祖父、根橋武一のこと

 

その1
祖父、根橋武市のことを記したいと思います。幼き頃の思い出から。生家油家には、神様仏様のようなお爺様がおりました。私の連れたちの中には、皆と言ってよいくらいにお爺、お婆と見下げたような呼び方をしていましたが、我が家では、全員が、お爺様、お婆様と呼んでいました。祖父武市は、祖母えいのところに、婿養子しとして、同村の蒲原と言って根橋家より来た人です。武一は、次男に生まれて6歳にして、平出のある、農家に奉公に出されました。9歳になった時、年季が切れて家に帰されたので、そのまま油屋の男衆として連れてこられました。まだ子供ですから、主に使われた仕事は、使い走りから馬追いぐらいなものだったと思います。一日の仕事が終われば、油屋にある、学問所で手習いに励みました。生まれもった頑健な体と、抜群な頭脳を兼ね備えた、武市を認めた当主夫婦は、行く行く家の跡取にと思い、温かい目で応援をしていたと思われます。ストーブの、油が切れたので。今日は惟で。

03年2月26日  宏江

その2
 其の男らしさは、娘の心を捉える事は、当然だったでしょう。えいの、17歳になるのを待って武市21歳のとき、結婚をいたしました。長女を、出産をして、間もなくの頃ことです。宮木山の、裾の荒地を開墾して水田にするために、続きの山から石灰岩を掘り出していてダイナマイトの、操作に、失敗をして吹き飛ばされ、手の指が1本取れたそうです。気を失っていたので、時間は判りませんが大変な出血だっのでしょう。指を拾って元につけて、手ぬぐいで包帯をして、懐に隠して我が家に帰ってきました。妻に少し怪我をしたので、医者行くので着替えを頼みました。そこえ、武市さ、大変だといって、大勢の村人たちが、戸板をかついで、飛び込んで来たのです。事の、重大さを、えいは、知ってしまいました。

夫は、戸板に乗せられて上諏訪病院に担がれて行きました。残された妻は、産後のため、血が頭に上り、其のまま、倒れこんでしまいました。夫婦の上に突然ふりかかった、災難と言えましょう。生まれたての赤ん坊はどうしたのか、それまでは聞きませんでした。祖母はそれが元で農作業はおろか、家事ひとつも、まともにはできなくなりました。ヒステリーをおこして、時々、半狂乱になりこ、れから後、武市の、奮闘の時が始まったのです。続きはあと。
                         03年2月27日     宏江

 

その3
其の頃の油屋は、落ちぶれていたのでした。武市から、先々代にあたる人、名前は、判りません。其の人の、後妻にあたる人が、えいの、父親文重の継母になる人です。大変にやり手で、亭主をしりめに、油屋、機やと事業に手を出して失敗を重ねて、どうにもならなくなり、亭主と、幼い子供2人のこして自殺をしてしまいました。残された子供の男の子は、母親似で利発者だったようです。赤子のとき、囲炉裏に落ちて大火傷をして、左手が焼けて、てんぼうにしてしまいました。母親は筆で食べていかれるように、幼い時より多くの師につけて勉学に励ませたようです。残った財産は、次男重太の名義にしてありました。長男の文重は、以前のことですが、継母のしうちに、耐え切れず、新妻を実家に帰して、故郷を捨てて江戸に出て行きました。苦労の末、ある旅籠に住み込みとして入ることができたのでした。そこで、同じような境遇の女子しゅうの、くまとであったのでした。ねんごろとなり、娘えいが、生まれたのでした。帰るつもりもない油屋から便りがあり事の次第を知りました。残された父親の願いに二度と帰るつもりもなかった故郷に、身重な妻と幼い娘をつれて、7日かけて帰ってきました。帰っては見たが財産の大半はなく、残っている物は、弟の名義となっおり、妻は、江戸育ちゆえに、途方くれたことでしょう。その頃、小野、横川、上島と、三郷村と言っていたと、記憶しますが。
 其の村役場に、書記として雇われました。弟の名義の、田畑を耕さねば食べることも、できず。今日はここまで 。

03.3.27  宏江

その4
役場に勤めながら、農作業をやるのも、大変なので、子供の武市を、男集として、
雇ったことでしょう。武市の素質を見抜いた夫婦は、ゆくゆくは家の跡取りにと、家業の農業を教えられ、夜は学問を教えられて、武市の成長期に大いに、役立ったことでしょう。妻のくまは、死ぬまで田舎者には心を開くことをしなかったと、祖母のえいは、なげいて後に語りました。そのくまが、武市には、大変なかわいがりかただったそうです。そして、絶対の信頼をしていました。

幸福な2人にこのような、不幸がふりかかってしまいました。指も元どおりになり、生活も、元にもどったのですが、半病人になった、えいは、家族をこまらせて、いたようです。けれども、何事にもひるまない、若い武市は、病人妻を、心からいたわり、先頭にたって働きました。自分一人だけの稼ぎだけでは、僅かな稼ぎにしかならないと思い、土木の請負仕事をやり、大勢の人足を雇ったのですが、其の人夫の、選び方が、おまんまを食べさせて選んだと聞きました。いざ、作業にはいると、一番危ないところに、武市が入り、雇った人夫には、楽な仕事につかせるので、仕事はどんどんはかどり、うまくいくので支払の方も、怠りなくでき、大分もうかったようです。
 家では朝一番に起きて、朝食の用意と馬を飼い、仕事に行けば、他人の何倍かの稼ぎをして、稼いだ金はみんな姑に渡しました。親たちの信頼を一心にうけて、失った田畑を取り戻していきました。義父も亡くなり、財政も立ち直ってきて、武市に酒でも勧められましたが、30歳になったら、飲み始め60歳でやめることを、心に決めているからと断りました。つづく。              03.2.28     宏江  

武市大御爺様の写真


その5
近所にある、裕福な家の長男で一人息子がありました。気性が強くて、人付き合いが、荒いので村人からは嫌われ者でした。根症は良くて、武市とは馬があっていたようでした。大変な財産にものをいわせて、多くの商売に手を出して、ことごとく失敗に終わりました。全財産を失ったので、馬を使って運送引きになりました。ある日の事、馬が、づいを、こいて、動かないといって、持ち前の短気をおこして、まさかりをもってきて、馬のしりを、切ってくれると、ふりあげていましたが、あまりの、恐ろしさに、だれもちかづけませんでした。それを聞きつけた武市は、駆けつけて体ごと、ぶつけて、まさかりを取り上げることができました。その人は、我に返ったのかひざまづいて、助かったと言ったそうです。馬を殺してしまえば、明日から仕事を、失ってしまうところでした。そればかりではありません。長雨のため大川に大水が出て、彼は板橋を馬を引いて渡ろうとして、橋のなかほどで、すべって馬は、転んでしまいました。大声をあげて、助けを呼べど駆けつける人もなく、濁音に掻き消されてしまいました。夕食を食べていた、武市はこのことを知ると、ふんどし一つになって泣きすがる妻を押しのけて、はだしで駆け付けました。橋の真ん中で、引っ張る人、馬の尻を持ち上げる人、必死の格闘が始まったのでした。やっとの思いで馬をたたせて、渡ったとたんに橋は流れていったそうです。この話は、武市から聞いた話ではありませんでした。今日はここまで。     03.3.3   宏江



その6
柄話はすることはありませんでしたから。けれども、このことは多くの人たちの知るところで有ったと思います。明治の人たちの中には、そうして話が埋もれてしまったことが多くあったのではないでしょうか。祖父は、本当の人間性を持った人だったと思います。又或る時の話ですが、夕方暗くなりもとに山の田んぼに水かけに行って、蝮に噛まれて、しまいました。随分遅くなって、家に帰るなり意識を失ってしまいました。全身に、毒がまわってしまいました。又戸板に乗せられて病院におくられました。が、奇跡的に命をとりとめることができました。翌日、家人が田んぼに行ってみると、水口が、石で小山のようになっているので、取り除いてみて驚きました。大きな蝮が死んでおりました。武市は、これを生かしておけば、又だれかが噛まれると思い、暗がりで石を探し、水口に向かって投げ続けたのでしょう。わが身のことより、他の人のことを思う人でした。その後、えいは、あいかわらずの体でしたが大勢の子供たちに恵まれて、女の子供を5人も生むことができました。けれども、子供たちは母親なつこうとしませんので、父親ばかりの後をおって。長女の、さきえは 私たちの母親ですが、一人心配をしていたそうです。つづく、               03.3.4    宏江

その7

娘たちも成長して、親父の片腕となり少しづつ安らかな月日が流れていきました。武市の、兄なる人は、労動を嫌う人であり、株の相場などに手を出して、家屋敷まで人出に渡り、その上に借金に追われることとなり、生家が一大事に陥ってしまいました。そちらも、娘3人と、親子で途方にに暮れる羽目になってしまいました。経済を一つにしてすべてのことに武市が采配をふるい、娘たちや、妻たちにも指示をして、借金を返しながら、家屋敷を、とりもどすことができました。実家の大事をも救う事ができました。代賞もなくあんまりだと、私の、父は語りましたが、其の時はそうかとも思いましたが、武市の生家にとって当然のこととは思えません。神のなさったことと思います。母さきえと、あちらの、長女ひでよとは生涯をとおうしての親友でした。武市から、男の子として、躾られました。2人とも、息子と言われていたそうです。着飾ることも、化粧をすることもなく、男の仕事にたずさわり、御柱のお祭りにも、桑畑のなかに隠れていて、人々が出払うのをまって、皆遊んでいる間に、働こうといって、親のため家のため働く事が、一番の生きがいだったと、ひで小母様より聞いたことがありました。やがて、年頃となり、二人とも婿養子を取ることになりました。さきえは、同じ村の長男なる人と恋愛におちて、その青年とは、軍隊に行っているころから文通が始まり、村人の間で評判となりました。
母親のえいは、心を痛めましたが、武市はすぐに、人をたてて、婿にともらいに、いきましたが、一言のもとに断られました。つづく    03.3.5          宏江

その8

先方から、有力者をたてて、さきえさを是非うちの嫁にと言ってきました。妹ならあげるが、あれだけはやる訳にはいかないと言って断りました。お互い様の立場だからと、2人には、あきらめるより他になかったようです。親たちに無理に連れてこられた、婿殿は、一年たらずで、実家に帰ってしまいました。子供ができなかったのが、原因だと聞きましたが、母さきえが、拒みとうしたように思います。そのことがあってからに、私達の父、昇が婿養子になったのでした。もう一人の母さん、秀さんも隣村から、婿を取り長男長女にめぐまれましたが、其の人は農家の仕事にはなじめず、自分から身をひいていきましたが、夫婦仲が良かったため、夜になると、荷車を引いて逃げてくれと来ましたが、家と親を捨てる訳にはゆかない。子供は大きくするから心配しなんでくれと、心にもない愛想づかしを言って、彼はあきらめたのか、来なくなりました。このようにして、二人とも、最初の結婚には、失敗をしてしまいました。

これから、記すことは少し、違ったことになりますが。このことは、かいておきたかったことなのです。事実あったことです。親類に当たる家にあったことで、その家の若妻が、あるとき、亭主の前で懐から、機に織る糸をころげ落としてしまいました。みなれぬ糸であったので、厳しく問い詰められました。人の物を盗んで来た事を白状しました。もう、家に置くことはできないと言って、追い出されてしまいました。武市のところに、助けを求めて来ました。いままでにも、繰りかえし、盗んだ事も懺悔しました。謝ってやるのも一度だけと、約束をして婚家に戻ることができました。つづく                03.3.6  宏江

その9

婚家に帰った人は、静かな老後を送る事ができたそうです。武市の、言った言葉に、盗人は病だとか悪い血統だのと、言われているが、幼いときの躾であって、小さい時に摘み取ってくれたら盗人を無くする事ができて、罪人を救うことができるがなあと、妻のえいに言ったそうです。
私も、その話は心に残っていました。自分の子供にも其の躾はいたしました。長女は、覚えていました。娘のさきえ夫婦は、長女長男をもうけるのですが、其の間に、武市夫婦にも、長男が、生まれました。油家としては大変なことが起きたわけです。婿養子をむかえた後に長男がうまれました。当時は、長男が、嫡子でありしまたから、武市は自分の、長男、延治を廃嫡として、叔父重太の名義を、延治の名義に直しました。大きくなるまで、いきさつは知りませんでした。私達の兄弟だけ、姉兄と呼ばず、名前で呼ぶのはおかしいとは思いました。ある時、叔父の延治がいい物をやるから兄ちゃと呼んでくれと言うものですから、喜んで呼びながら後尻くっついて歩いておりました。母親が、延さは兄ではなく叔父だと言うのです。なんで、お婆様から生まれてきたのかと悲しかったことを思い出します。叔父延治が可哀想に思われました。乱暴者の延治は、いつも炬燵やぐらの上にうつぶせに寝かされて箒の柄で尻を捲くられて父武市に殴られていました。私の兄洋雄は、傍で泣いていました。洋雄が虐められていたのでしょう。続く    03.3.7     宏江


その10
武市は、愛のムチを揮っていたのです。叔父の延治はお前らには可愛がるばかりなのに、俺には冷たかったと言いましたが、あれは其の反対でした。

60歳になるまで、30年一日一升酒を飲んでいたと母の話しでしたが、それは違って、いたように思います。夕食のお膳箱の上には、いつでも祖父と父二人に2合徳利にお魚が、載っていました。羨ましくて大人の男になりたいと思いました。私は魚が大好きで、猫娘と言われていました。父昇の話ですと、おしきせに2合の酒の飲むことができるのは、村中の婿の中にはあるまいなんて自慢していて、武市に感謝していました。60歳になり、酒をやめたとたんに脳溢血となり倒れてしまいました。横たわる、両側から、えいと、さきえが、泣きながら全身を、おとっ様あと呼びながらさすっていたことを覚えています。ただ今のビハビリでしょう。武市の表情は、悲しげにみえました。これは、死んでしまうのではないのかと、悲しかったことを覚えています。その以前に、老夫婦は道路端に小さな家を建てて、酒や小間物の商いを始めていました。寝室に、木製のベッドが作ってありました。夜毎に押し寄せるノミから身を防いだと思います。孫たちは、珍しくて、小柄な、えいの、ベッドに潜り込んで転がり落ちても、そのまま朝までノミに食われていたのです。武市はその後、起き上がることができるようになりました。少しの後遺症は、残りましたが、杖をついて小野まで店のしいれに通っていました。信玄袋を肩にかついで。つづく              03.3.8      宏江

その11

酒は、小野の千歳屋より、若い衆や小僧さんらが4斗だるを荷車に積んで運んで来ました。武市の店ではコップ酒を売って、馬車の運送引きなどに売って飲ませる、ことを、やっていました。そのひとたちが、道路にずっと長く、ならんで、あのじいさまの、店の前も、とうりこして、順番のくるのを待っていたそうです。そこでも、コップ酒を売っていたのに。武市のサービス旺盛な商法には叶わなかったのか、えいの、話だと一度として嫌な思いはなかったそうです。それどころかいつも相談事にきていたそうです。田舎のことで、客が、頻繁にくるわけでもないので、孫たちに、店の周りに遊ばせて用の或る人が来たら、ぢぢばばに、知らせるようにして、出は入り口には鍵がかけてありました。あめだまの、おだちんが、貰えるのですが、子供の事など、あてにもならず、何人の客があったのか。品物はなにかと、あったみたいで、子供向けの学用品も売っていたので、孫は他でお金を使う事があまりありませんでした。武市は、広い水田の水見を、朝夕二度みまってくれました。それは、他の者だと僅かな水漏れなどに気づかないので、水もちが悪く水温が上がらず、収穫に影響するため自分でやらなければと、体に無理をしてでも続けてやっておりました。杖をつきながら。孫たちが小さい頃、広い屋敷の中に、桃、あんず、くり、すぐりなど、何種類もの果物を植えてくれて大変な楽しみでした。近所の子供たちも群れていました。あんまりあるから、うるさいなんていって母におこられました。お爺様が、折角植えたのに、今に罰があたるからと歎いていましたが。火事のために、すっかり焼けて、無くなってしまいました。つづく             03.3.9    宏江

その12
家に入る小路が長いので、両側にニラを植えてそれを卵とじにして、孫たちに食べさせるのですが私は好きになれませんでした。他所の家には無いのにどうしてと思いました。現在では毎日のように聞く野菜です。トマトも作って、皆驚いて野菜畑を見に来ていました。食べてみてそのまずさに驚いていました。慣れるまでですけれども、武市は、なんとかして、食べさせようとして工夫をしましたが、慣れるまでが大変だったと聞いていました。このようにして、家族の健康管理に一生懸命でした。自分自身は、勿論の事。かいにん草と言う、海草の干したものを取り寄せて、それを、煎じて、毎日飲んでいました。何に効くのかと聞いてみると、頭の血ながれを良くするのだと言っていました。その他では、桑の茎柿の若葉など、何色かの薬草を集めて。細かく刻み日陰干にして、お茶がわりにして飲んでいました。我が家の大人たちにも飲ませていました。家族の会話は、その日の健康状態のことが多かったように記憶しています。ただ今ではバスクリンを使いますが、薬草からあれやこれや集めて、干しておいてお風呂にいれて、薬風呂と言って近所の者を集めてだれかれなく入れてあげました。寒いときには、これが一番といって喜んでもらっていました。温泉も近くにはなかった頃のことです。夏の暑いさかりには、皆アツケにかかりすぐそばに医者もあるのにかかろうともせず、お金がないからです、武市のおまじないをして貰いに来ました。つづく         03.3.10      宏江

その13
武市が新しいすげ笠をかぶせて何か唱え事を言って、ひしゃくでバケツに汲んだ水をかぶせるとアツケから、傘の内側に水が染み出ていました、暫く休んでいると、元気になりました。また、田んぼの草取りで、アツケに遇わないように青い木の枝を腰ひもにさして、背中全体をおおってくれました。不自由な身体で田んぼの土手に立って、私達の作業に、細かなところまで世話をやいていました。やり直しもさせるので、父をはじめ皆うるさがりました。けれども、誉めておだてることを忘れないのでつい乗ってしまいました。何事にも、ためになることばかりでした。村の人の中には、武市の教えを忠実に守り、そして、収穫も多く取ったりしている人もありました。あまり、評判がいい人ではなかったと聞いていましたが、武市は可愛がっていました。その人は家族の者のゆうことを受け入れなかったのか、雨降りには武市の所に来て寝転がっていました。えいは、歓迎しなかったみたいでしたが、武市はいいところを見ていたようでした。其の人は、早死にをしてしまいました。其の頃の、農民は不潔にしていましから、僅かな切り傷から化膿して、大変な痛みが起きると、祖父は捕まえに行って、自分の股のなかに押さえ込んで傷の周りを熱湯でしっぷをして、刃張りで膿を絞り出すのでした。其の荒治療で翌日はなおりました。

これから記すことは、武市本人が語った事です。兄洋雄は、幼い時まぶたの手術をして、片目のまぶたは閉じることができなくなりました。つづく          03.3.11        宏江


その14

目の端に根物のため腫れふさがってしまいました。子供の両親は病院に連れて行こうとしました。武市は、まぶたの手術はしてはいけない。根物の薬をさがしてくるから、俺のゆうことを聞いてくれと言って、薬を手に入れて帰ってみると、子供を連れて出ていった後でした。探す事も事もできずただ待つより仕方がなかったのでした。手術をして傷は治ったけれども痕が引きつりとなってしまいました。眠っても方目は、見開いたままとなりました。成長してからは、眼鏡をかけていました。父親似で男前でしたのに、残念でならないと、話してくれた時には悲しい目をしていました。両親の思いは如何ばかりだったかと思います。そのことは、両親兄からも聞いたことはありませんでした。我が家にも、他人には語ることの出来ない苦難の道がありました。祖父母も、病気がちながらも長生きをして、大勢の家族のために努力を惜しみませんでした。成長する過程で不満も持たずにこられたことを、真に感謝せすにはおられません。これから、記することは、油屋焼失するです。                   03.3.12      宏江

その15
昭和14年1月14日真夜中近く 助けてくれと叫ぶ声が、近所から聞こえてきたのでした。今までにも、何度か火事でおこされたことはありましたが、助けてくれと結う声は初めてでしたからもっと近いと感じて、外の戸を開けると火の粉がばらばらと落ちてきました。萱の火のこと、とっさに判りました。分家の紺屋とわかりました。この火災では、けが人もなく脱出できたことはなによりと思います。店に寝ていた老夫婦は、真っ先に気付いて祖母のえいは、母屋を起こしに来てくぐり戸でなく、大戸をあけたので、真っ黒な煙りが家の中全体に充満してしまい、裸電球は煙につつまれて、何も見えなくなりました。馬や野馬は、驚いて小屋の隅に逃げ込んで、どうしても出すことができません。叔父が、臼をころがしこんで、馬をおどして飛び出させ漸くだすことができました。祖父武市は不自由な身体なのにこの時も一番の働きをしました。身支度をして、地下足袋まで履いていたのは一人だけでした。そのころ、店の屋根にはおそらく火がついていたとおもわれます。分家とは軒つづきでしたから。まず、家畜からと思い豚小屋をあけて豚を逃がし次に、鶏小屋の金網をはずして追い出して、一斉に、舞い立って一所に焦げて固まっていたそうです。     03.3.13       宏江

その16

けれども、仕入れた店の商品、大切な古文書を入れてある箪笥、その他家のなかのものを、出すことができませんでした。近所の人達が駆けつけてくれた時には手のほどこしようもなかったそうです。武市もそれに気付いた時にはどんな気持ちだったのでしょうか。大事な物を失っていたのでした。我が家に伝わる大切な古文書の箪笥を失ったことを。取り返しのつかないものですもの。信濃教育会の依頼で土蔵に保管したあるものを出してあったのでした。思いもかけない災難に見舞われたのてしたがかえすがえすも残念なことでした。焼失したものは、母屋、店、製米所、家畜小屋と、土蔵を残して、全部燃えてしまいました。武市夫婦は、お向かいのご好意で座敷を開放していただきました。末っ子の弟は、親類に一時預かってもらいました。寂しかったでしょうね。両親と姉と私は土蔵の中と、其の前に用水路があり、其の上まで板を張ってコモを敷いて、暫くの間生活せねばなりませんでした。叔父や兄は、戦地に行っていました。若者達は持ちこたえることができましたが、両親、特に母さきえは健康を損ねてしまいました。其のとき武市は、火災保険には入っていました。渡戸で一軒だけでした。加入していたのが。金額は三十円でした。油屋、再建のためにと娘夫婦に差し出してくれました。    つづく        03.3.14      宏江

その17

親類縁者多くの方々から、多大なるお見舞いを頂きました。其の頃、門前に空家が売り出されていました。頂きましたお金に祖父からの、30円を足して千円の現金にし空家を買い受けることができました。一安心はできましたが焼け太りだと噂されていたとかです。とてもそのようなことではありませんでした。他人様にお世話になったことは、火元でなかったけれども、或る意味で重荷を背負わされました。母から人様への言動行動には注意をはらうようにと言い渡されました。青年会で、伊勢神宮への団体旅行がありました。望んではいませんでしたが、武市は、旅費から小遣いまで出すから、宏江を行かせたらと、言い出して、少なからず驚きました。嫁に行ったらそのような機会はないだろうと言うのです。母は、即座に断りました。人並みのことがどうしてさせられると言うのでした。その時は、母を恨んだような気もします。祖父の気持ちは嬉しかった。今もって忘れません。我が家が、焼けて1ヶ月後の、2月12日午後9時頃、武市の実家の蒲原から失火して、全焼してしまいました。その日は、其の屋の長女の結納の来る日でありました。武市は特別招待を受けて、代表として出席していたと思われます。水路の上の我が家に、知らせがあったのが、寝床に入ろうとしている時でした。擦り半の鳴り響く中、母と手をとりあいながら、凍った道路に飛び出しました。真っ赤に、燃え上がる炎にふるえながら、火事は、山口だと母は叫びました。火事は蒲原でした。お爺様は、家の人たちはと心配はそれでした。           03.3.16       宏江


その18
道路が凍みついているために、母は何度も転びました。大黒やの角を曲がってみた物は、蒲原の家全体に火がまわって燃え上がる瞬間でした。生きていてお爺様と願っていました。腰丈まである雪の田んぼの中を歩くのもやっとの中を通って、豚小屋にたどりつき母も来て、2人で小屋を壊して豚を出したのですが、焼けている家の中に逃げ込んで丸焼けになってしいました。幼い子供たちは、近所の方の機転によって危ういところを、助け出されて全員脱出できました。武市は夜便所に行く習慣があり、その夜も家人から裸蝋燭に、火をともしてもらい、用足しにいき済ませた後火のついたままの蝋燭を家人に返しました。受け取った者も確認をしていました。火事に気付いた時は小さな火のようでした。近くの川から鍋で2度も水を運んだと武市は言っていました。目撃者や、家人の証言がまちまちのために、出火原因はわからずじまいになりました。このような事の続きのために、みるみる体は弱ってしまいました。それ以前のことになりますが、性名学を、独学で勉強していたと思われます。そして、我が家のことは勿論ですが、主に親類の子供に名づけてくれました。当時の名前には、あまり聞かれない名前が多かったように思います。我が家でも長女 くすえ、長男 洋雄、次女 みち、三女 宏江、次男 章、三男 信水、と名づけられました。付けてもらった名前について、いろいろの話が残っています。私も小学のとき、担任からお前はなぜ男の名前かと聞かれてとまどったことがありました。悪童どもに、男、男と虐められて、武市に抗議を申しました。すると、最高の名前をつけたのだから、変えることはしないと断られました。      03.3.17    宏江

その19
皆兄弟たちは満足に思っていることとおもいます。大勢の人たちの名前については有名でした。武市爺さんに付けてもらっても、いじめにあってはと敬遠されるむきもあったことは聞いていました。父の名前につい運が向いてこないからと言うことで、本名の昇を、甫とあらためかもいに貼ってありましたが其の名前は使っていませんでした。油屋の、大人たちには、そそれぞれ異なった信仰を持っていました。武市は仏様、えいは、屋敷の
なかに、祭ってあるお稲荷様、昇は、土蔵の屋根に祭ってある狼の三峰講、さきえは、御岳講と、違った特別の日があってその日を忘れると、神様が夢に現れるそうです。そのような話を、子供たちは本当だと思って聞いていました。仏前で武市は長い事お経をあげていました。武市と父との争いなど、聞いたことのない私は、ある日のこと、両親のあいだで自転車を買う、買わないのことで言い争いになりました。めずらしく、武市が母の意見に同意したのです。何事にも逆らう事もせず、我慢の父でしたが、不満がいっきに吐き出されて武市にたいして、言い放ったのでした。全部持って出ていけと、言ったとたんに土間倒れてしまいました。お爺様を死なせてなるものかと、はだしで医者の井内さん宅へ、走っていきました。先生は、ズボンを脱いで下半身ごろだしで、パンツの修理中でした。少し待っている様にと言われても、お爺様が死んでしまうから、無理にズボンをはかせて、カバンを持って先生の手を持って我が家に駆け付けました。布団に運ばれていた武市に医者は注射を打ちました。意識が戻りました。俺が悪かったと、私の顔を見て言いました。うなだれている父に、謝ってと言って促すと誤ってくれました。     03.3.18        宏江

その20
これで和解ができました。あの自転車のお陰で、弟章は4年の学業をそれに乗って終えることができましたし、その間母が、病気で倒れた時も帰りに辰へ行き、氷、その他の物を、運ぶことができました。父は、自転車が無かったらどうしようもなかったのにと、良かったと思ったでしょう。
蒲原も、近くに空家があって其のまま運び入れて改築して、立派な住居となりました。我が家は古くとも贅沢普請の家であったため、見た目は立派に見えましたが、決して住み心地は良いと思いませんでした。昔のとおり、祖父母と暮らすようになりました。武市はそのころから寝込むことが多くなりましたが、朝食の支度をしている私に一緒に起きてきて、箸の上げ下ろしくらいに世話をやきだしました。私は煩くてふくれていたと思います。祖母のえいは、みかねて、そのことは母親に負かせたらと言いましたら、この家に嫁になったものがいないから、其の事を教えられる者がいない。わしの教える事が役立つときがあるから、耳の底にしまっておけと、言い渡されました。後に思い当たることが随分にありましたが、実行にはいたりませんでした。
叔母の政子が、嫁入り先で無理解に耐えかねて、子供をおぶって野良着のまま帰ってきました。叔母の帰ったことを嬉しく思いはしゃいでいましたら、武市は、叔母の帰っている事を家人話してはいけないと言いました。其の頃まだ店があった時でしたから。夕方暗くなりもとに、婿どのの、有男さんが迎えに来ました。大人達は叔母の帰っていることを、知りません。驚いたえいは、私が知っていると思い攻め立てられて知られてしまいました。

   03.3.20           宏江

その21

お父さまは何を考えているのやらと、えいは、剣幕で怒り出しました。すぐに政子を追い返せば、婿殿が足を運ばずにすんだものをと、泣いて怒りました。武市にしてみれば、深い考えがあってのことでした。家付き娘には考えもつかないことでした。武市は、婿殿むかって、政子は帰すことはできないの一言でした。えいは、いきりたって婿殿の立場がないといっても聞き入れようとしませんでした。有男さんは武市にむかって、申し訳ありませんでした。以後このようなことの無いようにしますと深々と頭を下げました。夕食も食べさせず、叔母も子供も泣きながら帰って行きました。その後は何もありませんでした。秋になって、武市の容態は目に見えて悪くなっていきました。食べ物も次第に、通らなくなり、おむつの取替え時間も短くなり、すぐに取り替えろと知らすので、大勢の娘たち、親類の女衆が、代わる代わる詰め掛けていて武市の願いを聞いていましたが、おむつだけは、えいが取り替えねば他の誰にもさせなかったそうです。そこに詰めていた人たちは、どうして判るのかしらと言っていました。意識が薄れてきた頃より、養子の、昇の名前を呼ぶようになりました。除隊で帰っていた叔父、延治の名前と2人の名前をうわ言に呼び続けるようになりました。兄やなあ、延治の家を建ててくれと言い出しました。昇は、自信のないまま約束をしたと思います。あの、火災保険にしろ延治の為を思えばこそかけたのであって、昇には力の無いことは承知していたと思われますが、理性も薄れた今際に、本当の気持ちの表れでありました。武市の願いは決して、無理ではないと思います。

  03.3.21           宏江 

その22

約束は守るからと必死の呼びかけも聞こえなかったのか、数日呼び続けて声もまばらとなり、苦しみながら息を引き取っていきました。恐ろしいものを見た気がしました。人の死、肉親の別れを始めて経験いたしました。かぞえの19歳初冬のことでした。つきそって、いた人々はどんな気持ちで見送っていたことでしょうか。夜半のことでしたが。村中の、親類縁者の家に一人でぶらぶら提灯をぶらさげて、祖父の死を伝えるとともに宜しくといって歩きました。両親の口添えであったことでした。お爺様の死は恐れていましたが、現実となって、いま真夜中に一人出歩いていて恐ろしさも、悲しさも、感じませんでした。お爺様、有難うございました。やすらかに。   おわり

03.3.22      宏江