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仏教のこと

シュエダゴン境内の像3

 不妄語戒  05/04/23
 仏教には嘘をつかないよう努める戒律がある。他人を欺いたり騙したりするために大きな嘘をつくことはないが、自らの見栄のために無意識的に思わず嘘をついてしまっていることがたま〜にある。こういう嘘も戒めていきたい。
 でも、以前から気づいていたのだが、最も恐ろしいのは、自分に対する嘘である。自分の本当の有り様を直視せずに、実に巧妙に避けているところがある。特に最近はこの問題に直面することが多い。瞑想などの修行をするにあたって、まず、自分の心に正直であることが最も求められることだと思う。本当に最近は切実に感じている。
 自らの心を正直に直視してさらけ出さないことには、心の治療は出来ないということだと思う。心に巣くう清濁をすべてありのままに直視していく努力が必要であると痛切に感じるのだ。
 生まれてこのかた、ずっと自分の心を素直に認めてこなかったことが、心が汚れていく原因ではないかとも思う。
 不妄語戒とは、単に他人に嘘をつかないということではなくて、本当に取り組むべきことは、自らの心に嘘をつかず、避けることなく直視していくことであると思う。
 それと、
 自らの心を素直に見つめるためも瞑想が欠かせないが、最近、自分の内面を表す川柳をつくってみることも役立つかも知れないと思い、密かに始めている。

修行  04/06/17
 日本語で修行というと、なにか非常に厳しい特殊な行為を行うようなイメージがあるように思う。修行という言葉に、一般人とはかけ離れた特殊な行為を行うような感じを受けてしまう。英語の仏教書を見ると修行はエクササイズやトレーニングに訳されることが多い。英語のほうが修行の本来のニュアンスを体現しているような気がする。仏教のメインとなる修行は、単に自分の身心の動きを集中力を持って持続的に、善悪の判断もせずにただひたすら見つめ続ける行為と考えている。これは要するに自分の心を対象にしたトレーニング(練習)である。テニスが上手になりたかったら、テニスの練習をするしかないように、心を浄化して悟りに至りたければ、一生懸命に心のトレーニングをすればいいということだろう。いわばスポーツに置き換えて考えるとわかりやすいのではないかと思っている。

殺生  04/05/30
 さすがに人間を殺すのは躊躇するのだが、虫くらいであればそんなに罪悪感は感じない。心の中ではよく人間も含めて生き物を殺すところを空想してしまう。怒りもそうだが、心の中で殺生をして、空想して、楽しんでいる自分がいる。子供の頃はよく蟻などを潰して殺していたが、今になって後悔している。でも一方で心の中では今でも蟻を潰すとストレス解消になるようにも感じる。以前に釣りをやっていたが、魚くらいになるとちょっと絞め殺すのに躊躇した。でも魚はおいしい食材であり、躊躇しながらも絞め殺していた。
 今でも心の中には殺生したいという心が潜んでいる。恐ろしいことである。

鎌倉大仏が好き  04/04/18
 この間、ミャンマー人の女性と話しをしていて、ミャンマー人は鎌倉の大仏が好きという話になった。ミャンマー人には、「鎌倉大仏を仏壇に置いて拝んでいると、いつか日本に行ける」という迷信のようなものがあるとのこと。みんな真剣に信じてるわけではないけど、いわばおまじないのたぐいだという。でもこの理由のほかにもミャンマー人は鎌倉大仏が好きなのだった。それは、鎌倉大仏が左右の均整がとれた仏像だからだそうだ。形態が美しいのだそうだ。
そう言われてみれば、ミャンマーの仏像って、片方の指先は大地を触れているのが多いよな。
ミャンマーの友人に会いに行くとき、鎌倉の土産物店で売っている大仏のミニチュア像を持っていくと喜ばれるもんな。


嘘つき  04/04/18
 在家仏教徒の戒律の中に嘘をつかないというのがある。この戒律は特に在家だけではなく、すべての仏教徒が守るよう努力すべき基本的な戒律である。
 で、嘘をつかないようにしているのだが、やはり嘘はついてしまう。別に詐欺を働こうとか、人を陥れようとかするわけではない。普段の会話の節々で、ふっと嘘が混じってしまっていることに気づくことがある。ほとんど無意識に嘘をついているのだ。
A「遅くまでご苦労さまでした。」
B「大したことないですよ。」
これだけでも嘘が二つもあるかもしれない。
本当に相手に対してご苦労様と思っているのか。本当に大したことないと思っているのか。
もしかしたら、どちらも心にもない社交儀礼かもしれない。
嘘をつかず、それでいて周囲の人間関係も円滑に運ぶとなると、これは智慧が必要になる。
おのずと無駄なおしゃべりを慎むようになるだろう。黙っていることが多くなるわけだ。
そうじゃなくても、つい嘘をついてしまうこともあるのだから。よほど注意していないといけない。
出家僧は、そういう意味でも無駄話はしない。
この文章の中にも嘘があるかもしれない。


怒り  04/03/26
 仏教では、怒りは煩悩の一つになっている。この怒りの中には泣くことも含まれる。
 私は他人に対して普段から怒りを露わにするほうではない。だからといって私が怒らない人間かというとそうでもない。ただ単に怒りをストレートに表現しないタイプなだけだ。
 心の中では、それも自分さえ気づかない形で、巧妙に怒っているような気がしてならない。
 よく空想するタイプなのだが、その空想が次の空想を呼び、頭の中で次々と物語ができてしまう。こういう物語の内容の多くは、怒りに根ざしたものになっている。頭の中で物語りづくりが始まると、なるべくストップするようにしているのだが、時として、どんどん怒りを増幅させて物語の展開を楽しんでしまうことも多い。心の中で怒りを増幅することはいけないことであることは、仏教の教えそのものなのだが、「わかっちゃいるけど止められない」状態になってしまう。自分自身で、自分の心が怒りの気持ちを楽しんでいるのがわかってしまっている。そして、その怒りは邪悪な心であり、今すぐストップしないといけないだろうとも思っている。でもまた空想してしまう。まったくだめである。
 表向きは自制しているが、心の中ではものすごい怒りの感情がうごめいている。こんなことでは、いつになっても悟れないと思ってしまう。自分ではほとんどコントロールできないのではないかと思うくらい煩悩の力は強い。


おしゃべりについて 04/02/07
 仏教では慢は阿羅漢にならないと無くならない煩悩と言われている。それだけ強い煩悩なのであろう。実際、自分の心の中をのぞいていても、ほぼ慢の連続のような気がする。特におしゃべりをすることは、そのまま慢である場合が多いように感じる。おしゃべりしているときの心の中では「どうだ、俺はこんなことまで知っているぞ。すごいだろぅ。」というような心理が裏で働いていることがほとんどではないかと思っている。おしゃべりすることは楽しい事とは思うのだが、一方では慢の吐露になっている場合が多い。それで出家僧侶は私語は慎むようになっているのだと思う。


「慢」とは・・ 04/02/07
 他と比較して心の高ぶることをいい、自ら自己におごり高ぶることをきょう(漢字はHPでは表示不可)という。
 慢はふつう、慢・過慢・慢過慢・我慢・増上慢・卑慢・邪慢の七慢に分けられるが、八慢あるいは九慢とすることもある。それぞれに対して自らを誇ったり、他に対して自らを過大評価したり、我を執したり、徳もなく悟りも得ていないのに徳があり悟りを得ていると思い込んだりする煩悩を分類したものである。(岩波書店 岩波仏教辞典第二版より)


「煩悩」とは・・ 04/02/07
 身心を乱し悩ませる汚れた心的活動の総称。輪廻転生をもたらす業を引き起こすことによって、業とともに、衆生を苦しみに満ちた迷いの世界に繋ぎ止めておく原因となるものである。(岩波書店 岩波仏教辞典第二版より)


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