川島での生活
食生活は第一でした。田舎のそのものとはまるきりちがいますから。弟たちは、育ちざかりでしたが、田舎では食量はありますから工夫をすればなんとか間にあつたのです。
学校時代と言っても、小学校しかいかれなかった私でした。向学心に燃えていましたが、親にそのためずいぶん反発もしましたが駄目でした。女の子らしくなくずいぶんひどいことをして皆をおどろかせていましたので、いまでも語り草になっています。はずかしいかぎりですが、よくもあのようなことが、できたとおもいます。親はなんと思ったのか、祖父はどう思ったのか、そのことについて叱られた覚えがなかつたのですが今考えても不思議に思います。先生方には、いろいろだったように思います。でも学校は大好きでした。友達はおうぜいいましたし、弱い人はかわいそうでならなかったのです。弱いものいじめの、男の子には、断然とたちむかっていきました。宏江さんには、ずいぶん助けられたのよと思い出ばなしが多いのです。男性てきなところがあったのです。自分自身好きでした。
冬季は青年学校があって、裁縫家事が主で男子は、軍事訓練その他だったと思います。雪道、氷道でもなんのその、下駄ばきで、4キロの土道をせっせと通いました。途中でいつも先生が待っていてくれて、話をしながらだったので、帰りも話をしながらだったのです。そのせいか、奥様が子供さんをだいて表に出ておいででした。あとで、きづいたことでしたか。まだそのことについて幼かったとおもいます。
幼いときから、作文が好きと言っても、母が私の作文を待っていたのでした。悪さをしたことなんでもござれで書きまくり、母の喜ぶのをみたくて得意なっていたのです。母もいたずら好きだったのかもしれません。或るとき喧嘩という題材で書いたことがあって、母はその作文ついてほめてくれました。その作文をほかのクラスで先生が読んで聞かせたとかで私のクラスの生徒のお姉さんに呼び出されて、随分に怒られた記憶があります。それは妹が学校にこられなくなったと言うのです。もう叱られるのが怖くなって喧嘩のような作文は、書くことはやめました。母はあの作文のことは、私が成長してからも、思い出話にしたほどでした。
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