お幸お婆様の思い出        矢ヶ崎宏江

その1
 お幸お婆様に初めてお会いしたのは、嫁いで何日かたってから挨拶をかわしたのです。この家に、聾唖のひとがいることは聞いておりました。この人は、只働くためにいる人間であるとも聞いていました。他の家族たちからどのような扱いを受けているのかは想像も付きませんでした。なぜか、心配にもなりませんでした。これより、お婆ちゃんと書きます。お婆ちゃんのほうから、やさしい眼差しをいつも向けてくれました。日焼けのせいか、色黒で歯は一本もないので、頬骨は高く鼻は男性的な鷲鼻で、口はきんちゃくの口を絞ったようにしっかりと、つぼんでいました。小柄で筋肉質、骨と皮ばかりの感じでした。その中に、まなこは優しく輝いて見えました。言葉がありませんので、私に何を伝えたいのか、悲しいほどに伝わってくるものがありますが、返す言葉を知りませんので、頷いて微笑み返すと、納得といった表情をしてくれるのでした。お婆ちゃん、貴女は一番先に家族の一員として認めてくれたのね。この屋にとって2人は、生えつきでなく他家からの来たり者ですもの。嫁いでから主人の帰るまで、二年余りの間、実家に帰ったり、婚家に来たりで落ち着く間がなくお婆ちゃんとの思いではありませんでした。義父母からの話だと、家族の語らいは殆ど理解していました。この人は、聞こえないからと思わず、あたりまえの人と思って付き合って欲しいと言われました。このあとつづきます。    宏江  03.1.25

その2
私が、長男を身ごもった時、すかさず覚り私の身体に触り撫でながら、体をいたわって、良い子を生むようにと、そしてお守りをしてくれると仕草をするのでした。私に対して、精いっぱいの行為たったと思います。幸お婆ちゃんとのやり取りはすべて手話ですので、大変に驚きの連続でした。若さも、手伝ってか皆のやり取りをみて可笑しさが堪えきれず、大声で笑ってしまいました。家の者たちはどのように受け止めていたのかしら。新婚の、夫は、手話でやることはやめてしまいました。其の頃、食料事情は大変な、ものでした。農家といえども、田んぼのない我家では米の配給を受けていたのです。当時は、大豆の配給で硬い豆ばかりのお飯は歯のないお婆ちゃんにはひとたまりもありません。ある時、茶碗の中の、d大豆を指差して、これがだめだと悲しげな表情をしましたが何にもしてあげられませんでした。今にして思い出しても慙愧にたえない思いがします。なんで、お米のところだけよそってあげられなかっかと。間もなく、お婆ちゃんは栄養不良となり、自分の部屋からは出てきませんでした。一度だけ虱だらけの髪をとかしてあげたことがありました。よろこびを、いっぱいあらわしていました。いきあう人もあまりなく、寂しく死んでいってしまいました。         つづきはこのあとあまりさむいの。 宏江  03.1.26


その3
昭和21年6月24日、没、享年67歳。さだかの年齢ではないと思います。
お婆ちゃんはもとより頑健でした。それは、日本にスペイン風邪が猛威をふるった、大正9年のことです。親類の若者がそれにかかり死亡しました。葬式に、だれもよりつかず、墓に送るものも無く、きよお婆様や、幸お婆様、勘一さやわずかのひとで墓に埋葬をしたそうです。たちまち、我が家の大人たちは全員寝込んでしまいました。幼い子供たちは無事でしたが、他所の村では若者の死が続出していました。主に亡くなったのが妊産婦でした。義母も妊娠していました。近所でも、わかたに近寄る事をしなくなりました。日向の、者たちも、家の中に入る事ができず表の土手の上から、大声で必要なものを答えろと、叫んでいたとか。勘一さは看護婦を頼んでくろと言いました。何処からか派遣されてきました。病人はもとより、食事の世話から、子供たちの世話までみてくれました。義母の実家の男親は、捨て身で娘の婚家に泊り込み、使いばしりから面倒を見てくれました。幸いわがやからは不幸を出さずにすみました。その後、勘一、きよ、幸の三人は病気をすることは、ありませんでした。日向に嫁いだ御百さは、村一番の美人でした。その遺影をみても、其の面影をのこしています。小坂の坂でころんだら、お百さ来て起こしてくれると、当時若者たちの盆踊りの中に唄われたそうです。このことは、実家の祖母から聞きました。渡戸村まで伝わっていたのでしょう。そのお百さが嫁に行った時のことです。      つづく宏  03.1.27


その4
お幸婆様は妹に遅れじと、土蔵の鍵を隠して反抗を始めました。おきよお婆様は、他所の村に住む人に、五歳違いの人の後妻にもらってもらいましたが、間もなく泣いて帰ってきました。訳をきくと、まま娘たちがお婆ちゃんの持ち物を壊したりしていじめるので、婿殿はやさしくしてくれましたが、我慢ができずもう二度と嫁入りはしないと家に帰って来ました。義母が嫁入ってきてからずいぶんと意地悪るをしたそうです、。赤ん坊に添寝をして居眠りなどしていると拳で枕元をたたいて起こしたりしました。きよお婆様はそんな時、あれは普通でないからといって慰めてくれたりするので、自分の胸を叩いてくやしがったりしました。義母に二人目がうまれたとき、上の子が先の子の母親の乳を欲しがるので、お婆ちゃんは自分の乳房を含ませているうちに経産者でありましたから、乳がでてきました。後から後から生まれてくる大勢の子供たちの世話を我が子の様に可愛がりました。きよお婆様の亡き後、我家の財政はかたむき、借金に追われ食うや食わずの日々もあったとか。夫婦喧嘩はつづき、おやじさまは、暴力をふるうので義母は、実家に助けをもとめに。 大勢の子供たちは、お幸お婆様の優しさだけに頼っていたと思われます。ある時、取り灰から火がでて外便所が焼けてしまいました。お婆ちゃんは自分の不始末と思い、密かに貯めていた小遣いを差し出しました。   続く宏江     03.1.27


その5
感激した義父は、コンクリートで溜め桶を作りました。当時としては珍しい物でした。表に一軒の便所としてはあまりに立派な作りで、家族のやすらぎの場所でもありました。長男は、屋内のは使わずそこを使っています。遠来の客人は、皆して小遣いになる心遣いを、お婆ちゃんに与えました。自分では一銭も使わず貯めていました。隠し場所はぜったいに、見つかりませんでした。家でどうしても入りようなときは、すかさず悟り差し出したそうです。あるとき、噂にあのお婆さんは、わかたの救い主であったと。同時に受け入れた、先祖の心意気でもあったと思います。今は亡き義弟の隆人さんは、自分は幸さんに、大きくしてもらったから、大きくなったら必ず恩返しをすると、奥さんに語っていたそうです。それも適わず、隆人さんも早死にをしてしまいました。後に続く子供たちも、立派に、成人しました。お婆さん、一族のこれからのこと、見守ってください。有難うございました。おわり   宏江  03.1.28