祖父母の思い出
まず祖父のことからもうします。大好きなお爺様。大きな体それに優しくていつもにこにこ笑ていました。叱られた覚えはありませんでした。優しくて怖くて、怒られるような事ができませんでした。何か諭される時には、祖父のまえに座らせてられて。言うことを聞いていました。分ることも、分らないこともありました。だれかのこととおもいますが、言い聞かせて、よく胸に落ちたかと聞いたら、胸には落ちないが、川に落ちたと言われた時には、困ってしまったと、笑っていました。小さな者にもいつも、諭しておりました。兄弟たち皆にそのようであったと思います。賢い人であったとつくづく思い出されます。 

祖母のこと
おばあ様は私とは、いちばん長く生活した人です。思い出も多い人でした。迷惑もかけました。いつもこの人にはね怒られてばかりでした。おじい様には、はね口答えもせずにいたのに、おばあ様には、反発ばかりしていました。他の姉たちもそのようだったと、申しておりました。祖父は怒っても、子供は、だめだといっても、祖母には、通じなかつたとおもいます。幸福に生まれた人と思います。村長の娘として生まれすばらしい男性にめぐりあえて、良い子供たちにめぐまれて、近所の人達にも、姉様と慕われてこのうえもない幸せに、生まれてきた人と思います。終わりまで幸せであったのでは、決してありませんでした。先ずつれあいに死なれ、つづいて娘に先立たれ次々と、三人の娘たちを失ったのです。その悲しみどんなだったかはかり知れないものがありました。食事どきになると姿がみえないのです。父は小言をもらすので、訳をきいてみると、お墓えいって、石を投げていたと言うのです。寂しさをまぎらすためだったのでしょう。年月が経つと薄らいできたのか、持ち前の明るさで挫けそうになる家中を笑わせてくれました。無口になりがちな私に、御岳山でも、歌ったらと言うので歌い出すのです。すると、調子はずれな声でヨサコイアバヨなんて、はやしをいれるのです。その明るさは、持ち前のものかまたは思いつきのものかはわかりませんでした。どれほど、母亡き後家じゆうをあかるくしてくれたのかわかりませんでした。その時はあたりまえと、おもいましたが、今おもうと、感謝でいつぱいになります。

 

       大御爺様と大御婆様                      油屋の人々

               上の2枚の写真も中村のおばさんから提供頂きました。