オレは何を言われても平気だった。今のオレは悪魔に魂を売り、すべてが許されていた。ハッサを救うためならオレはどこまでも堕ちてゆこう。だが、次の瞬間、ハッサは信じられないような言葉を吐き出した。オレにはそれを正確に記すことができない。ショックのあまり、その記憶がはっきりしなくなってしまったのだ。こんな事を言った。
「10年間も陸上を続けてきて、いったいどれだけのことを成し遂げた? けっきょく何も成果がないまま終わりか? 逃げるんだろ。何もできないから逃げちまうんだろ。そんな根性なしがアメリカへ行ったって、何も出来やしないよ。」
どうしてそんな言葉を口にすることができるんだ。根性なしだって? このオレが、どれほどこの10年間に精根を費やしたことか。どれほど辛い思いをして走り続けてきたか、そして、どれほど辛い思いで引退を決意したか、ハッサにはこの1ヶ月間で誰よりもよく話したはずだ。それを承知でよくもそんな言葉を・・・・それはただ、オレの心を破壊するために吐き出された言葉だった。ハッサは、本当に罪を犯してしまった。オレは、その言葉に打ちのめされた瞬間、ついに、それまで保ってきた冷静さを失ってしまった。ハッサはオレと同じように、地の底へ落ち、悪魔に魂を売ってしまった。神の救いはそこにはない。もう、オレにはどうすることもできなかった。
「失望したよ。」
そういうのが精一杯だった。後はもう、涙が頬を濡らし、言葉を続けることはできなかった。オレは荷物をまとめると立ち上がった。
「どこへ行くんだよ?」
ハッサは何が起こったのかわからないと言った顔で言った。オレは無言で背を向け、出口へ向かった。
「待てよ!」
ハッサはオレを捕まえ、放さなかった。
「行かせてくれよ。ハッサに、オレの自由を奪う権利はないだろ。」
どうしても止めようとするハッサを無理に振り切って、オレは夜の闇の中へ飛び出した。伊那谷の夜はあまりにも暗すぎた。道も見えないほどに暗い。あてもあく歩き続ける。オレにはもう帰る場所はない。オレは町へ向かっていた。
町へ向かう大きな橋の手前まで来たとき、ハッサがバイクで追いかけてきた。バイクをおり、オレの横に並んで歩きながら、何かしゃべっていた。必死でオレを説得しようとしているらしかったが、オレの耳にはもう一言もハッサの言葉は入ってこなかった。何か言い返すだけの気力もなかった。オレは黙ったままゾンビのように歩き続けた。
「・・・・わかったよ。行けよ。だけどなぁ、これだけは約束しろ。アメリカへ行ったら何かでかいことをやってみせろ。誰にもできないようなすごいことをやって、みんなをビックリさせてみろよ。ただで帰ってくるんじゃねえぞ!」
そう言い残すと、一度オレの背を殴ってから、ハッサは戻って行った。
オレは涙を止めることができなかった。オレの力ではハッサを変えることはできなかった。今のオレにはこれ以上何もできない。無力だった。
何かが足りない。
オレは今でも許すことのできない自分の両親のことを思った。なぜ彼らを憎む? 何かが足りなかった。彼らはオレに対して真に心を開こうとはしなかった。心を満たされぬまま育ったオレには愛など生まれなかった。「心」を「受ける」事で「愛」が生まれるのだ。
ようやく愛を学び始めて、オレは長い旅の出発点に立っていた。アメリカへ行ってやるべきことが何なのか、見えてきたような気がした。
夜が明けると、オレは伊那谷を去った。昼過ぎにタナカと会う約束があったが、それまで待ってはいられなかった。今はもう誰とも・・・・過去の中に残される誰とも顔を合わせたくなかった。オレは、暗闇の中を手探りで未来へ向かっていた。