歌子義姉、夫との旅の思い出

その1

それは、昭和五十九年十二月三十日の朝でした。朝三時半、目も覚めきらないが起きる。お父さんやお姉さんは押入れに布団を入れ始めていた。気温は大分下がっているのか、たちまち頬が冷たくなった。ストーブを焚くのはやめにした。ガス栓は昨夜のうちに止めてあるので温いお湯で、お茶とコヒーをいれたがまずい。炬燵の始末をして、予定の四時半に会社の駐車場を出発する。昨夜雪が降ったのか、庭も道路も真っ白である。見送る人もない中を飯田インターに向けて出発。道路に出ると、お父さんが緊張した姿が感ぜられた。間もなくインターに入り車は少ないが皆スピートを落としている。名古屋に向けて。反対車線は車も多くて、何台の大型バスが動いているのかわからぬほどノロノロなので、あのバスは普通タイヤかねえ、トンネルぬけるとそこは雪だったみたいに、お父さんはそんなことはねえさ、プロだものなんて、会話をかわしながら網掛けトンネルの、明るい中に入ってホットする。ああ、これから旅がはじまるとゆう実感がわいてきた。

5月13日        宏江

その2

今度の旅はお父さんの長年の夢でした。それは広島行きでありました。トンネル内は眠ったのか、目を覚ますとトンネルの出口でした。雪はまだやまず上り線は渋滞でした。夜は、まだ明けてこず一台二台と追い越しながら、一路名古屋へと。高速路を多治見インターより出て、愛岐道路へさしかかっころ夜も明けきり、ちらほらと雪が舞っていました。大森の嘉重叔父さんの家に着いたのが午前七時頃でした。皆さん待っていて下さったのでした。お父さんはテーブルで一杯が二杯になり、すっかり出来あがってしまいました。若いお嫁さんに冗談を飛ばしたりしていました。持って行ったおにぎりにお漬物など頂き、朝食を済ませて甥の圭ちゃんに、自家用車で名古屋駅まで送って頂きました。名古屋の街の道路は道幅が広い。いつもなら車で一杯になるよと、叔父さんは話していらしった。駅に着いてすぐに新幹線ホームに上がると、叔父さんはカンビールに昼食のお寿司、それにこれから車中で食べる弁当の費用まで下さいました。ご厚意に感謝しながら列車が入って来たので乗り込みました。指定席の人にたしなめられて、いそいで飛び降りる始末でした。

5月14日        宏江

その3

お父さんは旅の恥はかき捨てなんて、ごまかそうと言ってましたが、やたら乗ってはだめだよと笑っていましたが、ふと、私は赤くなってしまいました。次に来た列車に乗り込むと、叔父さんはいつまでも手を振って見送って下さいました。別れる時に言って下さった言葉、最初よければ終わり良しと言うことを、そのようにと念じつつ、列車は広島へとひたはしる。山の木は重そうに垂れ下がり、農家の屋根の雪は、大変な厚みでした。ここは何処かしらと尋ねると、彦根のあたりでしょうと、お姉さんは答えました。もう、滋賀県と思いましたが、名古屋から乗ったんだと思いおかしくなりました。20年も昔、東海道線で大変な雪に、驚いたことを思い出しました。頂いた弁当をいただき、瀬戸内の海をまばらに見て、雪のため、到着時間が遅れるとアナウンスされたにもかかわらず、予定時間きっかりに広島駅に到着しました。十四時10分でした。

5月15日      宏江

その4

お父さんの語るところによれば、駅舎の天井は抜け落ちて、柱は折れ曲がり、線路だけが残っていたそうです。爆弾投下されて一週間後、このホームに降りた時の記憶だそうです。温かい列車から降りたせいか大変な寒さを感じました。駅前のバス、タクシイ乗り場の少し広い所を抜けて市内電車の乗り場まで歩きました。四十年前、私もこの電車に乗ってお父さんのいる暁部隊まで行きました。電車道の両側は、大小、のビル街に変わっていました。お姉さんは、広島に来たのねえと何度も感慨深げにおっしゃいました。お父さんも、私も言葉はありませんでした。しばらく乗って、原爆ドーム前で下車してドームの前にたちました。大きな川のほとりに、崩れないように補強してありました。この中におられた人々は生き残れなかったでしょう。大勢の犠牲になられた方々のお名前が刻んでありました。すぐそばにに架かった巨大な相生橋がありました。ここでも、大勢の犠牲者があったとか、後で写真で見ました。

5月16日       宏江

その5

この川の中にもと、おもっただけで寒さを感じました。川は清掃されていましたが、なにか見えないかと目を凝らしましたが砂に覆われていて何も見えませんでした。その辺に、焼き芋売りの小父さんは美味しいよ、買ってくれと大声で客を呼んでいるのですが、皆通り過ぎていきました。私達も時間に追われるように買わずじまいでしたが、何時までも食べたかったと思っていました。暮れの三十日ということもあって人通りはまばらでした。あちらこちらの碑の前には千羽鶴がかけてありました。慰霊碑の前には新しいお線香と、お花が供えてありました。又ドームの上には雀より大き目の鳥が無数止まっていました。外人の若者達の姿も多くてカメラでとっていましたが、お父さんに向けられているように見えました。あちらむきの面立ちのせいかと思ってみました。そこより少し離れた所に学徒動員で犠牲になられた方々の慰霊碑が建てられていて、その中に松本商業と、丸子実業出身の2名の方のお名前がありました。川を挟んで向かい側が平和公園になっていました。それぞれの記念館は休業であったため残念でしかたがありませんでした。

      5月17日      宏江

その6

タクシーに乗って比治山へと向かいました。街は近代化されて、道路もずっと広くなり綺麗になっていました。運転手さんの話ですと原爆の落とされた時は、小さな子供の頃で記憶は無いと言っていました。現在の広島県の財政は財政難だといいました。あの頃の比治山は土埃の坂道を登ったのにそれも下駄ばきでした。今は舗装されていて、見晴らし台まで送ってもらう事が出来ました。すぐ目の下に暁部隊が見えて、兵隊さんらが、訓練を受けているのが見えました。だのに、何処に部隊の建物があったかさえわかりませんでした。宇治港も、すぐ左手に見えるのに其の記憶さえありません。眺めたのが場所が違っていたかも知れません。お父さんは、少しは覚えているようにも見えましたが、分からないと言いました。ビルが林立していてこれが公園かと思いました。広場の赤茶けた土の色は昔見た其のままでした。帰りもタクシーを拾い目的の宿に向かいました。運転手さんに何を聞いても記憶に無いとのことでした。宿ではお姉さんと2人でゆっくりと湯につかりました。結構な夕食を、頂きました。

      5月19日       宏江

その7

今までは、暮れといえば只忙しく、そして寒くてこれが当たり前とすごしてきたのに、申し訳のないような年の瀬で、一生に一度でもいいからこのような時に恵まれてと、お姉さんと話しながら夕食を終えました。嘉重叔父さんから、先にお電話をいただきまして申し分けなく思いました。お姉さんと、それぞれの子供他たちに電話をして床に着きました。薄い布団でしたが、部屋が暖かいのでぐっすりと眠る事ができました。朝食をすませて、さあ、出発です。広島駅まで歩いて五分と言うので徒歩で九時に宿を出ました。爪先に痛みを感じてしまいました。旅なれぬ身に靴のことを疎かにしていました。東海道線、宮島口下車、厳島行きの船に乗り、15分で島に到着しました。乗った船が違っていて、改札口で下船を許してもらいました。なにがなにやら、さっぱりわからないまま、感謝しながら安芸の宮島に着きました。あまり人の影はたてこんでいませんでしたが、鹿の群れが出迎えてくれました。あちこちに立て札を立ててあって、鹿に餌を与えないようにとしるしてありました。

          520日            宏江

その8

どこからが境内なのかしらと思ってあたりを見回すと、立て札があり中学と役場の所在地のしるしがあり、厳島町とわかりました。立ち寄った土産物店で伺いますと、この町にはレンターカーは無いこと、そして島めぐりは歩いてもらうこと、一日では無理でしょうとのことでした。

年寄りにはとても無理と思いました。喉が渇いてきて冷たいビールのおいしかったこと、お姉さんは温かい牛乳を飲みました。鳥居をくぐると、目の前の海の中に赤い大鳥居が立っていました。自然の大木を使ってあるので太さが不自然であり、こぶこぶとして見えました。何年経ったら取替えをするのかと考えてみました。潮の引いたあとの砂の上には、一センチ四方の小さな穴が無数あいていました。拝観料を払ってなかに入ることができました。回廊があちこちにめぐらされて真っ赤に塗られていました。足元まで海水の跡が残っているので、ここまで水がつかってきたら見事なものだろうと思いました。歩き回っているうちに姉さんを見失ってしまうこともありました。二人でおみくじを引きました。お姉さんは大吉、私は長吉でした。今度は宝物殿へ、拝観料金は忘れました。書画、刀剣、装束、それに、日常使われたと思われる物、すべてが、由緒ある物、平清盛公にかかわりのある物と思われました。我々の後先に一人の老人がいったりきたりしていました。撮影は、お断りとなっているので写されると思ってかしら。海風の強い中を、潮が引いた砂の上を歩いて社を後にしました。売店の並ぶ道路に出てとある食堂にはいり、うどんを食べました。   

521日        宏江

 

その9

うどんの入っている丼の形は細長くて、なかなか冷めずらいものでした。そして、お汁とかきが抜群に美味しかったです。御酒の銚子の大きく値段の高いのにも驚きました。一本600円ですって。2本も飲んでこれも驚きました。記念写真を撮りながら、船着きばに向かいました。島は2年参りの用意に忙しさを増しているようでした。もみじ饅頭を作って売っている店が何軒もあって、お土産に買いました。今度は間違わないように、乗船して、宮島口駅に降り立ちました。ゆっくりし過ぎた感じでした。13時40分に海田市行きの列車に乗り込みました。お姉さんと、お父さんはしきりに時刻表に目をとおしていました。幼き頃の言葉づかいとなって、喧嘩ごしとなっておもわず笑ってしまいました。海たいち、乗り換えと言うのに、今朝からの足の痛みが進んできました。このホームから乗れると思ったのに、駅員の人は5番でなく3番線と言う、階段を上ってゆくと運転手は、5番だと言った。5番に帰ると、又3番だと言う、階段を上ったり下りたりで、足は棒のようとはこのことかしら。丈夫なお姉さんのことが心配になって来ました。今度は、赤線の入った帽子の人に聞いて、3番線ホームで糸崎行きに乗ることができました。乗り換え時間が3分と言うので、向かい側に渡るのが精一杯で連れの姿を見ている暇がありませんでした。電車に飛び込みました。シルバーシートなるものに、倒れこみました。お姉さんの事が心配になって見回すと、席は取れたようですが、一緒の所に来ました。外は夕日で真っ赤でした。横浜で眺める夕日も、このようだと言いました。まっかに染めて其の姿を消しました。         

522日         宏江

その10
瀬戸の海は池の面を思わせておだやかに59年の12月31日は今をもって暮れていきました。倉敷に着いたのが十八時でした。駅の灯がとても綺麗でした。大勢の人々であふれていました。これから、今夜の宿鷲羽山まで行くのにバスで一時間半の乗車時間の予定です。バスの乗り場の矢印向かって歩き始めると、どこにそんなことがと、お父さんの声はとげとげしいのでした。大分苛立っているようでした。一緒になって間違っている方が良かったかもしれません。下電バス乗り場へ着くと係りらしい老人が首だけ出して、どこまで行くんだと、どなっていました。鷲羽山と言うと、車の中で話をしろと言ったので一番奥の座席に3人並んで席に着きました。乗客は少なくがらんとした感じでした。明るい通りは少なくくねくねとした道路を、それも、暗がりを進んでいきました。ときどきバスは止まり、客が乗ったり降りたりしました。ガソリンスタンドの、従業員だけが忙しそうに働いているのが見えました。スーパーなどの灯りはついているのだが人影はまばらでした。明日からは商店は休みだからお土産を買う事はできないなんて考えられました。そうこうしているうちに、乗客は、私達だけになったので、運転席の後ろに席を替えました。狭い横道から出て来た車は、バスの前に出る。危ないと、こちらが叫んでしまいました。道の両側には、何台かの車が置いてあるのでした。バスは、ハンドルをきりながら、スイスイと進んで行きました。今度はオートバイが追い越していく。なんたることかと思いましたよ。松林のなかに小さなバス亭があってそこで降ろされました。

       5月24日       宏江

その11
そこが終点でした。暗がりでしたが、ひとまわりして行くと下の方にホテルの灯りがみえてきました。下電ホテルと電気で横に大きく標されていて、今夜泊まる宿なのです。足の痛みはすっかり忘れていました。玄関を入ると、ボーイさんたちが大きな声で、いらっしゃいませと出迎えてくれました。広いロビーには、客の影は少なく、他の客は夕食が始まっているようにかんじました。古いホテルの廊下が長くて、いくつもの部屋のまえをすぎて、104号のへやに案内されました。お父さんは部屋にはいるなり、窓を開けて目のまえが海だよといい、暗い海のうえに赤い電気が点滅していました。係りの、仲居さんは些細にわたって説明をして出ていきました。浴衣に着替えてすぐに風呂に行きました。広い風呂は、薄暗い灯りのなかにありました。入浴者たちは、関西弁ではなしていました。ジロジロと見られることもなく、私たちも、勝手に話しながら湯につかりました。鍵を持っている事に気づいて急いであがってくると、お父さんもつづいてあがってきました。まってましたとばかりに、夕食が、いっぱいにならべられていて、みるだけで満足を覚えました。其の間に、名古屋の叔父さんに、お電話をしました。あちらでも御歳取りが始まっているらしく、かわるがわる電話に出てくれました。子供たちには明日元旦に挨拶をすることにしやめました。
             5月26日          宏江

その12
テレビに100円入れると、歌合戦は終わるところでした。7時半に朝食というので、6時半に起きてしばらく海岸に出てみました。散歩の人の姿もあって子供たちは半ズボンでとびはねていました。7時15分、島の山から初日の出です。太陽よ、あそこあそこと、大声を出しました。2人は急いでカメラを向けて撮っていました。砂の上には大勢の人が写真を撮っていました。始めてみる海からの初日の出に手を合わせていました。風もなく暖かな朝でした。朝食は階下の大食堂でおせち料理にお雑煮お銚子もついて、結構な元旦の料理をいただきました。フロントで、少し買い物ができました。8時20分発のバスに乗り、岡山へと向かいました。二時間近くの乗車時間は、とても長く感じました。小さな町やたんぼの中を過ぎて予定時刻に岡山駅に着きました。タクシーで岡山城に行きました。城の石垣の大きな事、はじめて見ました。お姉さんは、この石は朝鮮から運ばれたものだと話しました。又足がうづきだしました。手荷物とバックをタオルで結び肩に振り分けにして、やっとこさで坂を登って行くと、先に行った二人はもうばてたのかと言って見下ろしていました。足が痛くてと言いながら、坂をのぼりきることができましたが、城に登る事はやめて後楽園内に、入りました。入るのに大きな堀を渡っていきました。ボートが、何艘も浮かんでいるのが見えました。入り口は狭いけれども中に入っての驚き、池あり、橋ありで池には無数の鯉がおよぎまわり、芝生はきれいに刈り込まれていて、どこまで続くかと思われる広さでした。緑の庭木が林のようにたちならび、茶ばたけがどこまで続くのかしら、みるみる人の数がましてきました。
        5月28日       宏江

その13
芝の青い時に来ていたら、どん何か見事なものなのしらと思えました。お父さんも、お姉さんも何枚か写真を撮っていました。古い大きな石があってしめ縄がかけてあったので、私も一枚パチリ。後楽園を出てタクシーで岡山駅に向かいました。時間が忙しいので、おすしとカンビールを駅弁で買い、駅のホームへと走りました。7番線に上ってみると、其の列車は来ていません。アレ、来ていねえじゃあねえかと言いながら、2人は駅員の人を探しました。尋ねて聞いたのか、お姉さんはこっちよと言いながら7番線を走っていきました。一番はしっこに赤穂行きの列車は我らを待っているかのように止まっていました。息をきらして乗り込むと乗客たちはいっせいに視線をこちらに向けていました。弁当のおすしは卵や、しいたけのちらし寿司で大変においしく、それに、入れ物が気に入り途中まで持って来ましたが、途中の宿に置いて来てしまいました。乗車時間一時間で、ばんしゅう、おかうと、ひらがなで書いた駅に降り立ちました。小さな駅でした。お目あては徒歩で15分とあるが足が痛むのでタクシーに乗りました。駅の周りには、どこへはタクシーで何分とか、立て札が沢山ありました。運転手さんはコマゴマト説明の後、義士の菩提寺に案内をしてくれました。我々の他にお参りをしている人はありませんでした。ここを参る人は少ないと言ってました。芝高輪の泉岳寺は、あまりにも有名で、線香の煙にむせ返るほどなのに。きれいに清掃されてはいましたが、線香は一本もあがってはいませんでした。タクシーを待たせてあるので手向けることもせず、大石神社で降ろされました。其処はまた大勢の観光客でこったがえしで、露天が立ち並んでいました。社までは道のりがあるように見えましたので、門のところで引き返しました。昨日も今日もお天気に恵まれました。バス亭の確認をしながら、駅まであるが足の痛みはどくなってしまいました。

        5月30日            宏江

その14

どこかにスリッパでも売る店がないかとみまわしながら歩いていました。玩具や、本屋は開いていましたが全部店は閉まっていました。立ち止まって、お父さんは何をしているのだと怒鳴るので、人の痛さは分らんからねなどと言い返せば、ねえものは、ねえんだといいながら駅に着きました。喉も渇いてきたのに、コヒーを飲む所も見当たらず、風どおしのよい駅は寒くてたまりませんでした。待っている人達は其処の方言で、寒いと言う言葉らしきことを交わしていました。バスの発車時刻を勘違いしていたのは我々でした。すぐに乗車ができて、乗車時間は20分で御崎に着きました。そこは、傾斜地で坂道を登ると、入り口を閉ざしたあやしげなバーが一軒、そしてフイルムを売っている土産店が一軒ありました。そして、旅館に着きました。自然石の石段をのぼって玄関を入ると、農家のそれと思わされました。スリッパが、20足ばかり並んでいるので、旅館かと思えるのでした。しばらくして、仲居さんさんらしき中年の人が出てきて、部屋に通されました。瀬戸の海が目の前に広がり、其処は港かしら、タンカーが一隻浮いていました。展望は非常に良いのです。部屋は古いのですが、間取りは広くていいのですが、明るさに欠けていました。ベランダと言っても、石がしていあってスリッパも置いてありませんでした。温泉と言っても沸かし湯とかで、男風呂は外なのでお父さんはそこで新しい下着を全部とられてしまいました。女風呂はロマンス湯とか入り口には大きく書いてあるのですが、湯船は三角の小さな物で、子供たちが大騒ぎをしているのでなんたることかと思いました。

     5月31日           宏江

その15

夕食のご馳走たるや大変なものでした。であったことのない料理で、海から上がったばかりのような鯛があわびを枕に頭を立ててびっくりしてしまいまいた。お父さんは岩だと言って最後までゆずりませんでした。15センチもある、えびの姿焼きなど。そこに牛肉が出てきて、もう見ただけで堪能してしまいました。大きなテーブルの上は置き所のないほどに、海老あり、カニはありで、食べきれないご馳走を子供や孫たちに食べさせたいと思ったのは私だけではなかったでしょう。土産話にしょうと思いました。もっと、食べたらと言われても残念ながら半分ぐらいは残ってしまいました。旅館代も、普通の3倍も取られました。夕食後、子供達に、電話をしました。とても心配をして待っていてくれました。お姉さんの、子供さんたちからは心のこもったお礼の言葉をいただきました。お姉さんからは何事につけても良かったねえと、ねぎらいの言葉をいただき、その一言がどれほど私達を力づけてくれたか知れませんでした。夜はぐっすりと眠る事が出来て早く目覚めて、帰り支度をして忘れ物の無いように、その間海より昇る朝日をお姉さんと拝みました。後ろで仲居さんが日の出は思わず手を合わせてしまいますと言っていました。本当に神々しいと感じました。宿を8時に出発、出迎えも無ければ見送りもなく、まただらだらと坂を下ってバス亭で待つこと20分。赤穂駅に着きました。ホームを向う側に渡ると列車は入っていました。中はがらがらすいているのです。反対側に京都行きの快速列車が入ってきてずいぶん乗り込んでいるようです。網棚に荷物を乗せていると若い駅員さんが入ってきました。

     6月1日           宏江

その16

姫路に行くのなら京都行きに乗ったほうがええで、出発も早く出るし、姫路まで各駅停車でなく早く着くよと、教えてくれました。国鉄にもこのような親切な人もいたのかと思いましたよ。尋ねても、調度に教え暮れる、人が少ないと思ったのに。以前に横浜駅で私鉄の乗り場を尋ねたらあっちと指差すので行って見たけれど、遂に見つかりませんでした。新聞の投書にでていましたよ。国鉄のあっちは、どっちだと。見習ってもらいたいと思いました。おかげさまで早くつくことができて大助かりでした。いまもって感謝しています。姫路駅には、10時頃つきまして、これよりお城めぐりです。タクシーにて、白鷺城へまいりました。城は遥か向こうに見えるのに降ろされました。前庭は公園になっていて各種の武道大会があるらしく、老若、男女が練習をしていました。入場料を払って荷物はロッカーに預けました。そこより石段を登りはじめるのです。この城は巨大な岩石の上に築いたのか、石垣の下には岩がのぞいていました。これなら大地震がきても大丈夫と思いました。城の由来を読みましたが確かなことは覚えがありませんでした。千姫が住んでおられて曲がりくねった狭い石段をどのようにして出入りをしたのかしら。狭い国の中での勢力争いのなかに智慧を集めてのことと思われました。其の中に生きた庶民の生活は、どのようであったのかしらと考えさせられました。自然石を土に埋めてかなり急な石段を下りて、足が痛むので城の中に入るのをやめました。この大きな城も250円でなく250万円で売りに出されたとか書いてありました。

     6月2日        宏江

 

その17

矢印にそって出口に向かいました。途中に「おきくの井戸」という立て札があり、其のまわりに大勢の観光客が取り巻いていて、説明を聞いていました。記念撮影をしている人もありました。中に侍姿の人形がとおもったら、突然動き出して大笑いをしてしまいました。そして、入り口の公園に来ると広い園いっぱいに広がって、武道大会は始まっていました。横目で見ながら、出てすぐにタクシーを拾って姫路駅に向かいました。そこで、少しの買い物ができて漸く靴を買う事ができました。履き替えると、こんなに楽になれるものかとつくづく、思いましたよ。昼食のお寿司も本当においしかったです。頂いたお昼代も足りて幸せでした。新幹線乗り場までの道のりは長かったのに、足が楽なので少しも感じませんでした。13時58分發にて乗車、14時20分に予定通り名古屋駅に到着しました。もう半分家に帰ったよぅな気分になりました。地下街の嘉重さんの店の前まで来た時階段を叔父さんは下りてきて迎いに出たけれどまにあわなかったよ。大きな声でお帰りなさいと言ってくれました。ただ今かえりました。叔父さん本当に有難うございました。無事に帰ってこられたのです。世話をかけた、お姉さんお父さん。本当に有りがとうございました。お店でまたビールをご馳走になり、地下鉄で、叔父さんの家に今夜はご厄介になる予定なので、途中下車してバスに乗り、バス亭から歩いてお宅に到着いたしました。

     6月4日        宏江

 

その18

夜は申すまでもなく、家中で心のこもるおもてなしを頂き、宿では味わうことのできない安らぎを感じました。ご夫婦のやりとりも心の底から笑い転げて、旅の最後を飾る一夜となりました。3人で枕をならべて休んだのに二人となってものたりない気分でした。朝起きたら敏明君は、信州は雪降りかも知れないと案じていました。飯田に電話で聞くと、5センチぐらいの積雪とのことでした。朝ご飯を頂き、帰途に着きました。途中でお姉さんのお土産を下ろすのを忘れたのに気づいて引き返しました。お姉さんは、関東の子供さんの所に行かれるので叔父さんの家で別れたのでした。引き返して来たので何事かと驚いていました。1時間ぐらい送れて多治見から高速道路にはいり、一路飯田に向けて走り、馬込で休息を取り、12時近くに飯田インターに無事着きました。街で孫たちにお土産を買って、上飯田の家に着くと、中野のお母さんと嘉秋の迎えをうけました。家中で喜んでくれました。ささやかな土産物に、孫たちはやったー、やったーと、はしゃいでくれまして、またも喜びでした。土産話の後、此処センターに帰りましたのが午後三時でした。新雪を踏んで館内に入り、原総務部長に無事帰館しましたことを電話で告げました。60年1月3日午後3時でした。終わり

     6月6日         宏江