『伊那谷の老子』

                    北原こどもクリニック

                          北原文徳



 あれは3月半ば頃だったか、平安堂書店の カウンター脇に風変わりなCDが置かれてい るのが目に止まった。『大いなる谷の歌 -タ オ ヒア ナウ コンサート-』と題されたその CDを手に取ってみると、即興詩:加島祥造、 ピアノ:板橋文夫、打楽器:前田祐希の3者 による、昨年の夏に駒ヶ根市中沢で催された ライヴパフォーマンスを記録したものだと書 かれていた。

 信州大学、横浜国大などで現代英米文学を 研究し、フォークナーの翻訳家としても名高 い駒ヶ根市在住の詩人、加島祥造の名を恥ず かしいことに僕は全く知らなかった。ただ、 大好きなジャズピアニスト板橋文夫が参加し ていると知って、興味半分でこのCDを買う ことにしたのだった。

 何の打ち合わせもなく、まったくの即興で 行われたというこのパフォーマンスは、一聴 してその見事なコラボレーションと信じられ ないような完成度の高さにまずは驚かされる。  詩人の裡からごく自然に湧き出す言葉に、 じっと耳を澄ますピアニスト。彼はその詩句 から得たイメージをメロディに変換して詩人 に再び返す。さらにそのバックグラウンドで、 夕暮れ時の蝉時雨と鳥のさえずりが録音機に しっかりと収録されており、CDを聴くうち に何とも言えない不思議な自然との一体感を 感じさせてくれるのだった。

「大いなる谷の歌」とは、この伊那谷のこと を主題にした詩だ。東西に3000m級の山並みが 嶮しく切り立つにも関わらず、谷の中央を天 竜川が滔々と流れることで、豊かでゆったり とした平野を持つ伊那谷。この伊那谷で生き ることの意味を、今まで誰も思いつかなかっ たような視点から、加島祥造は優しくそっと 僕に教えてくれる。それは何とも新鮮な喜び だった。例えば、彼はこのCDの中でこんな ふうに言っている。

『命にあまりものを詰め込まないことだよ』 
                加島祥造

名のない領域から流れ出たものは
地上に出て 水という名がつけられる
その水が あらゆるものを潤して
  この大きな谷の中を流れ下りて行く
この大きな空間に 緑と命とを与えた


それは この空間があるからのことであって
もし 空間がなかったら
  何ひとつ成り立たない
高い山が谷によって出来ているように
谷という空間が高い山を支えているように
われわれは空間によって命を働かせている


だってそうでしょう
コップ一つだって
そのコップの中に空間がなかったら
コップなんて何の役にも立たない
家だってそうでしょう
もし家が詰まっていたら
  誰一人住めやしない
家で大切なのは 空間でしょう


そうして、この楽器だってそうでしょう
楽器がすばらしいんじゃない
楽器が作り出す空間が音を出し
その音がわれわれに伝わることで
われわれを感銘させる


(中略)


およそこの空間がなかったら
われわれは何一つできない
  そして
われわれにとって いつもそれは
見えないもの


肉体は見える
だけど 命は見えない
だから
命の中にあんまりものを詰め込まないことだ
命にあんまりものを詰め込んだら
詰まってしまう


心は見えない
だけど 心をつつんでいる頭は見える
心の中にあんまりいろんな物を詰め込んだら
たぶん
あんたの心はやがて 死んでしまうだろう
新しいものを受け入れる空間がないから
われわれにとって一番大切な空間には
いつも何か新しいものを入れる命があるんだ


逆に言うと
それが空間であればあるほど
命が活動しているんだということ
そんなことを
谷にいる人間はいつか感じるようになる
ものが詰まっていない大きな空間を
われわれは今、いつも共にしているからだ


 この詩の根本にあるものは老子のタオ(道) の思想だ、とCDの解説には書かれていた。 それにしても、現代英米文学研究家がなぜ紀元 前中国の春秋時代に生きた老子の、一見無為で 厭世的で世捨て人のような、この最も東洋的な 思想にはまってしまったのか? とても不思議 だった。でも確かに、彼が訳したその老子とや らの言葉は、何だかぜんぜん古くさくはないし、 じつに魅力的に僕の心の中で響いたのだ。

 この詩人と老子の関係がちょっと気になって 伊那市図書館で検索してみると『伊那谷の老子』 加島祥造著(淡交社/1995)という本が見つかっ た。読んでみると『タオ-ヒア・ナウ』加島祥造 著(パルコ出版/1993)がそもそもの始まりだっ たと、その経緯が書かれている。
『タオ-ヒア・ナウ』は単なる『老子』の和訳で はない。原文は一切読まずに、英訳された『老 子』だけを読んだ加島祥造が、詩人として、現 在の自分が感じえた老子をいまの生きた言葉で 現代詩に転じる試みだった、とある。
 漢文の和訳ではさっぱり理解できなかった老 子の言葉が、英語に翻訳されて書かれたものを 読んでみるとストレートにすごくよく分かる。 それをさらに詩人のフィルターを介して濾過さ れ湧きでてきた言葉が、現代口語詩として全く 新しく表現される。そんな逆転に次ぐ逆転の発 想から、彼は老子を平成の伊那谷に蘇らせたの だった。

 僕にとっても、この「老子」発見の経緯は偶 然の賜物だった訳だけれど、今この原稿を書き ながら、何となく不思議な「えにし」のような ものを感じている。驚きの老子体験をされたい 方は、まず彼の最新刊エッセイ『老子と暮らす 知恵と自由とシンプルライフ』(光文社)が易 しく読みやすくてお薦めです。
 今年も、駒ヶ根市中沢の加島祥造氏宅倉庫を 改造した「晩晴館」で、7月23日(日)にコンサ ートが開かれる。出演は斎藤徹ベース、黒田京 子ピアノといった布陣とのこと。なおCD、著書 の注文は下記の加嶋事務所までご連絡下さい。 (1998年7月・記)


【参考文献】

『大いなる谷の歌 タオ ヒア ナウ コンサート』
加嶋事務所 加嶋裕吾 (定価 \2200 税別)
    FAX: 0265-82-7532
『タオ-ヒア・ナウ』加島祥造(パルコ出版)
『伊那谷の老子』加島祥造(淡交社/1995)
『心よ、ここに来ないか』加島祥造(日貿出版)
『タオ・老子』加島祥造(筑摩書房/2000/3月)
『老子と暮らす 知恵と自由とシンプルライフ』
  加島祥造(光文社/2000/1/30)\1500 税別



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