アポロのタロット占い

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Tarot FILES #2

Farewell

「この前、ハッサと会って少し話をしました。イモチャがアメリカへ行く前に会ってゆっくり話がしたいって言っていました。」

最近めったに手紙をよこさなくなったタナカから久しぶりに手紙が来た。ハッサのことが書いてある。しかし、ハッサもいいかげんなもんだ。オレは既に何度か手紙を書いてやったのに、一度も返事をよこさなかった。今になってようやく「話がしたい」だなんて。……この四年間の、いや、それ以上の空白をどうやって埋め合わせようっていうんだ。

とにかく、オレは一ヶ月間ほど休暇を取って故郷へ……ただし、実家に帰るつもりはまったくない。仲間の待つ故郷、オレの記憶の中で化石となってしまっている故郷へ足を運ぶことにした。

退職までの一ヶ月間をすべて休暇にするのはそう簡単ではなかった。一月に起こった地震の災害派遣がまだ続いていたからだ。幸い、持続走で優秀だったことや、長い合宿生活を送っていたこと、実家が遠いことなどを理由にどうにか休暇の許しを得ることができた。ただし、週に一度、部隊に戻って休暇の申請をしなおさなければならなかった。兵庫と長野の間を毎週、五時間以上かけて往復しなければならない。ハッサに会うために。会って話したい事は山ほどあった。

オレたち三人は幼なじみってやつだ。小学校に入る前から高校を卒業するまでずっと一緒だった。それが今では三人ともまったく違った道を歩んでいる。タナカは信州大学の学生。現役で入ったから、この春卒業することになる。ハッサは高校を出てすぐ実家の花屋で働いてると聞いた。そして、オレは、ひとり地元を離れ、四年間、兵庫で自衛官をやっていた。金を貯めてアメリカへ行くつもりでいた。そして、その夢は実現しようとしている。

もう実家には三年以上帰っていない。故郷の伊那谷へは何度も足を運んできたが、実家には決して近づかなかった。アメリカへ行く前にも帰るつもりはない。自由を欲すれば、そこはオレにとって牢獄のようであった。

オレは伊那谷を愛している。久しぶりに故郷を訪れると、その冬の冷たく澄んだ空気と美しいアルプスの景色をゆっくり楽しんだ。それから、タナカとハッサに連絡を取り、再会を喜んだ。

オレたちは、今までのこと、そして、これからのことをお互いに語り合った。

タナカは高校の先生になるつもりなのだが、この年の採用試験には落ちてしまったらしい。それでも、うまい具合にチャンスをつかんで、卒業後の一年間は、ある高校で講師として仕事ができそうだということだった。

ハッサは……オレは、高校時代のハッサのこともよく知らない。なぜなら、当時、彼はかなりの期間、学校を休んで姿を見せなかったからである。どうも不可解な点が多く、その理由は今までずっと謎のままであった。その後のハッサは地元の人々と密着した生活を送っていた。それも、その活動の多彩さには驚く。

実家の花屋を手伝うかたわら、将来は自立して農業をやるつもりで米屋でも働いている。小さいころから三人とも剣道をやっていたが、ハッサだけは今でも続けていて、今では先生として子供たちを教えているらしい。つい最近、その剣道クラブを含むスポーツ少年団の部長の役を引き受けたという。この若さではあまりにも大役なのだが、「何事も経験だ」と言うハッサにオレは賛成した。さらに、ある日は、消防団の制服で現れて、「今、練習の帰りなんだ」と言ってラッパを取り出す。消防団に所属し、ラッパ手をやっているらしい。そうかと思えば、そのままの服で、「ちょっと用があるんだけど」と言ってオレを車に乗せどこかへ行く。一緒に来てくれというから行ってみれば、どうもそこは政治的な活動をする団体のミーティング所のようであった。そこでハッサは、そこにいた何人かの若者にオレを紹介した。

「私の一番大切な友人です。」

ハッサはそう言った。


翌週もオレたち三人は集まって、飲みながら話した。

「イモチャ、実家には帰らないの? たまにイモチャのお母さんと会って話したりするけど、えらい心配してたに。」

母はハッサの実家の花屋で働いていた。

「帰りたくない。帰るつもりはない。でも、だれも彼もが、『絶対に帰って親と話し合うべきや』って言うんだ。自衛隊の先輩や上司もしつこく言うし、ハッサやタナカだって……」

「そりゃそうずら。それがあたりまえだに。」

「僕は、イモチャが親と会いたくないって言うんなら無理に会えとは言わないよ。会って話したほうがいいとは思うけどね。」

ハッサはたいていオレの言うことに文句をつけるが、タナカはいつでもどっちつかずだ。

「それに、つい最近大阪の占師に占ってもらったんやけど、やっぱりその人もしつこく『親に会え』言うてきかへんねん。「会わんかったら夢に出て脅すで」とか言いよる。もううんざりや。」

どれほど説得されようが、オレは親に会うつもりはなかった。しかし、それから一週間、どうオレの心の中で変化があったのか、あるいはただの気まぐれか、信じがたいことに、とうとうオレは実家へ帰ってみようと決めてしまったのである。


「親と会ったよ。」

ハッサに会って話した。

「本当に! ほらね、とうとう説得に負けた。イモチャだって考えを変えることはできるんだに。それで、ちゃんと話はできた?」

「ゆっくり話してきたわけやないけど、はっきりと言ってきた。『アメリカへ行く。オレのことは忘れてくれ。オレのやりたいようにやらせてくれ』ってね。それで十分やろ。他に言う事なんてない。ところで、同級会のほうはできそう?」

オレがアメリカへ行く前に同級会をやっておこうと、ハッサやタナカと話していたのだ。四月一日に除隊。二日の朝、故郷へやって来て、その日の夜、小学校時代の友人たちを集めて同級会を開いた。懐かしい友人たちと再会し、心行くまで語り合った。

こんな話があった。

「タカシ、オレの負けだ。ちょうど十年前になるぞ。ケンカして、それがもとでオレは陸上を始めたんだ。いつかマラソンの選手になって有名になってやるってね。今まで十年間ずっと、いつかおまえを見返してやるつもりで走りつづけてきたけど、けっきょく何もできなかった。十年が限界だ。オレはもう引退したよ。どっちみち、アメリカへ行くために陸上は続けられへんけどな。」

十年前のケンカ以来一度も話したことがなかったタカシとも、ようやく話せるようになった。

「やっぱりまだ走りつづけていたんだ。イモチャは走ってなきゃイモチャじゃないもんな。」

「ああ、昨日、自衛隊を追い出された後、暇やったから大阪で『フォレスト・ガンプ』を見てねぇ。あんまりにもオレがやってきたことと似ていたから、今までのこといろいろと思い出しちゃって、何度も泣きそうになっちまった。」

「エー!! イモチャが泣く? ばか言っちゃいけない。」

オレが泣くなんて、誰も信じなかった。オレは血も涙もない冷血な子供だったんだ。男らしいとか、たくましいとか、そんな言い方もできる。でもそれは、外見のたくましさで心の未熟さを隠そうとしていたからだ。

オレたちは会話を楽しんでいたが、ハッサだけは、幹事として気をつかっていたせいか、あまり楽しそうに見えなかった。会話にもあまり加わろうとしなかった。確かに、昔からあまり人に合わせようとする性格じゃなかったが、今のハッサは実際に不機嫌だった。

予定の時間を過ぎても会話はなかなか終わらなかったが、ハッサはとうとうしびれを切らせて、一人で片づけを始めてしまった。オレはすぐに手伝ったが、他には誰も手伝うものがいなかった。みんな気にせず会話を続けている。そんな態度に、ハッサはますます気分を損ねたようだった。

会場を変え、ハッサの仕事場の事務所を借りて二次会をとなった。

時間も遅くなってくると、一人、また一人と帰ってゆく。彼らが帰る前にオレは、必ず固く握手をしてから見送った。「さようなら。『また、いつか』じゃない。これが最後、『永遠にさようなら』だ。」と言って別れた。

ハッサは二次会になってからはずっと、隣の部屋で寝ていた。「今夜はうちに泊まっていってくれ」って言われていたけど、ハッサはそうとう疲れているみたいだったから、その夜はタナカの家に泊めてもらうことにした。眠ったままのハッサを一人置いて、オレたちは同級会をお開きにした。

翌朝、タナカに見送ってもらって兵庫に戻る。退職してしまった自衛隊にはもう用事はないが、住民票を移していなかったから、もう一度戻って手続きをしなければならなかった。バスに乗り込むとき、タナカの顔を見ると、何だかその目がとても寂しそうだった。「もう二度と会えないんだ」といった感じに、何か訴えているように見えた。オレは手を差し出した。

「これが最後のつもりじゃないけど、とりあえず。」

と言って手を握った。

「じゃあ、また。」


五時間の道のりで兵庫に戻り、その日のうちに市役所で手続きを済ませた。市役所の近くにある駐屯地を通りかかって、柵の外から中を覗いてみると、持続走の合宿をやっているのが見えた。この日、四月三日から始まったばかりのはずだ。退職してなければオレもこの合宿に参加していたかもしれない。ともに競い合った仲間たちにもう一度会いたかった。しかし、オレは立ち止まることができず、そのまま駐屯地を後にした。ランナーであったオレは、もう死んだのだ。

翌日、四日の朝には故郷へ引き返した。その日はタナカは用事があるらしく会えないので、ハッサと会った。

「今夜こそはうちに泊まってもらうよ。でも、その前に部屋を片づけなきゃね。」

ハッサの部屋に連れて行かれて、オレも片づけを手伝うことになってしまった。確かに汚すぎる。足の踏み場もないというのはこういうことだと納得する。オレは自分の実家を思い出した。オレの実家も常にこんなだった。ゴミ屋敷と言ってもいいくらいだ。ただし、オレの部屋をのぞいては……。

「ちらかった部屋には悪霊がよってくるんだって。」

あるいはその逆かもしれない。悪霊の住む部屋は散らかってしまうのかも。オレの実家は、多分そういうことなのだ。だから、オレは本能的にそれを感じて、家に入れないのだ。

「気持ちの悪いことを言わないでくれよ。」

ハッサは片づけをしながらあれこれと取り出しては、「ちょっと見てくれ」と差し出す。趣味で写真を始めたらしく、美しい写真を何枚も見せてくれた。ハッサが写真をやっているなんて知らなかった。また、昔の文集を見つけては、「こんなこともあったんだ。覚えてる?」なんて語り出す。「イモチャの事だに」なんて言われても、オレはすっかり忘れていたりする。「ちょっとこれを」と差し出されたノートには、高校時代に書いたと思われるいくつもの詩が書かれていた。そこには、オレの知らなかったハッサの過去があった。そして、ハッサは、当時何があったのか、初めて、オレに語り始めた。

当時、ハッサはある神道系の新興宗教にのめり込んでいたと言う。それさえもオレは知らなかった。そして、時々行われる厳しい修行に耐え切れず、とうとう精神的におかしくなってしまったという。しばらく精神病院へ入院し、退院してからも通院生活が長引き、治療に努めていたらしいが、その時のつらかったことをいろいろと話してくれた。それは、あまりにも衝撃的な告白であった。

今、ハッサは正常に戻ってまともな生活をしている。とても昔そんなひどいことがあったなんてことは想像もつかない。ただ、それを「まとも」と言うには一つだけ問題があった。

ハッサは続けてもう一つ別の話をした。あれだけひどい目にあって懲りているはずの宗教に、今もまた頼り始めているらしいのだ。以前と同じ神道系だが、それとはまた別の新興宗教。ハッサは、「前とは違う」と言っているが、はたしてそうなのだろうか。宗教はある面で人を盲目にすることがある。

どこか、違う。唯一、それだけが、今のハッサに感じる不安だった。このままでいいのだろうか? オレは宗教を悪と決め付けているわけじゃないが、オレ自身は決して宗教に入らないと決めている。そう心に決めておかないとすぐに宗教に助けを求めてしまうような弱い心だってことを知っていたし、宗教で自分を縛るのはどうしてもいやだった。他人が宗教をやることには少しも反対する気はない。……ただ、今のオレは、愛を学びつつあった。愛が、すべての宗教の根元ならば、オレはどう動くべきか?

愛とは何か、試みの時が迫っていた。


片づけも済み、少し飲みながら話し始めた。今夜は徹夜で話をすることになってしまった。徹夜などしたことがないと言うと、それなら今夜初めて徹夜に挑戦だなどと言う。どうしても話がしたいらしい。確かに、今夜を逃せばもう二度と話す機会は巡ってこないだろう。明日には東京へ行き、八日には成田から発つ予定なのだ。

いろんな話をしながら機をうかがっていたが、ふと思い出す。タナカの家に泊まったときに、本棚を見ると古事記があったので読んでみた。といっても、マンガで描かれたわかりやすい本だった。少し読んで妙なことに気が付いた。最初の神、イザナギとイザナミ。漢字で書くと「伊ザ那ギ」と「伊ザ那ミ」となる。この二人の同じ部分を取って引っ付けると「伊那」となるのだが、これはまさしく、オレたちの育った故郷の名である。この発見をハッサに話すと、実はハッサも前から同じことに気が付いていたのだと言う。さらに、この伊那をはじめ、古事記に由来する地名が長野県内にはいたるところに存在するのだそうだ。そもそもこの長野県の旧地名「信州」の名も「神州」に由来し、深く神々の世界、古事記に関わっているのだという。やはり思った通り、ハッサはこの話題に強そうだった。このあたりから少しずつ、神道への話へと進めていくことにした。

ところが、その神の話を始めたとたんに、オレは全身に寒気を感じた。すぐ治まればよかったのだが、ゾクゾクとした感覚が止まらなくなってしまった。ハッサは「よくあることだ」と言って布団を貸してくれたが、布団にもぐってもますます体は冷えていった。足の先は氷のように冷たくなっている。

「よくあることだって? 冗談じゃない!」

この異常な感覚に、さすがにオレも神霊に取り憑かれてしまったのかと思った。今までオレには霊感など絶対にないと信じていたが、この時ばかりは「もしや?」と不安になった。どうやらこの話題は危険のようだとオレたちは悟り、話題を変えることにした。そうすると、しばらくして寒気は治まったが、オレたちの周囲には異様な雰囲気が漂い始めていた。

ハッサは密教の加持祈祷を学んだことがあると言って、目の前で実演してくれた。それに対して、オレはタロットカードを取り出して占いをしてみせる。

Ⅴ 法王」(宗教)

Ⅵ 恋人」(親友・愛)

ⅩⅢ 死神」(死)

オレはとうとう切り出すことにした。

「宗教が、人々の平和を願うものならば……宗教に従う人々は決して争いなどしないだろう。」

イエスの言葉がどうにかオレを支えていた。「私は、剣をもたらすために来た」とイエスは言った。

「同級会のとき、みんなの態度を見て、ハッサはどう思った? 『どうせ学生なんてのは・・・』とか、『社会のルールを知らない』とか思ってただろ。確かにその通りかもしれないけど、それでハッサは一人ですねててどうする?」

オレは宗教を持たないことで自由でいられた。心を悪に染めて、ハッサを惑わすことも許されている。少しずつハッサの気に障るような言葉で責める。

「どうしてみんなと一緒に楽しもうとしなかったんだ? ハッサがすねてたら、みんなも気分が悪くなっちゃうよな。ハッサは、同級会の楽しい雰囲気を壊しかけたんだよ。そんなことが許されるのかな、ハッサの信ずる宗教では。」

ハッサは必ず反論した。オレは疑問をぶつけ、ハッサは反論する。いつまでたっても意見がかみ合うことはなかった。オレは冷静に、ハッサの矛盾を見抜き、ハッサを混乱させていたからだ。この問答を繰り返しているうちに、ハッサは少しずつ興奮してゆき、とうとう熱くなって怒鳴り出した。オレは相変わらず落ち着いた口調で言う。

「どうして、そう熱くなる? そうやってオレの考え方をハッサの意見に従わせようとしているんだろ。」

「違う!」

「争いとは何か? それは、自分の思い通りに相手をねじ伏せようとすることじゃないのか?」

「そうじゃないんだ!」

「少なくとも、今のオレは、ハッサの口調に圧倒され傷ついている。」

「そんなことはない!」

「ハッサにオレの心を感じることができるのか? 今、オレはかなり苦しい思いをしている。これは事実だ。歴史に刻まれるべき、動かしようのない事実だ。理想など、事実を前にしては何の意味も成さなくなることを学べ。今、この二人の間に何が起こった? オレとハッサは、今、争っているんだ。戦争をしているんだよ。」

「争ってなんて……」

「ハッサは、争い、罪を犯してしまったんだよ。少なくとも、今ここに平和はない。こんな小さな平和さえまもれなくて、どうやって世界を平和にすることができるんだ?」

「それなら、イモチャには何ができるっていうんだ? 何もできやしない。アメリカへ行って何をするっていうんだ?」

オレは何を言われても平気だった。今のオレは悪魔に魂を売り、すべてが許されていた。ハッサを救うためならオレはどこまでも堕ちてゆこう。だが、次の瞬間、ハッサは信じられないような言葉を吐き出した。オレにはそれを正確に記すことができない。ショックのあまり、その記憶がはっきりしなくなってしまったのだ。こんな事を言った。

「十年間も陸上を続けてきて、いったいどれだけのことを成し遂げた? けっきょく何も成果がないまま終わりか? 逃げるんだろ。何もできないから逃げちまうんだろ。そんな根性なしがアメリカへ行ったって、何も出来やしないよ。」

どうしてそんな言葉を口にすることができるんだ。根性なしだって? このオレが、どれほどこの十年間に精根を費やしたことか。どれほど辛い思いをして走り続けてきたか、そして、どれほど辛い思いで引退を決意したか、ハッサにはこの一ヶ月間で誰よりもよく話したはずだ。それを承知でよくもそんな言葉を……それはただ、オレの心を破壊するために吐き出された言葉だった。ハッサは、本当に罪を犯してしまった。オレは、その言葉に打ちのめされた瞬間、ついに、それまで保ってきた冷静さを失ってしまった。ハッサはオレと同じように、地の底へ落ち、悪魔に魂を売ってしまった。神の救いはそこにはない。もう、オレにはどうすることもできなかった。

「失望したよ。」

そういうのが精一杯だった。後はもう、涙が頬を濡らし、言葉を続けることはできなかった。オレは荷物をまとめると立ち上がった。

「どこへ行くんだよ?」

ハッサは何が起こったのかわからないと言った顔で言った。オレは無言で背を向け、出口へ向かった。

「待てよ!」

ハッサはオレを捕まえ、放さなかった。

「行かせてくれよ。ハッサに、オレの自由を奪う権利はないだろ。」

どうしても止めようとするハッサを無理に振り切って、オレは夜の闇の中へ飛び出した。伊那谷の夜はあまりにも暗すぎた。道も見えないほどに暗い。あてもなく歩き続ける。オレにはもう帰る場所はない。オレは町へ向かっていた。

町へ向かう大きな橋の手前まで来たとき、ハッサがバイクで追いかけてきた。バイクをおり、オレの横に並んで歩きながら、何かしゃべっていた。必死でオレを説得しようとしているらしかったが、オレの耳にはもう一言もハッサの言葉は入ってこなかった。何か言い返すだけの気力もなかった。オレは黙ったままゾンビのように歩き続けた。

「……わかったよ。行けよ。だけどなぁ、これだけは約束しろ。アメリカへ行ったら何かでかいことをやってみせろ。誰にもできないようなすごいことをやって、みんなをビックリさせてみろよ。ただで帰ってくるんじゃねえぞ!」

そう言い残すと、一度オレの背を殴ってから、ハッサは戻って行った。

オレは涙を止めることができなかった。オレの力ではハッサを変えることはできなかった。今のオレにはこれ以上何もできない。無力だった。

何かが足りない。

オレは今でも許すことのできない自分の両親のことを思った。なぜ彼らを憎む? 何かが足りなかった。彼らはオレに対して真に心を開こうとはしなかった。心を満たされぬまま育ったオレには愛など生まれなかった。「」を「」けることで「」が生まれるのだ。

ようやく愛を学び始めて、オレは長い旅の出発点に立っていた。アメリカへ行ってやるべきことが何なのか、見えてきたような気がした。

夜が明けると、オレは伊那谷を去った。昼過ぎにタナカと会う約束があったが、それまで待ってはいられなかった。今はもう誰とも……過去の中に残される誰とも顔を合わせたくなかった。オレは、暗闇の中を手探りで未来へ向かっていた。


出発までは東京に住む友人ホマのアパートに泊めてもらった。八日に出発の予定が、トラブルで十二日に延びてしまった。それでも無事アメリカに着き、慣れない土地での生活が始まった。弟に「兄は死んだと思え」と言ったように、オレは、日本人であった自分を殺し、アメリカで新しく生まれ変わろうと努めた。言葉はまったく理解できず、見るもの、出会う人々、すべてが新しく、本当に生まれたてのベイビーのようであった。日本との連絡は、たった一人ホマをのぞいて誰ともとらなかった。親はもちろん、タナカやハッサとも、弟妹たちとも連絡を取るつもりはなかった。オレは自由を求めていた。


アメリカでの生活も二週間ほど過ぎたころだった。夜中に電話で起こされた。唯一の日本との連絡員、ホマからだった。ホマは感情を隠すような声で話した。

「たぶんそっちは今、夜中だろうけど、オレのほうから電話をかけるんだからよっぽどのことだと思ってくれ。」

オレたちは必要以外のことで連絡は取らないことに決めていた。オレのほうから日本のホマに電話をかけることは何度かあったが、まさかホマがオレに電話をよこすなんて思ってもみなかった。

「驚くなって言っても無理だろうけど、落ち着いて聞けよ。」

寝ぼけてはっきりしない頭にホマの声が響いた。

ハッサが、死んだ。

ホマはストレートにそう言った。その意味はストレートにオレの頭に入った。まるでごく日常の会話のように。

ハッサはトラックの下敷きになって死んだらしい。

人は誰でも死ぬ。オレはハッサの死の知らせに驚きもせず電話を切った。むしろ、その知らせに驚きもしない自分を疑った。

親友の死。

オレのことを「一番大切な友人」と言ってくれたハッサの死。

なぜ、動揺しない? 死について……そう、オレは自らの死を経験している。ランナーであった自分を殺し、日本人であった自分を殺し、過去を捨て去っていた。その過去の中に残してきたハッサの死など……オレには関係がないというのか? 今のオレには答えは出せなかった。

今、オレの手元にはハッサの書いた詩が一つ残されている。ほんの数週間前に、スナックで一緒に飲んでいると、ハッサはオレのメモ帳を取り上げて、黙ってその詩を書き上げた。

くじけちゃいけない いつでも 夢をあきらめないで

心の扉を閉じたら 何も見えなくなる

苦しいときには いつでも 大空に飛び込もう

太陽目指して はばたこう 自分を信じて

幸せは 来てはくれない 自分でつかみとるもの

本当にやりたいことを 自分で見つけるのさ

いつも本気で走らなければ

本当のことは わからないぜ

だから 心の炎 燃やし続けよう

燃えて 燃えて 燃え尽きるまで

そして 赤く強く 燃えて 燃えて 燃えろ

魂の炎

だから 心の炎 燃やし続けよう

燃えて 燃えて 燃え尽きるまで

 天をこがせ


おそれちゃいけない いつでも つまづき転ぶことを

風に押されて倒れたら また起きて走ればいい

悲しい時には いつでも 星空に飛び込もう

天の川を 泳いで行こう 全てを信じて

才能は 眠っているもの 自分で掘り起こすもの

できると思えばできるし やらなきゃできないのさ

自分を諦めてしまったら

何もかも つまらなくなるぜ

だから 心の炎 燃やし続けよう

燃えて 燃えて 燃え尽きるまで

そして 赤く強く 燃えて 燃えて 燃えろ

魂の炎

だから 心の炎 燃やし続けよう

燃えて 燃えて 燃え尽きるまで

 天をこがせ

酒井

この詩にどれほどの意味が込められているのか、オレには理解できない。しかし、この詩は、まるで自らの死を予感して書かれたようにも思える。残された人生を熱く、激しく生きようとしたハッサ。燃え尽きたら、その命はそこで終わりじゃないか。その命を燃やし尽くして何が残るというんだ。なぜ、そこまで必死になって生きなければならないんだ。

オレは、ハッサの葬式に出ることはできなかった。その死が、タナカや、ハッサの家族、オレの家族、仕事仲間、剣道の教え子たち、そして、多くの地元の住人たちにどれほどの衝撃を与えたか、オレにはわからないし、今のオレには何の関係もないことだった。今のオレが、なぜハッサのために涙を流せないのかも分からない。でも、このままハッサのことを忘れてはいけない。人として、しばらく立ち止まって考えるべきだと思った。

ふと思い出した。オレは、日本を離れる前に会った全ての友人たちと必ず握手をしてから別れた。それなのに、ただ一人、ハッサとだけは握手で別れることができなかった。間違いなく、ハッサただ一人だ。この不気味な一致に背筋に寒気が走る。オレにはそれが、ハッサの死と深く関わっているような気がしてならない。ハッサの死は、本当にアクシデントだったのだろうか?

大の親友だったのに、最後はケンカで別れ、もう二度と仲直りはできないのだ。

ハッサの死から、オレは何を学べばいいのだ?

オレは、この手でハッサを救うことができなかった。それだけは間違いなく事実だ。歴史に刻まれるべき事実なのだ。

人は、歴史から多くを学ぶ。

オレは、愛を学ぶ必要があった。


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