義父 勘一さのお思いで  矢ヶ崎宏江

 

50以前のことなので、忘れたことが多いと思われます。 私を喜ばそうと思ってか、自慢話なのかは定かではありませんが、「あんね、なあ家の中にまで水を引いてくれる。」とか、「脱穀機を買ってくれる。」とか、いつも聞かされていました。嬉しいけれど、夢のような話だと思いました。現実とは余りにもかけ離れていてまともに聞いていた者があったかしら。夢が大き過ぎて、始めてみても成功もありましたが、失敗もあったようです。莫大な費用と、労力時間と一人ではとても適わなかったと思われます。母親の得た財力は、みな、現金に換え南箕輪にある西天竜と言う開墾地を手に入れ開田を始めました。相当な面積があっとか。始めは人夫も、多く使う事もできたが、金も底をつきだすと今度は借金をせねばならず、どうにもならなくなりました。義母の話だと一度だけ、運送馬車で籾を運んで来たそうです。倉庫まで作って運び入れました。その後のことは知りませんが。家族全員で苦労の連続だったと思います。奉公に出された男の子供たちは、成人と同時に兵役に取られ、その頃、私が嫁に来たのでした。家族のためとはいえ、始めた義父より、それに従わねばならなかった義母の苦しみはいかばかりであったことかと思います。 宏江 03.1.31

その2
世間の目がどうあれ、義母はここを離れませんでした。子供たちの間では、おっか様が家を出たらと言っている者もあったことを聞いていました。義母には、それなりのものがあったと思います。現在、家が残ってこうして住んでいられるのは、義母のおかげと思っています。この家に導いてくれたのも義母でした。誰のおかあちゃんでもない。おれのかあちゃんだからなと。長男に死ぬ前に話したそうです。大勢の子供たちは、誰一人として、道をそれるものもなく、皆親孝行でした。主人は良く言っていました。親父は、先見の目があったかなあ。親父の言ったことがみんな実現しているものなあ。中谷線を車が通るようにしてみせる。道を広げて二つの橋は、土橋ではだめだ。板で葺いた屋根を瓦葺きにしたりした。水道も間もなくお勝手まで引く事が出来ました。馬車からトラックトなり、自転車は、オートバイとなり、自家用車になり農機具も、機械化して橋も、コンクリート橋にかわりました。義父はそれも見ることも無く、昭和25年の9月に自分で起こした、転落事故のために亡くなりました。又、子供たちへの、教育にも関心を持っていました。長女は女学校を卒業させました。長男も、進学させましたが、学資がつづかず退学させ奉公に出しました。真に残念に思われました。我が家で大学が合格したときに思ったのは、お爺様がいらっしたらどんなに喜んだ事かと思いましたよ。終わり 宏江    03.2.1