きよ大お婆様の思い出         矢ヶ崎宏江

 きよお婆様のことを、書いてみました。このことは私の姑、そのよお婆様より語って頂いたものを、記憶によって書きますので、事実とは異なっている事が多いと思われます。

 きよの人生は平凡なものではなかったことを、義母のかたらいですが、よくぞ生き抜いたものと、感激いたしました。その話を長男しましたところ、是非文章で残したいとせがまれて重い筆をとりました。

その1
 きよは、我が家わかたの、初代しんざえもんの長女としてうまれました。生後三日目に、父親をなくしました。母親は、野辺送りの墓より、実家にかえってしまいました。

そのことを、野別れといったそうです。生をうけて、三日して、両親とわかれ、そのごのきよは、どのようにして、生きたのでしよう。祖母や近所にすむ、伯母が大きくしたと聞いていたそうです。極貧にたえて成長したと思われます。なにを考えてか、金貸しを、はじめました。近所より、石垣積みの職人を婿養子にむかえました。大酒は呑むがよく働いたそうです。しばらく、子供に恵まれなかったようです。ある日裏口に子供を置き去りにされました。授かった子供と思い拾ったのでした。其の子供は聾唖でした。懐に、三文抱いていたので、歳を三歳としました。女の子でしたから、幸(こう)と名づけました。あるとき、幸の身内が引き取りに来たそうですが、返しませんでした。その後きよ夫婦にも、一男一女に恵まれました。こうはおしなれど、悧巧もので、幼き兄弟仲よく、働き者でした。また、容姿にも恵まれていたようです。娘盛りには男どもも群がったそうです。そっとかくれて、出産もしたそうです。働き者の、父親が風呂で急死してしまいました。つづきは、後便にて。 宏江  03.1.20

その2
 長男16歳のときでした。きよは、悲しんでは、おりませんでした。金貸しに、その才能を発揮して、家の再建と両立させたのでした。その頃の村の中の状態は、事情は、どのようなものであったのかは知る由もありませんが、それなりの、場所があり、多くの土地を、自分の物にしていきました。そのやり口、手口は、人は裏切らない、信用をを得ることだつたとか。その他には、神社仏閣への寄付などは、なにをおいても多くすることでした。末代まで、息子の名前が周りの玉垣に彫られることを見越してか、勘一の名前は見ることができます。長女の、ひゃくが、初孫を生んでその仕度を買いに行っている留守の間に、我が家は全焼してしまいました。春蚕の蚕です。はきたての、準備をしている時期でもあったのでした。
姑が、嫁いでくるいちねんまえのことでした。その間、きよたちは、どのような、苦難をしてきたことか。家の中には何もなかったと、義母言っておりました。寝る布団もなく、家の者は、古着のぼろをまとっていたとか。息子だけは、嫁の持参した布団をきることになりました。毎日飲むお茶も、めったに、買う事もなく、春先に山に行き、柳の芽をつんで蒸して乾かして、一年中の自家用にして、客人には、買い置きの、安いお茶をだしたとか。一年に使うお茶代も馬鹿にはなりません。きよは、そこまで考えていたのかしら。そして、モンペは履きませんでした。あれは着ている着物が皺になって痛むだけで、仕事をするのにかわりはないと言っていました。腰より下の肌は、蚊のくいめで埋まっていました。このようなことは、自分一人で家族の者には強いてはいませんでした。つづきは、後便にて    宏江  03.1.21

その3
魚や肉などには、気を使っていたようです。妊産婦には、惜しみなく食べさせてくれたそうです。そのせいか、大勢の孫たちも皆元気に育ちました。他の子供たちには、子守りにみさせても、長男の作三だけは、自分の背におんぶしていたとか。きよ自身は魚など食べず、二階にいる二十日ねずみの子供を探してきて囲炉裏で焼いて食べていました。こんなうまいものは無いと言ってもまねをする者はありませんでした。きのこの毒見もすすんでやりましたが、あてられたことはなかったそうです。今時の者に話しても、全部知っていてやったことでしょうにと言います。そして、親類の家に大変なことがおきました。其の家の、親父さまが仕事先で、ある娘に子供を作り生まれたが、籍も入れずに、二十歳となり、徴兵検査の通告があって、困ってなんとかしろと、かけあってきたのでした。当のおやじは頑として聞き入れず、お家騒動までになってしまいました。きよは、恩ある家のこととて捨て置けず悩んだことと思います。もう夫はいないけれども、私が引き受けようと言って自分の次男に籍を入れて、我家より徴兵検査に送り出したそうです。現代では、とても、考えられる事てはありません。現在建っている土蔵も息子と建てたものと思われます。又あとで   宏江    03.1.22

その4
 息子は、母親の意にはそわなかっみたいで、世間の衆に親が死んだら看てくれといっていたとかです。きよは、それで嫁に、俺が死んだら線香をあげてくれと頼んでいました。息子と二人で話しているときには怒るどころか、優しくうんうんと頷いていました。きよの、死後財産はもとどおりになってしまいましたが。それはそれとして、我が家には、誇りとする、先祖がありました。その血が、子供孫たちに、受け継がれているのです。忘れては、ならないことと思います。きよお婆様の事は終わりにします。できれば、こうおばあさまのことも残したいと思っています。今日も雪降りです。皆さんも風邪などに気をつけてください。   宏江   03.1.23