北海道旅行の思い出         平成14年12月3日
目次
飯田から名古屋へ、名古屋で一泊
         知床で一泊、忘れられないこと
生まれてはじめての飛行機            三日目は湖水めぐり     
北海道のラーメンはおいしい
               阿寒湖で一泊           
観光タクシーでの旅、層雲峡で一泊       四日目は広大な北海道を走り・
二日目は北海道を突っ切りオホーツク海へ     名古屋で一泊、川島に帰る  

飯田から名古屋へ、名古屋で一泊


 その頃、飯田には嘉秋の連れ合い加寿子さんのご両親が静養に来られていて、その日はまず飯田に参りました。

「実は私はその飛行場(千歳空港)の建設にしばらく滞在していました」、と、また、「懐かしい場所でもある」とのこと。など中野のお父様はお話になられました。これが北海道の第一歩の到着飛行場の名前でした。私も必ず行かなければとお母様はおっしゃいました。お母さんの加寿子さん三人に送られて飯田の家を出発したのが、1999年9月のはじめのある日の午後のことでした。

 インターより名古屋へ向けて出発したのは何年前になるのか。亡き主人と何度か行ったときでした。とにかく無事到着のみを願いながら、そのつどの思いでした。主人の運転が安心できなかったかと思います。それに息子の嘉秋の横で安心している私でした。名古屋の繁華街に入っても平気でいられるのでした。

 ホテルなどと言う宿に入って少し落ち着きがなくなったようでした。それより車椅子の生活に入るのですから。この旅行も息子夫婦に強く勧められましても、どうしてもその気になれないので断り続けていました。

 二人が言うのに、お母さんの夢だった北海道に連れて行きたいと言って少しではあきらめない様子なので、特に加寿子さんはそのように見えました。主治医の中村先生のお話しましたら、先生は、「よい機会と思いますよ。」と言われました。それでは申し込みをすると言われ、このようになりました。

生まれてはじめての飛行機

 翌日小牧の飛行場より生まれてはじめて飛行機に乗り込みました。窓側の私は外ばかり眺めていましたが、息子は目ばかりつぶって黙っていました。外に見える雲は地上より見上げる空が真下に動いているように見えるのです。感じたのは、宇宙は上も下もないのだと思いました。

 海岸線が見え出して島影が見えてきました。いよいよ北海道にきたのだと思い、なんとなく心が躍ってきました。
広い大地、山や丘、小さな農家の屋根、はじめて見た風景は忘れることはないでしょう。

北海道のラーメンはおいしい

昼飯は何を食べるかと言うので、ラーメンと申しましたら、以外に息子は、ここへ来てそんなものをとつまらなそうです。私はなぜか譲りませんでした。早速運ばれてきたものは大変豪華なものに見えました。また味の良さ。私は半分も食べられませんでしたが、値段を聞いてその安さにはまた驚きでした。後になってもあのラーメンのことは語り草になりました。

観光タクシーでの旅、層雲峡で一泊

 迎えにきてくれたタクシーは、あまりのよい感じはしませんでしたが、趣を変えさせてもらいまして、車の余りない道路をずいぶん走り、第一夜は層雲峡観光ホテルでした。

 あてがわれた部屋は、大変に広い和室でくつろぐことはできました、一人部屋に残されて、もし帰ってこなかったらどうなることかと案じていたら、眠れぬままに案じていたら帰ってきましたのでぐっすり眠りにつきました。

二日目は北海道を突っ切りオホーツク海へ

 翌朝、迎えの車が来て出発です。大雪山国立公園温泉郷とかいって見たこともない岩山より滝の帯が流れて落ちてみごとなものです。走っている道路の端には、狐が猫でも見るようにあちこちに見られ、手で触っている見物人もいました。サロマ湖、網走刑務所博物館などを見学したことを覚えています。サロマ湖のホタテの昼食はおいしかったです。途中「この川は鮭が上がってくる川だ」と説明を受け見てみました。その日は、知床の魚屋さんからカニを送ったりしながら、宿に着きました。

どこでもそうですが、車椅子で食堂に入るので係りの人がよいテーブルに案内してくれて、食べ物を運んでくれたり、盛ってくれました。非常に食べ物がおいしかったです。大広間にはいろいろの家族がいて眺めているののも楽しかったです。

知床ホテルでの忘れられないこと

その夜の事だったと思われますが、最初から大きなお風呂は嫌だと言っているのに、俺が待っているから入れと言って、私が入るのを待って車椅子を残して自分は男湯の方に行きました。お風呂から出て、待てども待てども現れません。通りかかった客人にフロントに頼んで、「母親が待っている」ことをアナウンスしてもらいました。それでも現れません。ホテルの従業員の人が大風呂に行き大声で息子の名前を呼んだみたいで、やっと息子は気がついて飛び出してきて忘れたことを笑いながら詫びるのでしたが、本気で怒っていた私は「許すことはできない」と申しました。親のことなどすっかり忘れてどこかの旅行客と話し込んでいたとか。

三日目は湖水めぐり

翌日は何事もなかったように迎えの車に乗り込みました。湖水めぐりで摩周湖のほとりまで行きましたが、霧に包まれた湖は見ることが出来ませんでした。記録映画とほかの写真を見て、あきらめて帰りました。
 地獄谷にたちこめる硫黄かまたは霧がすざまじい眺めでした。あ
の頃その近くで観光客が遭難したとか聞きました。あの日は湖回りが多く、屈斜路湖湖水の端に温泉が掘れば出てきました。掘ってそこでお湯につかる人もあるとか、その後もありました。その後オンネトウ湖を見て、その日のみやげ物を専門店でまとめて送りましたが、安いように珍しいものが買えました。昼飯のとき運転手さんは、きれいな花や匂いのある草を持ってきてくれて私を慰めてくれました。また、車の中にもハッカの液を持っていて、時々嗅がしてもくれました。道路は広く、車の数も少ないので、それにプロですので私たちはつい眠ってしまうのでした。起こされてこれといったところろを見せられてまた走るのでした。

阿寒湖で一泊

「さあ天下の阿寒湖だよ」と起こされてホテルに入る前にアイヌの人たちのみやげ物のある場所を案内してもらいました。アイヌの若い人たちは彫りの深い面立ちを想像していたのですが、年寄りだけ見られました。ある店でお母さんとお揃いのシャツを買ったらどこから来たのか聞きますので、長野県ですと言ったらりんごの取れるところですねといいました。乗っていた車椅子の有るところが外れたら、お店の若者は家の中に入って道具をもってきてくれました。息子はどうしたのか黙って借りて傷んだ車を直して礼も言わずに道具を返しました。私は厚くお礼を言いました。

 湖畔を車椅子を押して散歩をしていたときです。若者の一団が私を見て大笑いをしていました。若者から見たら、車椅子を押している老人を見たら笑わずにはいられなかったのでしょう。息子は若者たちのお前にたちはだかっって「俺のお袋だ、笑わなんでくれ。これでもな、大きい家に一人で自立しているんだ、誰にも頼らずにな、笑わなんでくれ」と大声をあげていました。若者たちは黙って立ち去りました。気弱な息子がと驚きの一こまででした。これが最後の夜と思い、内風呂で大湯にしてゆっくりと入りました。

その夜、諏訪の花岡のみち代叔母さんの訃報が入りました。ずいぶんと親子でかわいがっていただきました。姑の妹さんにあたる叔母さんでした。翌朝は最上階にある混浴のお風呂に連れていかれましたが、誰もはいっておらず一人でゆっくりと浸かってくることが出来ました。

四日目は広大な北海道を走り抜ける

出発のとき、襟裳を忘れずに見てくるように言われました。その日のことははっきり覚えていませんが、車でひたすら走っていったのかしら、峠をいくつか越えたりして、これが襟裳岬だよとと言われ、トイレ休憩などしてある有名な音楽家の家だとか、有名人の牧場だとか案内されました。

予定の時間ぎりぎりに飛行場に着きました。小用を足したりしているうちに、お世話になった運転手さんにお別れも言うことが出来ませんでした。息子は言ったかもしれませんが、心残りがしてしまいました。日の入りの中を出発しました。

飛行機に乗り込み、機長の挨拶の中に救命具の付け方などのことが述べられて、もしかしたら、地上に降りられないかも知れないと頭の中をよぎりました。息子は相変わらず眼をつむったままでした。夜に入り暗闇の中を名古屋に向けて飛行しているのです。地上に明かりがちらほらしてきました。もう到着かしらと思ったら、息子が今ごろは松本の上空かもしれないと言いました。本当にそうだったかもしれません。しばらくしていよいよ小牧に着きました。乗客の中には小さな子供もいて、迎えにきていた家族の者に面白くなかったと言って苦笑させていた家族もありました。

名古屋で一泊、川島に帰る

私たちは、大きなホテルに予約済みで大変豪勢な夕食が待っていて、何にも教えてくれていなかったので、ただびっくりしていました。生まれて初めての歓待に感謝のみでした。朝食も大変なものばかりで、ゆっくりとかみしめていただき、花岡への義理もあるので飯田には寄らずに川島に直行しました。町の老人施設に車椅子を帰して、小野のゆきえさんに土産物を渡し、途中で昼食を食べて、すぐ息子は花岡に向かいました。私は我が家に無事帰ることが出来ました。予想だにしなかったことの出来ましたことを実現しましたことは、みな息子夫婦の骨折りでありました。ここに感謝をこめて終わらせていただきます。

宏江

(注)襟裳岬には今回時間がなくて行かれませんでした。 嘉秋