩れ笑顔と涙でくしゃくしゃなりました。想像もしなかった父親の顔でした。なんとしても、父親のもとえかえろうとおもいました。帰るまでの間に風邪をひかせてしまい、もう駄目かとおもったほどでした。生命力があったのか、熱がさがり、快方にむかってくれました。無事父親のもとに帰りました。おとなしい子供で、家中の人たちに可愛がられて幸いでした。貧しいなかにも、子供のお陰で明るい日々をおくろことができたのです。姑や、小姑たちにとられたように思い、悲しい思いでしたが、今になって考えると、良かったとおもいます。
母乳はあふれるほどなのに、歩く事もできず、這う事さえもできません。そのうちに、いざりだしました。知恵のほうはひとなみにとはおもいましたが、初めての子供なのでわかりませんでした。おしっこは、早く教えてくれて、1歳の誕生日にはおむつがとれました。姑のおかげです。ずいぶんと、助かったわけです。当時の食量時状の悪いことは、戦後最悪の時でした。米の配給がなくそれに代わる家畜に食べさせるようなものでした。そのうえに 木の芽や野に生えている食べられる草を摘んで足しにしたものでした。赤ん坊の嘉秋はかわいそうでした母乳はでても、太らないのです。あまる乳は近所の赤ん坊に上げるので私の顔を覚えて泣かれて困りました。強く吸い付いてくる赤ん坊たちは哀れで涙がこぼれました。母親たちの乳房は枯れ果てていたのです。
長男嘉秋の誕生
一年もたってから、妊娠をしました。大量のおりものがあったりして、近くの病院へいきましたら、子宮の発達が送れていて妊娠の可能性はないので、毎日通院だといいました。とてもできないことでしたから、そのままほおっておきましたら、生理もとまり妊娠となりました。誰に祝福されることもなくあたりまえのことでした。毎日の労働には関係なく食べ物の好き嫌いはとおらず喉をとおるものだけでした。胎児はどんどん大きくなって行くのがわかりました。
それだけに 母体はみるみる衰えて、自分ながら哀れな、哀れな姿となり、これではいけないと思うだけでどうすることもできません。楽しみにしていた夕食の魚はだれかに取られてしまい、悲しくて大声をあげて泣きました。食い物の恨みは今もって忘れません。一人野良でた時には、さつまいも とうもろこしなど生のまま食べましたが、おなかをこわしたことはありませんでした。ずいぶんと盗み食いをしたので姑は数を数える事を忘れませんでした。幾つ足りなくなっていることを知らされました。生まれてくる子供のためだと、悪い事とはおもいながら、やりました。立派に成長したわが子を見て良かったと思います。その年の昭和21年11月14日11時40分に
無事長男嘉秋を生みました。嬉しかったのか悲しかったのか涙を流した事を覚えております。いい子だよと、赤ん坊の顔を見せてくれました。父親似の男前です。ああ良かったと安心しました。ニ三日して彼がとんできました。生まれた事を教えなかったみたいで、それ故に驚いて駆けつけてきたのでした。
まだ若い私からは栄養はなくとも、こんこんと湧き出しておりました。外出どきなどいつも母乳で濡れるほどでした。何時も子供はやせ細っていました。一才の誕生日がきても這うこともできない、座ったままいざって物を取りにいくのでした。若い母親は、一人悩んでおりました。他の人たちは何とも思わないのかしらとも思いました。14ヶ月もすぎたあるひのことでした。子供は、よつんばいになっておしりをあげて、すっとたちあがりました。とたんに足が一歩又一歩と歩き出したのでした。舅はそのとき、手をたたいて喜んでくれました。おじいさんまっていてくれたのね、本当に有難と感謝しました。あのときの事は忘れないと思いました。もし歩くことが出来なかったらかたわ者を生んで子供といっしょに追い出されるのではと思っておりました。夢にまでみて、願っていたことが今実現したのです。有難う。感謝でいっぱいになりました。