TOP 心の中 旅 行 鉄道模型 リンク 更新履歴


瞑想に辿り着くまで ブログ瞑想してみる


現在に辿り着くまで

シュエダゴン境内の像2
今後、本サイトの更新は行いません。いずれ本サイトは消滅すると思います。
本サイトのコンテンツの多くはブログ「瞑想してみる」に移設しました。

2011年10月28日

瞑想に辿り着くまでの詳細は、ブログ瞑想してみるの2005年8月の記事により詳しく掲載しています。





仏教に戻る  04/03/21
 5年間のカウンセリングを経て、臨床心理学とお別れした。とにかく自力で原始仏教を勉強してみようと思った。原始仏教書籍から、四聖諦、八正道など重要と思われる用語とその意味をノートに書き出した。また、当時発刊された岩波の仏教辞典を読破し始めた。この辞典は大乗仏教寄りであったが、重要項目はすべて読み終わり、これはそれなりに勉強になった。
 こうして、再び仏教に戻り、いろいろと勉強しだした。
 この中で、パーリ語勉強会や、門司の平和パゴダなど、原始仏教に近い、というかそのものかもしれない上座仏教を知ることにもなる。そして、数年後、出家する機会も得ることに。
 最初は仏教用語や教義の定義などを読んでいただけだったが、そのうち、修行法についても知ることになり、瞑想も少し行うようになった。


心理学の限界  04/03/14
 5年間カウンセリングを継続して、心の中を見つめてみようとしたが、結果的にはそれほど進展しなかった。それでも、こういう時間が持てたというのは、何かしら自己の心に影響を与えたとは思う。しかしながら、臨床心理学のテキストにあるような変化は、少なくとも私にとっては生じなかったと思っている。これは自分は心が開けない人間だったのか、カウンセリングとの相性が悪かったのかはわからないが、いずれにしてもこの手法にはやはり相性があるのかもしれないと思った。
 それに、私の場合、別に社会からドロップアウトしているわけではないし、日常生活が営めないなど差し迫った問題を抱えている訳ではなかった。自己を深く探求したいだけだったのだ。やはり自己を探求するのに他の人を頼ってはいけないのではないかと思った。
 さらにカウンセラーとの相性や力量が大きく作用することもわかった。カウンセラー初心者は、どうしてもカウンセリング技法に頼りがちになり、本来の人と人との心の交流がおろそかにされてしまうような気がしていた。技法に頼るカウンセラーはなにか胡散臭さを感じてしまう。
 どうしても最初は技法を習得するためにしょうがないのであろうが、その技法を習得するカウンセラーもまた俗人である。仮にすばらしい治癒力を持つカウンセラーに巡り会ったとしても、それは俗世界での社会復帰に対して大きな力を持つものであり、自己の深みに分け入っていこうとするものにとっては、何人も関与できないのではないかと思ったのだ。自分の力量、人格を超えて人を引き上げることはできない。後にわかってくるが、自分の達した境地以上に弟子を導くことはできない。
結局、心理学では自己探求に限界を感じてしまう。これはやはり、いくら時間がかかっても、どんなに道が険しくても、今この時点では仏教に戻るしかないのではないかと思った。


カウンセリング 04/03/10
 こうしてユングを中心に臨床心理学関係の書籍を読んでいった。ユング心理学の講演会などがあると参加したりしていた。そのうち、カウンセリングなるものを体験して、自己の心の内を探求してみたくなった。
 最初は近所の病院の精神科を受診し、カウンセリングとか精神分析を希望してみたが、徒労に終わった。精神科は薬を出さないと金にならないから、飲まなくてもいいから薬を貰ってくれとも言われた。とてもカウンセリングのできる環境ではなかった。
 それではと、都内のユング系カウンセリングを行うところを訪ね、ここで約5年間にわたってカウンセリングを受けることになる。ロールシャッハから箱庭までいろいろと体験した。
 この5年間、夢日記も書いていた。毎朝、起きるとすぐ、夢を忘れないうちに枕元のノートに書き留めていた。夢診断などの本を買ってきては夢分析も試みたが、特に成果は得られなかった。心の中はテキストの事例に出てくるような典型的な現象は少なく、とても複雑で、夢一つからわかることは限られてしまう。そしてそのわかったことも、あらためて夢分析などしなくても、すぐに自分で気づくことが多い。少なくとも私にはあまり有効ではなかったようだ。


ユング心理学 04/03/10
 24、5才の頃、一人自家用車で旅に出た。そこで立ち寄った静岡市内の書店で偶然見つけたのが、ユング心理学関係の本だった。立ち読みしていたらどんどんひきこまれてしまい、そのまま買って、夜、車の中で読んでしまった。性格のことを書いた本だった。
 性格なんてそんなに興味なかったが、なぜかひどく興味を覚えた。その本の元になっていたのがユング心理学であったのだ。この本をきっかけに臨床心理学やユング心理学という世界があることを知った。ユングの書籍は心理学の書棚には必ずあった。ユングなど分析心理学関係の本を買ってきては読んでいた。当時は河合隼雄教授などが活躍していた頃で、たまに講演会なども聴きに行った。仏教は悟りまでの道程がとても遠く感じられたが、心理学は同じ凡人が行う学問であり、仏教のように極めることはできなくとも、少しは先に進めるかもしれないと思った。


仏教から離れる  04/03/10
 当時はまだ古めかしい装丁だった岩波文庫の原始仏教経典はすべて読んでみた。20歳過ぎの頃である。ちょうど、今は和尚と呼ばれているバグワンシュリラジニーシの本も出始めた頃で、この人の本も数冊読んでみたりした。ほかにもクリシュナムルティとか精神世界のマスターの本を読んだりしたが、結局のところ、根っこのところは仏教に行き着く。
 最近の気づきや原因と結果などに関する本でも、要するに書いてあることは仏教そのものからエッセンスの一部を取り出して論じてあるもので、これまた仏教に行き着く。やはり仏教でいいんだと思った。
 こうして仏教関係書籍を読み漁るのであったが、仏教の目指す悟りの世界は、当時の私にはあまりにも高遠に感じられた。戒律を守ることからして、欲望を抑えることになるし、ましてや悟りに至るにはそれこそ気の遠くなるような訓練が必要であると思われた。とても自分がちょっと実践したくらいでは到達できる世界ではない。
 仏教は勉強するにはおもしろいかもしれないが、実践して悟ろうなんて一生かかっても手の届かないところの世界だなと思った。
 こんなことやってるより、もっと身近な世界で、自分の心が理解できることはないかと模索しているときにユング心理学に出会う。
 これを契機として、いっきに仏教から離れていって、ユング心理学に傾倒していく。


原始仏教  04/03/10
 こうして仏教史を紐解いてみると、原始仏教という言葉に出会った。小乗とか大乗とかに分裂する以前のお釈迦様のオリジナルな教義を総括してこう呼ばれていた。お釈迦様の教えである仏教を直接学ぶには、後世に付加された様々な教えの影響のない、オリジナルな仏教を学ぶのが一番であることを知る。こうして原始仏教関係の書籍を探してみる。
原始仏教の本というと、これまた必ず行き当たるのが、故中村元先生の本である。たしかはじめて読んだのが岩波文庫の「スッタ二パータ」だった。口語体の日本語で書かれていて、お経って本来はこういうものなのかということがわかってホッとしたことを覚えている。本文よりも注釈のほうが分厚いというのも気に入っていた。
 仏教史や大乗仏典の本を読んだときから思っていたのだが、聖書やコーランでも現代日本語で読むことができるのに、なんで仏典は口語訳がなかなか出てこないのだろうと。ほんとうに布教する気があるなら口語訳つくってみんなにもっと手軽に読んでもらえるようにしたらいいのにと当時思った次第だ。
 だから口語訳のお経はとても新鮮だった。内容もシンプルで、わからないとことも多々あるが、でもこの教えを捨ててしまうのはもったいないような気がしていた。
 ちょうどこのころ、ダンマパダやテーリーガーターなどが岩波から発刊され始めた頃で、毎月岩波の新刊案内をチェックしていたのを思い出す。


仏教書を読む  04/03/10
 座禅やヨガの本を読んでいると、ほぼ必ず仏教に突き当たる。高校生の頃、仏教といってもどこから手をつけていいかまったくわからなかった。書店には専門書もあったが高価であるし、とりあえず般若心経入門を買ってきて読んだ。でもなんだかよくわからない。本屋や図書館などで仏教書をいろいろと検索していくうちに、日本の仏教は浄土宗や真言宗、禅宗、日蓮宗などいろいろと宗派があって、それも宗派によって主張することがいちいち違う。同じ仏教なのだからたいして違わないだろうと思うのだが、でもなんか違う。
 それでもいろんな本を読んでいるうちに、現在の仏教は単一の教義ではなく、仏滅後、様々に変容発展していったもののなれの果てであることがわかってくる。このころの書籍には、大乗仏教は小乗仏教よりもすぐれているようなことが書いてあるものもあったが、勉強していくうちにそんな単純なものではないこともわかってきた。
むしろ大乗仏教は仏滅後に形成されてきたものであり、かつて(今でもあるけど)我が国などでも大乗非仏説という主張があることもわかってきた。いったい仏教とは何なんだろうと、いよいよ訳わからなくなってきた。
 まずは仏教史から勉強しなければいけないと思った次第であった。


座禅とヨガ  04/03/10
 自律訓練法のルーツが禅やヨガであることがわかると、今度はそれらの世界に触れてみたくなった。本屋で立ち読みしながら見つけ出した本が、座禅入門やヨーガ入門などの本だった。
 ヨーガ入門は故佐保田氏のもので、ハタヨガの実践法とともに、瞑想法やヨガの歴史にも触れられていた。この瞑想法はブッダも実践していただろうことが書いてあったような気がする。
 座禅入門の著者は思い出せないが、実践的な座禅瞑想の入門書だった。ちょうど高校生のころで、自宅でヨガの実践と座禅を組んでいた。ヨガも座禅も自己流であった。ヨガはマニュアルどおり実践すればそれなりに上達していった。
 座禅は半眼や呼吸法が難しく、本には「安楽の法門」などと書いてあったが、実際は、座禅をやるとかえって気が滅入ることのほうが多かった。自己流で行ったためと思われるが、何でこんなんでリラックスできるのか疑問であった。
それでも実践していた。


心に興味をもったきっかけ  04/02/07
 13歳の秋だったと思うが、当時の読書感想文課題図書「医者のたたかい」を読んだことがきっかけであった。この本のある章に精神科医のたたかいがあった。精神科医が世間の偏見とたたかいながら病棟の改善や患者のケア、社会啓蒙活動など、当時の精神医療をとりまく劣悪な環境を変革していくというような内容だったと思う。この本から芋づる式に心理学や精神医療の本に手を出していく。
 すると今度は、社会問題としての精神医療から、自分自身の問題としての心の問題に関心が移っていった。そんな時期に、我が家の本棚にシュルツの自律訓練法なる本を偶然見つけてしまう。ふっと手に取って読んでみた。内容は、いわば自己暗示で身体をコントロールするリラックス法である。自分の体をコントロールすることに非常に興味をそそられる。一人でそのリラックス法を実践していた。その本には、この自律訓練法のルーツは禅やヨガにあるようなことが、たしか書いてあったように思う。ちょうど高校生の頃である。
 自律訓練法を実践し要領が掴めてくると、実践中におなかがごろごろとなってくる。腸の蠕動運動が活発になるらしい。心のコントロールで身体に影響を与えることができることを実感した私は、ますますこの実践にはまっていった。


上に戻る


来訪者数