作業はほとんど進まなかったが、自衛隊の作業員はその日の夜になって再び帰隊した。翌日から神戸での作業に入るからである。翌日、オレたちは神戸の灘区に向かった。仁川での作業中に染み付いた死体の焼けた匂いのする服のままで。
それからしばらくの間、神戸大学のグラウンドに天幕(テント)を張って宿営していたが、ほとんど仕事らしい仕事はなかった。しかし、そんなはずはなかった。きっとやらねばならないことは山ほどあるはずなのに、オレたちに出動の命令はなかなかでなかった。自衛隊のお偉いさん方が頑固なのだ。それぞれの部隊に指定された地域、許される範囲内の仕事しかできないという。上の命令には逆らえない。命令に従うことが強い部隊の原則なのかどうか・・・。天幕の中に閉じ込められながら、仲間のひとりが言った。
「自衛隊はしょせん、人を殺すのが仕事やからなぁ・・・」
人を救うために働くにはあまりに非力すぎる。警察や消防、民間のボランティアの人々の活動を見ていると、それらに比べ、最も優れた機動力と、比にならないほどの多くの人員を抱えているにもかかわらず、自衛隊のできる仕事というのはごく限られた範囲でしかなかった。オレたちは仕方なしに天幕の中で待機を続けた。いったい、何日間そんな日々が続いたかわからない。日を数えるほどの気持ちの余裕などなかった。
何日も神戸で野営をしていた時、一時的に伊丹の部隊に帰ってきたことがあった。2時間だけ駐屯地内で用を済ませて帰るという条件だった。上の統制ではそういう事だったが、うちの小隊長がうまいことやってくれたおかげで5時間ほど滞在することができた。この間に風呂に入ったり、売店で買い物をしたりした。この時期に風呂に入れるのはあまりにも贅沢だった。どこの町もまだ断水が続いていて水さえ手に入らない状況だというのに、風呂などに入るなんてことはとんでもないことだった。神戸の街中などでも、ごく一部の公衆浴場が入浴可能になっていたが、そのためにはこの寒い時期に何時間も外で順番を待たねばならなかった。
神戸はどこへ行ってもひびだらけだった。ビルは傾き、木造かわらぶきの家はほとんどつぶれ、地面は割れ、道路はどこも渋滞し、人々はみなリュックを背負って歩きまわっていた。秩序は乱れ、あらぬ噂が飛び交い、犯罪が続出し、無法地帯になりかけている。警察は忙しくて犯罪や交通違反などに一々かまってはいられなかった。これがあの活気あふれ、清潔で、ぴかぴかと輝いていた都会の街の姿とはとても思えなかった。