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北原こどもクリニック  



お父さんが「絵本」を読むことの意味


  ●おとうさんにとっての「絵本」とは何か?
・このページには、個人的な「絵本体験談」および「絵本論」を載せてあります。

<お父さんにとっての「絵本」とは何か考える> (その6) (2003/08/05)
<お父さんと読む絵本>●    (2003/03/27)
<絵本とジャズとの不思議な関連>(その2)  (2003/05/05)

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 「小児科待合室で こども寄席」         2008/06/15 

小児科待合室で「こども寄席」
                         北原こどもクリニック 北原文徳

 伊那市在住の父親5人組による絵本の読み聞かせ活動を始めて、まる4年が経ちました。「絵本ライヴ」と名付けて、長野県内外で40回以上もよく続けてこれたものだと思うのですが、一度味わったらやめられなくなる不思議な魔力が潜んでいたからだと思います。それは、演者と子供たちとを包む「場の力」です。お芝居でもコンサートでも同じですが、ステージと観客が相互に影響し合ってライヴ独特の一体感、高揚感が「ある瞬間」得られることがあるのですね。しかも、今までは客席側の人間だったのが、ステージ上の演者となって子供たちの注目を浴びる喜び。これはちょっと他では味わえません。

 絵本の読み聞かせが、お芝居やコンサートと唯一異なる点があります。それは、客席の照明が「ついたまま」であるということです。演者から子供たちの表情が見えないことにはお話にならないですから。ところが、絵本を用いない「語り」(ストーリー・テリング)の場合だと、ロウソクの炎だけ灯して周りを暗くした方が雰囲気がでて観客は集中してくれます。囲炉裏端でおばあちゃんが語る日本の昔話も同じですね。

 日本の古典芸能である「落語」は、ストーリー・テリングには違いないのですが、何故か寄席の客席は照明が落とされることがありません。客席が暗くて見えないと噺家さんはとてもやりにくいのだそうです。三遊亭圓歌、橘家圓蔵、春風亭昇太、笑福亭鶴瓶などは例外ですが、普段メガネを掛けている噺家さんは、高座に上がる時にはメガネを外します(ちなみに腕時計も外します)。江戸時代の八っつぁん、熊さんがメガネや腕時計をしてたら変ですからね。だから強度の近視の噺家さんは高座に上がる時だけコンタクトを入れるそうです。

 はなしの「まくら」が長くなってしまいましたが、じつはここ数年、落語にどっぷりとハマっているのです。絵本の読み聞かせと落語は思いのほか共通点が多い。先ほどの照明の件もそうですが、同じ絵本(演目)を読んで(演じて)いても、演者によって観客が受ける印象はぜんぜん違います。それから、何度も同じ話を聞いていて、ストーリーも落ちも分かりきっているのに、同じ絵本(落語)をまた聞いてみたくなる。不思議と飽きることがない。それから最初に触れた「場の力」。新宿末広亭のまったりとした独特の雰囲気などは、ちょいと他では経験できません。文楽、志ん生、圓生、金馬といった昭和の名人芸をCDで聴くのもよいけれど、寄席でナマでライブの落語を見るのが一番楽しい。

 日本独自の落語という話芸を、伊那の田舎に住む子供たちにもぜひ味わってもらいたい!ぼくはずっとそう思ってきました。だから、自分の小学生の息子たちには、車で移動中の際に必ず落語のCDを流して聞かせました。立川志の輔さんの『みどりの窓口』『はんどたおる』『踊るファックス』の新作3本は、子供たちにも大受けでした。最近では柳家喬太郎さんの『寿司屋水滸伝』や『諜報員メアリー』、先代三遊亭金馬の『金明竹』『転失気』『居酒屋』などを、よくリクエストしてきます。

 そんな苦労の甲斐あってか、わが家の息子たちも昨年のGWに上野鈴本演芸場で寄席デビューを果たしました。それから、10月から始まったNHK朝の連続テレビ小説『ちりとてちん』には、妻も含めて家族全員が夢中になってしまい、日に3回4回は再放送を見つつ、大笑いしたり号泣させらりたりと、楽しい毎日を送っております。放送初回から欠かさず見てきた「元祖ちりとてファン」であることが、わが家の何よりもの自慢です。


 さて、昨年7月初めのことです。ひょんなことから、北原こどもクリニックの待合室で「こども寄席」を開催することになりました。たまたま、秋に予定された高校卒業30周年記念同窓会ための準備委員会で、同級生のT君と久しぶりに会って、当時彼は野球部で落研所属だったのだけれど、今は伊那東部中学校の社会の先生。「おい北原、今度東京から若手落語家を呼んで伊那で落語会をやるんだけれども、協力してもらえないか?」って誘われたのです。7月3日(火)夜7時から焼鳥屋の2階で開かれるその落語会の前に、噺家さんに当院待合室へ寄ってもらって、夕方5時半から30分くらい「こども落語会」が出来ないかなってT君に打診したら「うん、いいんじゃない」と段取りを付けてくれて、思いがけずトントン拍子で企画が実現したのです。待てば海路の日和ありとはこのことか。うれしかったなぁ。

 当日は午後の診療を1時間早く店じまいして医院スタッフ全員で会場設定。そうこうするうちに、二つ目の落語家、三遊亭金翔さんとお囃子の恩田えりさんが到着。自宅リビングのテーブルに赤い布を被せて紫の座布団を載せれば立派な高座の完成です。江戸文字で出力した演者さんの「めくり」を点滴台に貼り付けたらちょうどいい感じ。フロアには息子のクラスの同級生たちや、妻があちこちメールして集まってくれた親子連れが詰めかけてくれて、結局70人近くにはなったかな。ありがたかったです。

 三遊亭金翔さんは、その昔NHKの「お笑い三人組」で人気を博した当代三遊亭金馬の次男、三遊亭金時師匠の一番弟子で、東京外語大学日本語学科を卒業後、テレビ東京に就職するも、落語の世界に魅せられ、現職をなげうってまで入門したという変わりダネ。
 金翔さんは、6月末に宮崎県都城市の全ての小学校を廻って「小学校寄席」をやって来たばかりだとのこと。道理で子供たちの扱いがうまいワケだ。お囃子にのって登場するなり開口一番「寿限無」の口上を子供たちといっしょに斉唱。「君たちスゴイねぇ」とヨイショして、あとはギュッと引きつけて一気に子供たちの心を鷲掴みにする。スゴイなぁ、プロの技は。

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 普通、学校寄席は体育館で開かれるのですが、天井は高いし、ステージと生徒たちとの距離も必要以上にあって案外やりにくい空間です。そこいくと、狭い待合室にぎゅうぎゅう詰めに肩寄せ合って体育座りしている子供たちが発する「場の空気」は、落語家さんを大いに刺激したようですね。「落語の解説」「子供お囃子教室」に引き続いて、お待ちかね金翔さんの落語の一席。この日の演目は『平林』。大熱演でした。何せ、落語といえば笑点の大喜利のことだと思っている子供たちでしょ。生まれて初めて見た生の落語は、想像以上に楽しかったようです。  落語では「おなじみ」の丁稚小僧の定吉が、旦那さんからお使いのご用を言い渡されます。「吾妻橋の向こうの平林さんの家へこの手紙を届けておくれ」「へーい、承知しましたぁ!」物忘れがひどい定吉は、何とか忘れないように、歩く道々「呪文」のように「ひらばやし、ひらばやし」と唱えながら行くのですが、途中でいろいろと障害に遭遇し、気が付けばすっかりその名前を忘れてしまっています。困る定吉。でも「あっ!そうだ。この手紙に漢字で宛名が書いてあるから、あたいは字が読めないけれども、誰か通りすがりの大人に読んでもらえばいいんだ!」このあたりは妙に賢いんだね。

 ところが、行き会う大人がみな無責任な知ったかぶりの大人ばかりで、笑ってしまうのです。「お、これはな、上の字が『ひら』で下が『りん』。『ひらりん』じゃな」とか、「漢字はね、ひとつひとつ分解して読めばいいんだよ。だから、いちはちじゅーの、もーくもく」。「もっと丁寧に読まなきゃだめよ、ひとつとやっつで、とっきっき! よ」とか、いいかげんな解答ばかり。定吉は「そうでしたか、ひとつとやっつで、とっきっき!ですね。ありがとうございました。ひとつとやっつで、とっきっき! ひとつとやっつでとっきっき! あれ?なんか違うなあ?」という噺。

 三遊亭金翔さんは、テンポよくしかも今の小学生に分かるようにオリジナルのクスグリを交えつつ落語を語ってゆきます。子供たちが知らず知らずと「その物語世界」へぐいぐい引き込まれてゆく様子が、端から見ながらリアルに実感できましたよ。もう、どっかんどっかん大受けでした。大きな歓声や笑い声が絶えず、子供たちの反応はじつによい。やはり、演者がいて観客がいるという「ライヴ」の場の力は本当に凄いな。北原こどもクリニック待合室の空気が、ゼリーの如く濃密に固まる瞬間に立ち会えた喜びは、たぶん一生涯忘れられないでしょう。

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   ところがこの日、医院受付の電話が落語会の途中で鳴らないように消音設定にしたり、携帯の電源をオフしてもらったりの気遣いはしたのですが、待合室に掛けてあるディズニーの「からくり時計」までには考えが及ばなかったのです。照明が暑かったか、汗だくだくで熱演する金翔さんが、『平林』の終盤、定吉が吾妻橋を渡ったあたりで、「もうこうなったら、教わった名前を全部順番に唱えて行けば、そのうちに本人が気づいて出てきてくれるに違いない」と「たーいらばやしか、ひらりんか。いちはちじゅーのもーくもく。ひとつとやっつで、とっきっき!」と連呼する場面でちょうど午後6時となり、待合室の「からくり時計」がいつものように動き出し、ミッキーとミニーが登場して「It's a Small Wald 」のテーマが高らかに待合室に響き渡ったのでした。子供たちの注意が一瞬削がれたので、ぼくは焦りました。金翔さんは、もっと焦ったことでしょう。ごめんなさい。

 でも、金翔さんは動じることなく落ち着いて「It's a Small Wald 」の音楽をかき消す勢いで「たーいらばやしか、ひらりんか。いちはちじゅーのもーくもく。ひとつとやっつで、とっきっき!」と連呼しました。そのおかげで、時計に持って行かれかけた子供たちの意識はまたしっかりと高座に戻って集中することができたのです。いやぁ、よかったよかった。

 「こども寄席」が終わって、子供たちがみな家路につく道すがら「ひらりん、ひらりん、ひらひらりん」とか「ひとつとやっつで、とっきっき!」などと不思議な呪文を口々に唱えながら帰ったみたいです。妻の携帯には、続々と「こども寄席 御礼」の返信が寄せられました。どこの家庭でも、夕食タイムの家族団らんで、子供たちはみな「落語って面白いよ。すっごく楽しかったよ!また聴きたいな」などと、喜々として父母に語ってくれたみたいです。


 この4月で当院は開院十周年を迎えます。それを記念して、4月19日(土) の午後、再び三遊亭金翔さんを招いて「こども寄席パート2」を開催する運びとなりました。今回は太神楽の鏡味仙花さん(女性)が同行し、江戸伝統の曲芸を披露してくれるそうです。金翔さん、今度はどんな演目を掛けてくれるのかな。今からとても楽しみです。

 ちなみに、噺家さんへのギャランティですが、真打で10万円から、二つ目で5万円(交通費・宿泊費・食事代別)が基本のようです。これは一人で来た場合ですが、色ものさん、前座さん同伴の場合にはまた異なります。さらには噺家さん別の相場もあって、例えば当代一の人気者、立川志の輔さんを呼ぶとなると、一高座100万円近くかかるみたいです。でも、案外安いでしょ。あとは交渉次第ですかね。小児科待合室で「こども落語会」。ぜひ一度、みなさんも企画してみて下さい。

(長野県小児科医会会報47号/平成20年5月25日発行)



 開院10周年記念「こども寄席」 大入り満員御礼      2008/04/19 

■4月19日(土)は前日までの風雨もおさまって青空も顔を出した。子供たちは朝から一日、東大社大祭の御神輿担ぎ。そして、夕方5時からは当院待合室にて「こども寄席」のはじまりだ。大人こども合わせて80人以上の人が集まってくれて大入り満員大盛況でした。本当にどうもありがとうございました。

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まず始めに、三遊亭金翔さんが「落語」の特徴を解説してくれて、子供たちは寄席太鼓(大太鼓・締め太鼓)の叩き方を実際に教わったり、高座に上がらせてもらって、手拭いと扇子を紙と筆に見立てて手紙を書く仕草を体験したりするワークショップが行われた。金翔さんが「やってみたい人」と訊くと、「ハイ!」「ハイハイ!」とたくさん手が上がったよ。

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続いて、太神楽(だいかぐら)の鏡味仙花さんが登場。

太神楽はもともと、種々の都合で神社に参詣できない人たちのための出張サービスとして生まれた奉納舞だった。だからいまでも本流は獅子舞なのだが、それに曲芸などが加わって寄席の芸に発達し、現在の形の太神楽になったのだそうだ。そんな由来から、本来、太神楽は「代神楽」と書いていた。けれども「太」の字をあてるほうが景気がよいこともあって、この書き方が定着したという(『福耳落語』三宮麻由子・著、89ページより)

まずは、海老一染之助・染太郎でお馴染みの「傘回し」。絹糸でがっちり編んだ「鞠」を子供に投げてもらって回したり、鞠の他にも鉄の輪(回るといい音がするんだ)や四角い升も回したよ。

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それから太神楽一番の見せもの「五階茶碗」。これはハラハラドキドキ凄かったねぇ。最前列の目の前で見ていた女の子が感極まって「もう、やめて!」と思わず声を上げたのには笑ってしまった。


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最後は三遊亭金翔さんが再び高座に上がって『転失気』という落語を一席。面白かったねえ。子供たちはみな高座に集中して、お終いまで大きな笑い声が絶えなかったな。子供たちはやっぱり「おなら」の話が大好きさ(^^;;

 お父さんにとっての「絵本」とは何か考える    2003/03/10 


(その2)

お父さんは、なぜ「絵本が苦手」なのか? なぜ「絵本には興味がない」のか?
ということを、このところずっと考えているのです。

で、思ったことは、現実的でリアルなお父さんにはファンタジーは理解できないのではないか? ということです。例えば、初めて親子連れで東京ディズニーランドを訪れたお父さんを想像してみて下さい。子どもはまだ小さいので、たいしたアトラクションには乗れません。一時間も前から場所取りして昼のパレードを見て、30分も並んでポップコーン買って、食事はあまり美味くないし、ビールは飲めないし、首都高を緊張しながら運転してきたこともあって、なんだかやたら疲れるだけです。

でも、横にいる妻と子どもを見ると、喜々としているワケですよ。パレードから手を振ってくれるグーフィーやらミニーちゃんに「キャーキャー」言いながら親子で一生懸命手を振り返しているのです。しかし、トゥーン・タウンのミッキーマウスの家で、ミッキーといっしょに写真を撮っていても、お父さんは何だか気恥ずかしいだけです。この「ミッキーの着ぐるみ」を着た子は、時給いくらなんだろう? とか、アパートは新小岩かなぁ…… とか、彼氏はいるのかな?なんて、どうしても現実的なこと しか考えられないんですよね。

まあ、ディズニーに限らず、キティーちゃんに代表される、ああいったキャラクター商品に「キャー、かわいい〜!」と、夢中になれる心理も、お父さんにはどうしても理解できません。ディズニーが優れたファンタジーを提供してくれているかどうかの議論は、この際置いておくにしても、お父さんは酔っぱらっているときか、夢中になれる自分の趣味の世界に浸っている時にしか、「リアル」を忘れることができないという、悲しい生き物なのですよ。そこんところを、ぜひ、おかあさま方にご理解願いたい。ぼくはそう思います(^^;;


●もう一つ、お父さんの理解を超えていることが「絵本の世界」では当たり前のように横行しているのです。それは、人間ではない「動物」が、何の違和感もなく服を着て、2本足で立って、日本語を話しているという事実です。なぜ絵本には「どうぶつ」がこうも数多く登場するのか? お父さんにとっては、これも大きな謎でした。

このことは、絵本作家の黒井健さんの講演会でも「いまだに判らない疑問点である」としてお話されていましたよ。しかしながら、この難題の解答を、つい最近とうとう見つけたんです! それは、日本児童文学界の巨人であった瀬田貞二さんの『絵本論』(福音館書店)に載っていました。
 子どもは、なぜ動物が好きか、また動物文学が好きか、この質問に対してフランスのすぐれた児童文学者ルネ・ギョーが、明快にこう答えています。
「子どもは、大人たちのなかにはいっていくよりも、ずっとずっと、動物のなかにはいっていくほうが、安心がいくんだ」

 まさにそうなのです。安心がいくからです。いったい、善悪とか正邪とか、ある人為的な価値判断を教えこまれる前のなんにも染まっていない幼年時代に、子どもは大人の世界の外側に立って、大人をじっと見ています。極端にいえば、ある恐れとある憧れをもって、その世界にはいろうとしますが、どうしてもはいれない。はいる気持ちがそれて、まわりにいる生きもののなかにもぐりこんでいく、こういう解釈ができます。子どもたちは、ある意味で、自分たちと仲間の契約をつくって、やすやすと動物たちになじむのです。

 去年の秋(1956年ごろ)だかに、児童文学者の会がありました。その席上で、「なぜ子どもの文学に、動物に仮託した物語が多いのか」という質問が出されました。講師が答えをすっぽかしたときいていますが、ルネ・ギョーの言葉をもって答えるのがほんとうではないかと思います。人間と同じように話し、考え、行動する動物ならば、動物の身を与えないで、人間としてあつかえばいいではないか、というのは似非合理主義です。動物に設定して話を運んだほうが、ずっと親しみがでる ---- こういう便宜的な意味あいのほかに、まして動物の特性を盛りあげた物語には、子どもがやすやすと身をゆだねることができる、直接の強みを知っているべきです。
(p64, p65)
瀬田貞二さんは、こうおっしゃっています。なるほどねぇ。リアルなお父さんには想像もつかないようなお話でした(^^;)

(3月10日 記)


(その3)

「リアル」であることと「ファンタジー」の世界との違いは、この目に「見えるもの」と「目に見えないもの」の違いであると言い換えることができると思います。
人間にとって大切なものはみな、目に見えない。これは「星の王子さま」の口癖ですね。ことば・時間・こころ・しあわせ・愛・かなしみ…… みんな「目には見えない」。 (松居直さん・談)
このことの理解を深めるために、もうひとつ基本的な「テキスト」を用意いたしました。それは、 『サンタクロースの部屋 -子どもの本をめぐって-』 松岡享子・著(こぐま社)です。

この本は、絵本の読み聞かせ業界では大変有名な本なのですが、ぼくはてっきり「クリスマス関連本」だとばかり勘違いしていて、つい先日初めて読みました。びっくりしました。これは間違いなく「名著」です。今まで未読であったことが恥ずかしい。特に「朝日新聞」1973/12/10付 に掲載され、本のタイトルにもなった「サンタクロースの部屋 --はしがきにかえて--」という文章が、ものすごく素晴らしい! あまりにも完璧な文章なので、部分的に引用することができません。そこで、違法と知りつつも、ここにその全文を転載させていただきます。(出版社へは明日、転載許可願いのメールを出します)

 十二月にはいると、街はもうおきまりのクリスマスの風景。「ああ、またジングルベルの季節がきたか」とおとなたちは思い、子どもたちの多くは、やはりサンタクロースのことを考える。やれケーキよ、プレゼントよと、商業主義のあおりたてる騒がしさの中で、それでも「サンタクロースは、本当にいるのだろうか」と真剣に問いかける子どもが、ことしもまた何人かいるに違いない。

 もう数年前のことになるが、アメリカのある児童文学評論誌に、次のような一文が掲載されていた。「子どもたちは、遅かれ早かれ、サンタクロースが本当はだれかを知る。知ってしまえば、そのこと自体は他愛のないこととして片付けられてしまうだろう。しかし、幼い日に、心からサンタクロースの存在を信じることは、その人の中に、信じるという能力を養う。わたしたちは、サンタクロースその人の重要さのためだけでなく、サンタクロースが子どもの心に働きかけて生み出すこの能力のゆえに、サンタクロースをもっと大事にしなければいけない」というのが、その大要であった。

 この能力には、たしかキャパシテイ―ということばが使われていた。キャパシテイーは、劇場の座席数を示すときなどに使われることばで、収容能力を意味する。心の中に、ひとたびサンタクロースを住まわせた子は、心の中に、サンタクロースを収容する空間をつくりあげている。サンタクロースその人は、いつかその子の心の外へ出ていってしまうだろう。だが、サンタクロースが占めていた心の空間は、その子の中に残る。この空間がある限り、人は成長に従って、サンタクロースに代わる新しい住人を、ここに迎え入れることができる。

 この空間、この収容能力、つまり目に見えないものを信じるという心の働きが、人間の精神生活のあらゆる面で、どんなに重要かはいうまでもない。のちに、いちばん崇高なものを宿すかもしれぬ心の場所が、実は幼い日にサンタクロースを住まわせることによってつくられるのだ。別に、サンタクロースには限らない。魔法使いでも、妖精でも、鬼でも仙人でも、ものいう動物でも、空飛ぶくつでも、打出の小槌でも、岩戸をあけるおまじないでもよい。幼い心に、これらのふしぎの住める空間をたっぷりとってやりたい。

 近ごろの子どもは、こざかしく、小さいときから科学的な知識をふりかざして、容易にふしぎを信じないといわれる。しかし、子どもは、本来ふしぎを信じたがっているのだとわたしは思う。図書館で空想物語に読みふけり、図書館員の語る昔話に聞きいるときの子どもたちの真面目な顔つきを見ていると、それがわかる。

 トリック撮影のフィルムでは、空飛ぶ主人公のうしろに、見えないはずの針金をいち早く見つけて、もっと幼い弟や妹の夢を無情に破るその同じ子が、お話の時間には、月の精のつえのひと振りで、冬の森が瞬時に春へと変わるのを、息をつめて見守るのである。本当らしく見せかけることによってつくられる本当と、本当だと信じることによって生まれる本当を、子どもはそれなりに区別している。

 むしろ、見えないものを信じることを恥じ、サンタクロースの話をするのは、子どもをだますことだというふうに考えるおとなが、子どもの心のふしぎの住むべき空間をつぶし、信じる能力を奪っているのではないだろうか。


『サンタクロースの部屋 -子どもの本をめぐって-』 松岡享子・著(こぐま社)、p3〜6
(4月8日 記)


(その4)

ファンタジーに関して、ユング派の臨床心理学者にして児童文学にもたいへん造詣の深い河合隼雄先生は、こんなことをおっしゃっています。
 ファンタジーはどうして、一般に評判が悪いのだろう。それはアメリカの図書館員も言ったように、現実からの逃避として考えられるからであろう。あるいは、小・中学校の教師の中には、子どもがファンタジー好きになると、科学的な思考法ができなくなるとか、現実と空想がごっちゃになってしまうのではないかと心配する人もある。

 しかし、実際はそうではない。子どもたちはファンタジーと現実の差をよく知っている。たとえば、子どもたちがウルトラマンに感激して、どれほどその真似をするにしても、実際に空を飛ぼうとして死傷したなどということは聞いたことがない。

 ファンタジーの中で動物が話すのを別に不思議がりはしない子どもたちが、実際に動物が人間の言葉を話すことを期待することがあるだろうか。子どもたちは非常によく知っている。彼らは現実とファンタジーを取り違えたりしない。それでは、子どもたちはどうして、ファンタジーをあれほど好むのだろう。それは現実からの逃避なのだろうか。

 子どもたちがファンタジーを好むのは、それが彼らの心にぴったりくるからなのだ。あるいは、彼らの内的世界を表現している、と言ってもいいだろう。人間の内的世界においても、外的世界と同様に、戦いや破壊や救済などのドラマが生じているのである。それがファンタジーとして表現される。

(中略)

 そのように外的世界を知った上で、やはり内界のドラマを楽しむこと、というよりは、内的な人生を生きることを子どもたちは行っているのである。
 子どもたちだけでなく、ほんとうは大人たちもこのようなことが必要なのである。ただ、大人たちは外的現実とのかかわりに心を奪われすぎて、そのことを忘れ去ったり、気づかずにいたりするだけのことなのである。

 大人は外的現実とのかかわりがすべてと思いつつ、どこかで不満を感じるようになる。したがって、ル=グウィンが言うように、ファンタジーを馬鹿にする大人たちは、「だいたいが血なまぐさい推理ものを見るか、三文西部小説や三文スポーツ小説を読むか、『プレイボーイ』やもっとひどいポルノ雑誌を読みふけることになるようです。これは飢えきった想像力が栄養を求める必然的な行為なのです」ということになる。

 外的世界と内的世界の両者とのかかわりによって、人間存在は確かな位置づけを得るのである。この世の中に自分をしっかり位置づけること、それは健全であるための相当基本的な条件ではなかろうか。そのために、ファンタジーは大きい役割を背負っているのである。

『「子どもの目」からの発想』河合隼雄・著(講談社+α文庫)2000/05/20  \780(税別) p198 〜201
子どもは乳歯が抜け始める七歳ころまでは「魔法の世界(マジカルワールド)」に住んでいる。そう言ったのは、ルドルフ・シュタイナーでした。このように「大人」と「子ども」で、その「世界観」 がまったく異なるのは、どうも「脳」の機構が異なるからではないか? ぼくはそう思います。

最近、教育者や心理学者の間で『9歳の壁』ということが言われているのだそうです。小学4年生(9歳児)というのは、「分数や小数の計算が入ってくる、遠近画法を用いる、抽象的なテーマで作文が書けるなど、9歳は知的な発達の転換期で、ここでつまづく子が多い」(p125『最新現場報告 子育ての発達心理学』清野博子・著、講談社+α新書・¥880 /2002/05/20)のだそうです。

同じことを、河合隼雄先生は前述の本の中で、こう書いています。
 子どもの心理療法にたずさわっていると、小学四年というのが、なかなか大切な時期であることが痛感される。子どもたちもいろいろな神経症状を持って、親に連れられて来談するのだが、大人とまったく同じ神経症の症状に悩まされる子が出てくるのが、小学四年生である。どうも、子どもから大人になるための大切な第一の関門が九〜十歳あたりにあるらしいのである。

(中略)

 小学四年生あたりで、子どもたちはいままでの子ども特有のものの見方から離れ、基本的には大人と同様のものの見方が可能になるらしい。
『「子どもの目」からの発想』河合隼雄・著(講談社+α文庫)2000/05/20  \780(税別) p233〜234
●思春期を迎えて、子どもの「からだ」が大人の体へと変化してゆくのに対して、 子どもの「脳」は、思春期よりも前の9歳の段階で、大人の脳へと変化を遂げるのです。こうして、われわれは「抽象的な概念」を理解できるようになるのですが、その代わりに「マジカルワールド」を捨て去ってしまわなければならないのでしょう。悲しいことですね。
(2003/04/13 記)

●この大人になることの悲しみに関して、松岡享子さんは尾っぽを失った、アンデルセンの「人魚姫」に例えて、前述の『サンタクロースの部屋』の中でこう述べています。
 この、お姫さまが、本来もっていた尾の代りに、魔女につけてもらった人間の脚ですが、この脚によって、お姫さまは、まるで「水の泡のように軽やかに」歩いたり、ダンスしたりすることができたとあります。しかしまた、一歩、歩むごとに「とがった錐と、鋭いナイフの上をふんでいるような痛みがあった」と、物語はいっています。この脚は、姫にとっては、強く願って、自らのぞんで手に入れたものではあったのですが、しかし、一足ごとに、歩くごとに、常に常に、痛みを感じないではいられなかった……。

 わたしは、ある時期から、よく、この人魚姫の脚の痛みということについて、また、心のうちを相手に伝える声、あるいはことばを失った悲しみについて、考えるようになりました。のぞむものを手に入れて、手に入れた瞬間から、そのことのために痛みを感じる……ということ。得たもの故の悲しみ、ということですね。

(中略)

 今でも思い出すのですが、わたしが大阪の図書館で働いていたころ、しょっちゅう図書館へやってきては、わたしが仕事をしているカウンターのそばで、あれこれおしゃべりしていく男の子がいました。 中学になったばかりか、あるいはなる前だったか。その子が、あるとき、カウンターのはしに腰をかけて、ひどく思い入れのこもった調子で、「人間、ええのは、まあ、小学校2、3年までやなあ。それすぎたら、もうなーんもおもろいことあらへん。」

(中略)

この子がいみじくもいったように、小学校3、4年をすぎると、今いった自意識というものが芽生えてきますから、ほんとうに無邪気に、子どもらしく、いろんなことを心底おもしろいと思っていられるのは、この子のいうように、8、9歳までということかもしれない。(中略)

 もちろん、大人になれば、子どもにはない自由があり、だれしも思い通りに、自分の主人になって生きることを願うわけですが、こうして「脚」を手に入れた大人は、そのことでチクリチクリと自意識の針でつつかれるようになるのです。
『サンタクロースの部屋』 ”尾と脚と” p208〜213より引用
(2003/04/15 追記)


(その5)

さて、人間は9歳を過ぎると、つまらない大人の脳になってしまうようだ、ということは理解できました。でも、同じ大人でも、比較的「絵本」に対して理解力のある母親と、まったく興味を示さない父親とでは、いったい何処が違うのでしょうか?

大人の眼で、ちょっと考えてみると、女性はむしろリアリストであり、男性こそロマンチストであるような気がしますし、女の子よりも男の子が夢中になるコンピュータ・ゲーム は、特に「ロール・プレイング・ゲーム」の世界においてファンタジーの伝統を、ちゃんと継承しているはずです。それなのに、いったい何処が違うのでしょうか?

前回の復習を少しすると、目に見えないものがファンタジーであるとするならば、コンピュータ・ゲーム は、目に見えないとできないモノなので、じつはファンタジーではないのです。男の子たちは、前頭葉を空っぽにして、指先だけの反射神経のみに、ひたすら命を賭けるべく、日夜練習に励むのです。

ところで、ボード・ゲーム愛好家だったこのぼくが、ファミコン買って、初めてプレイしてみたのは15年以上前のことだと思いますが、そのソフト『スーパー・マリオ・ブラザーズ』を 10面までクリアするのには、ずいぶんと苦労いたしました。でも、その時の達成感は読書では決して味わえない快感であったことだけは確かです。

その次に挑戦した『ドラクエ2』は、結局ラストまで行き着けませんでした(^^;) でも、さらにその次に購入した『MOTHER』は、RPGにして初めて最終画面を見ることが出来た、初めてのゲームとなりましました。これは面白かった! このゲームは、糸井重里さんの企画・立案・シナリオでできていたのですが、その物語世界の構築が、手抜き無く細部まできちんと作られていたので、本を読むようにイメージを膨らませながら、ぼくはゲームを続けました。

そしたら、何と、このゲームの開発者である糸井重里氏の回想インタビューが登場したのです。これは思いの外読みごたえがありました。そこまで、きちんとコンセプトができていたのか!   ビックリしましたよ。

(2003/04/23 つづく)

(その6)

久しぶりです。このコーナー、連載にしようとしていたのですが、このところ袋小路にはまっちゃっていて、ちょいと仕切直しということで、今回は「単発企画」、『編集会議(8月号)』 絵本特集について。でも、この8月号は、もう店頭にはならんでいないようです。スミマセン。

この「編集会議」という雑誌は、あの花田紀凱さんが編集長なのですが、その花田さんは、ずっと長い間「絵本特集」をするのが念願だったのだそうです。で、巻頭インタビューは何がなんでも『100万回生きたねこ』の佐野洋子さんに決めていたんですって。

確かに、この佐野洋子さんのインタビューは力が入っていて面白かった。というか、佐野洋子さんそのものが、すっごく面白い人なんだな。いくつか印象的なフレーズを以下に引用します。
 私、絵本を大人に向けて描いたことなんて一度もないよ。いつも幼稚園から小学校二、三年生くらいの子どもにわかるように難しいことばは使わない。
 でも子どものことって、本当は自分の息子のこともわかんないよ。自分が子どもだったてことが頼みのつなですねェ。
 人間って袋みたいだと思うのね。袋の中には一歳の経験も入ってて、それを忘れることはあっても、なくすことはない。たとえ九十歳のおじいさんでも子どものときの気持ちがちょろちょろ袋の中で動きまわっている。(中略)

 本くらいは読むの。ほかに趣味はないんだもん。(中略)「読んで何かの足しにしよう」なんていうよこしまな心は一切ない。とにかく活字読んでれば幸せなの。毛沢東もそうだったみたいね。大きなベッドに一日中寝転がって、歯も磨かないでさあ、歯に苔が生えても本だけ読んでいたんだって。一日中何もしないで役にもたたん本を読む、読むはしから忘れる。本当に幸せでしょ(笑)。 (p4〜9)

(2003/08/05 もうちょっと、つづく)

  
『絵本たんけん隊』
椎名誠
(クレヨンハウス)


       
『子どもの本屋、全力投球!』
増田善昭
(晶文社)


  
『子どもの本屋はメリーゴーランド』
増田善昭
(晶文社)


  
『働くお父さんの昔話入門』
小澤俊夫
(日本経済新聞社)



<絵本とジャズとの不思議な関連>
<その1>


●大人、特に父親にとっては、絵本てすごく「難しい」 と思うのです。ちょっと見ただけでは、どこがいいのか面白いのか、さっぱりわからない。ぼく自身がそうでした。『ぐりとぐら』 も初めて目にした時には「ふ〜ん」でおしまい。

このあたり「ジャズの魅力」 と同じなんじゃないかな、と思うのです。最初は取っ付きにくくて、何だかワケ分かんないけど、1枚のレコードを何回も何回も聴くうちに噛めば噛むほど味が出るスルメのような感じで、その演奏の凄さにようやく気づくことができる。

それから「ジャズ喫茶」 に出かけて行っては、何時間もねばって「全神経を集中し」いろんなレコードを体験するうちに、自分の好みのミュージシャン、楽器が判ってくる。そうなると、芋づる式に興味が拡がってどんどんジャズの深みにハマッていくことになるのです。

ジャズ喫茶の「マスター」 という人がこれまたみな癖のある方ばかりで、無口で気難しそうなんだけれど、ジャズのことなら何でも知ってる。最近感じるのですが、児童書専門店の店長さんって、ジャズ喫茶のマスターみたいな人多いですよね(^^;;

黒人が持って生まれたビート感を、ぼくらは訓練しないと味わえない。これも、絵本を直接感覚的にとられることができる「子ども」と、それができない「おとな」の違いによく似ている。

そうして、ジャズの一番の魅力は「ライヴ」 でこそ味わえるのですが、絵本も、子どもに読んであげるという行為が、読み手と聞き手の「ライヴ」の場となって、演奏者と観客とが呼応してどちらにとっても気持ちいい楽しい体験になる、という訳です。

ぼくは楽器演奏はできないし、絵本作家にもなれないですが、絵本の読み手(下手ですが(^^;)にはなれるので、しばらくはこの路線で、いろんな場で絵本を読んで楽しんじゃおうかな、そう考えているところです。

(2003年 1月18日 外来小児科FTMLへの投稿から)





<絵本とジャズとの不思議な関連> (その2)
●以前、伊那市図書館の男性司書さんから、こんな話を聞いたことがあります。

今度はじめて児童図書室の主任になったのだけれど、まだよく知らないんですよ、絵本のこと。でも、カウンターに座っていれば「題名は分からないけど、こういうストーリーの絵本を探しているんですけど」っていう問い合わせが次々とくる訳で、プロの図書館司書としては、こういった利用者のご要望にきちんと応えてあげなければならないんです。

北原さんとこみたいに、子どもがまだ小さければ、自分の子どもに読み聞かせしながら、子どもの反応を見つつ「絵本の勉強」をするのがベストなのでしょうが、うちはもう、子どもが大きいんでね、それができないのです。

そこで、仕方なく「あいうえお順に」図書館の書架にならんでいる「絵本」を、かたっぱしから全部読んでいくことに決めたんですよ、って(^^;)

ぼくは、この話をきいて、もしかしてこれは、最も正しい絵本の学習方法なのではないだろか? そう思ったんですね。図書館の「絵本の棚の配列方法」には、それぞれ独自な見解があって、例えば、高遠町図書館 の場合は、出版社別、テーマ別で選別されています。これだと、作家は違ってもシリーズものの絵本がきちんと書架に並ぶので、とても見栄えがよいのです。ただ、図書館利用者が自分で「ある絵本」を探そうとすると、とても難しい。カウンターの司書さんに訊かなければ、まず見つけるのは不可能でしょう。

そこいくと、南箕輪村図書館のように、「絵本」のタイトルで、「あいうえお順」に並んでいれば、絵本を探すうえでは、すっごく便利です。ただこの配列だと、子どもがあるお気に入りの絵本作家(例えば「五味太郎」)にハマッてしまった場合、次に同じ作者のどの絵本を借りたらよいのかが分からない。これって、じつはけっこう不便なんですよ。

伊那市図書館の場合は、作家別に「あいうえお順」で絵本が並んでいます。ぼく自身は、この書架の配列が図書館利用者には最も親切であるように思います。

ところで、この配列って、レコード屋さんのCDの配列と同じなんですよね。Jポップ、アニメ、演歌、洋楽ポップス、洋楽ロック、ブラコン、レゲエ、ジャズ、クラシック。まずはジャンル別で棚が分かれていて、あとはアーティスト別で、「ABC順」もしくは「あいうえお順」にCDがならんでいるのが一般的です。でもこの配列が、利用者には最も便利で探しやすいのです。

●絵本に関しての理解を深める場合、まぁ、いろんなアプローチがある訳ですが、最も手っ取り早いのは、自分にとっての「お気に入りの絵本作家」を見つけることだと思います。すっごく好きな絵本があって、こんな素敵な絵本を作る作家なら、もしかして、もっと自分好みの絵本を他にも出しているに違いない! 読者はまず、そう考えるはず。

ジャズの場合が、まったく同じで、たまたま聴いたレコードから「ジャズの世界」に目覚めてしまった場合、その一人の新たなジャズ愛好家が次にとるべき行動はというと、それは、まず間違いなく同じアーティストの別のレコードを購入することだと思います。

ジャズ業界では、こういった新たなファンのために、業界通でならしたジャズ評論家がさまざまな「ジャズ入門書・指南書」を執筆しています。これらの入門書の特徴は、まずは時系列で「ジャズの歴史的背景」を語りつつ、ABC順に、アーティストごとに、その特徴と主な代表作が解説されていることです。つまり、この一冊を読めば、ジャズ業界全体をおおかた俯瞰することができるのです。

ところが、絵本業界においては、「絵本のガイドブック」は無数に出版されているものの、この「ジャズ入門書・指南書」と同じコンセプトで執筆された本は、不思議なことに未だ一冊もないのです。

「絵本のガイドブック」の基本コンセプトは、偕成社・版『絵本の世界・作品案内と入門講座』(1988)の呪縛から、いまだに一歩も抜け出ていないんです、何故だか。この解説本のコンセプトは、テーマ別に絵本を語るということだったのですが、有名な『絵本・子どもの本 総解説(第5版)』赤木かん子(自由国民社)もまったく同じく「この方法」を踏襲しています。でも、歴史的に系統だって「絵本」を勉強しようと思うと、これらのガイドブックではまったく無力なのです。

ジャズ評論の歴史は長く、海外で言えば、ナット・ヘントフやレオナード・フェザー、アイラ・ギトラーといった優れたジャズ評論家がいて、わが日本にも、油井正一、野口久光、植草甚一、粟村輝昭、大和明、岡崎正通、佐藤秀樹 、悠雅彦ほか、じつに多数のジャズ評論家がいます。彼らの日常の主な仕事は、「ジャズ入門書」や学術的な論文を書くことではなくて、次々と出される新作の「レコード評」を、月刊ジャズ専門誌のディスク・レビュー欄に載せることと、レコードジャケットの中にはたいてい収められていたライナー・ノーツを執筆することでした。

このライナー・ノーツは、限られたスペース内で、リーダーのミュージシャンの生い立ちから、誰の影響下にあるかといった音楽的背景、アルバム参加ミュージシャンとの関係、演奏されている曲目解説にいたるまで、じつにコンパクトにまとまっているので、ぼくはライナー・ノーツを読みながら、ずいぶんとジャズの勉強ができたように思います。

●さて、「絵本評論」に関して目を転じてみると、その第一世代には、瀬田貞二、松居直、堀内誠一、今江祥智らによる、キラ星のごとく輝く優れた絵本評論があるものの、第二世代以降が続かないことに気がつきます。もちろん絵本評論の優れた「第二世代」はいます。例えば、松岡享子、長谷川摂子、中村柾子。彼女らの特徴は、保育者、子ども文庫の主宰者として、子どものいる現場での読み聞かせ実践から絵本を語っていることで、この方法論は、現在においても絵本に関して発言する上での主流となっています。

もちろん、絵本の対象となるのは子どもであり、いかに読み聞かせするか? といったことは「ノウ・ハウ」としては重要ではあるのですが、大人として絵本の魅力に取り憑かれ、もっともっと深く絵本のことを知りたいと思ったときには、こういった「絵本読み聞かせ How To 本」ではなく、もっと本格的な「絵本作家論」が読みたいのです。しかし、まことに残念なことに、それを書くことができた、瀬田貞二さんも、堀内誠一さんも、すでに亡くなられてしまいました。唯一それを実践しようとしているのは、小野明さんの労作 『絵本の作家たち(1)』別冊太陽(平凡社)ぐらいしかありません。これでは、あまりに寂しい。

ジャズ界では、次々と若き論客を輩出しているのに、絵本業界にも、もっと刺激的で、新鮮な視点を持った若手絵本評論家は登場しないものでしょうか? これだけ「絵本の認知度」が高まってくれば、もっと深く絵本を味わいたいファンがたくさんいるはずです。そういったコアなファン は、安直で表面的な「絵本のガイドブック」には、いいかげんうんざりしているでしょうから。

(2003年 5月05日 記)

   
  
   























★お父さんと読む絵本★ 


●20年近く「こども」 相手の商売をさせて頂きながら、ぼくはつい最近まで「絵本」 にはまったく興味がありませんでした。けれどもミステリから岩波新書まで、学会誌以外ならどんな本でも常に活字を追っていないと不安になってしまうほどの活字中毒者でして、本と本屋さんが何よりも大好きです。

 でも「絵本」はダメ。よくいるじゃないですか、若い女の子で「あたし、絵本が好きなの」とメルヘンしてる娘が。そういうのを「けっ 」と常に嫌悪してきたクチでしたね。小児科外来や病棟には絵本がいっぱいあったはずなのに、手にとって見たことは全くありませんでした。何故なんでしょう?

 ぼくは昭和33年生まれなのですが、親に絵本を読んでもらった記憶がないのです。当時も確かに絵本はありました。講談社の『童謡絵本』『花さかじいさん』 などの昔話絵本、岩波書店の『ちびくろさんぼ』『きかんしゃ やえもん』 バートンの『ちいさいおうち』。でも、これらの絵本は一人で眺めていたような気がする。確かな記憶として残っているのは、眠る前の一時、駒ヶ根のおばあちゃんに何度もせがんで「霊犬・早太郎」 のお話をしてもらったことぐらいです。

 ところが、ぼくより14歳年下で薬剤卸し営業のHさんの話を聞くと、状況は一変します。彼は、うちの待合室に置いてある絵本『からすのパンやさん』 を手にとって「懐かしいなぁ、この本ぼくが子どもの頃よく親に読んでもらったんですよ!」と嬉しそうに話してくれたのです。この世代間のギャップはどこから来るのでしょうか?

 それは1956年に創刊された月刊『こどものとも』(福音館)と、その中から次々と登場した『ぐりとぐら』『おおきなかぶ』 などの国産傑作絵本の数々に関係があるようです。この『こどものとも』初代編集長として赤羽末吉、長新太、堀内誠一、加古里子、中川李枝子、安野光雅などの絵本作家を発掘し、初めて世に出した人が松居直さんです。

 昨年の10月に辰野町図書館で「絵本の力」という松居直さんの講演会が開かれました。その中で、彼はこんな話しをしてくれました。

「近年は子どもに絵本を読んでやる父親がかなり増えましたが、20年以上前までは珍しかったものです。こうした絵本をわが子に読んでやっているお父さんに、どうして絵本を読んでやるのか訊いてみると、返ってくる答えはみな同じなんです。自分が子どもの頃、親に絵本を読んでもらったことが、とても楽しい想い出としてあるから、それを自分の子どもにも味わわせてやりたい、そう言うんですね。

 父親は自分の想い出に残る絵本をまず手にして、子どもに読んでやるでしょう。その瞬間、父親は無意識のうちに、その絵本をだれに、いつ、どこで読んでもらったか、そしてどんなに楽しかったかを思い返しています。そのときの歓びがなつかしくよみがえってきて、気持ちが温かくなります。この父親の幸せな気分は、語りかける声の調子に知らず知らず反映し、聴き手の子どもに絵本のおもしろさと二重になって伝わります。

 父親の口で語られる言葉のいきいきした歓びは、まっすぐ子どもの開かれた気持ちにとどき、”共に居る”歓びと言葉の歓びを子どもはしっかりと受けとめます。その結果、その絵本の印象は子どもの心に深く残り、その子の好きな絵本となることは間違いありません」
NHK人間講座「絵本のよろこび」 テキスト p46より一部改変)

 絵本を知らない僕でも、自分の子どもに絵本を読み聞かせしなければならなくなりました。開業した年の秋に次男が生まれ、長男は2歳になったばかりの頃のことです。開業前の慌ただしい日々が嘘のような閑な毎日で、一家団欒の夕食の後、子どもをお風呂に入れて寝かせつけるのは必然的に父親の役目となりました。ところが、息子はなかなか寝てくれません。部屋の電気を消して「じゃあ、お父さんがお話をしてあげよう」そう言ってはみたものの「むかしむかしあるところに、おじいさんと、おばあさんがいました。おじいさんは山へ芝刈りに、おばあさんは川へ洗濯へ。すると、川の上流からドンブラコッコ、スッコッコ……」毎回毎回同じ話しかできません。しかも、その『ももたろう』 でさえ最後まできちんと満足に語ることができませんでした。

 これは困った、というわけで絵本を読んであげることにしたのですが、何冊か手にした絵本を自分で読んでみても、どこが面白いのかさっぱりわからない。父親がつまらなそうに読むと、やっぱり子どもにも受けないんですね。例えば『ぐりとぐら』。有名な絵本なので、すごく期待して読んだのですが、その良さがぜんぜん解らないのです。だいたい、主人公の双子の野ネズミが、どっちが「ぐり」でどっちが「ぐら」 なのかが解らない。不慣れな父親にとって「絵本」とは思いのほか難しく取っ付きにくいシロモノだったのです。

 ところがある時、何気に絵本の表紙を眺めていて「あっ」と気がついたのです。ぐりは青い字で書かれていて、ぐらは赤い字で書かれていることに。慌ててネズミの絵を見ると、それぞれ青と赤の帽子と服を着ているではありませんか。それから24〜25ページ。カステラの美味しいにおいに誘われてやって来た森の動物たちが、おすそ分けをもらって皆で食べるシーンなのですが、トカゲもヘビも、蟹もカタツムリも、絵を見ると全員がじつに美味しそうにカステラを食べているんですね。文章には書かれていないけれど、絵には確かに書いてある。そういうことがある時ふと、解ったんです。

 前述の松居直さんは、講演会でこうも仰いました。

「絵本は、子どもに読ませる本ではありません。大人が読んであげる本です。絵本というのは自分で読んだらダメなんです。自分で読んだ時と、読んでもらった時とでは、絵本の印象がぜんぜん違う。大人は絵を読むことができません。どうしても絵と字の間に隙間ができてしまうからです。ところが、子どもは言葉を耳から聴きながら、同時に絵を見ているので、絵と文字を同時に体験することができるのです」

 こうして、ぼくにもちょっとだけ絵本の楽しさが解るようになってきました。絵本のよいところは、一冊読み終えるのに数分とかからないので、何冊でも一気に読めるし、何度でも繰り返し読むことができることです。一般書の場合にはこうはいきません。購入しても最後まで読み終えることができる本はごく一部で、あとは積ん読状態が関の山。二度三度再読する本なんて、まずほとんどありません。

 ぼくは近くの図書館へ行って、一度に20冊近く絵本を借りてきては次々と子どもに読んであげました。そうした中で、いくつかの知見を得ましたので、ここでご紹介いたしましょう。

 まず重要な点として言えることは、絵本も大人と子どもでは(あるいは子ども同士でも)その嗜好性がぜんぜん異なるということです。ぼくが「これは面白い」と感じた絵本が案外子どもには受けません。逆に『ノンタン』 シリーズみたいに、大人が「たいしたことないな」と思える絵本に限って、子どもは何度でも「読んで」と本棚から持ってくるのです。

 それから、子どもは自分で選んだ絵本を読んでもらいたがります。そうすると最後までいい子でちゃんと聴いている。逆に、お父さんが勝手に選んだ本を無理やり読み聞かせしても、興味がなければぜんぜん聴いてくれません。時にはヒットすることもあります。途中から、子どもたちが吸い寄せられるようにみるみる絵本の世界に夢中に入ってゆく様子を、ぼくは何度も目撃しました。こういう時は、絵本を読み終えると間髪入れずに「もっかい読んで!」 子どもは必ずこう言います。

 あと、母親が読むよりも父親が読んだほうが子どもに受ける絵本というのが確かにあります。京都大学霊長類研究所助教授、正高信男先生が面白い実験をしました。1歳前後の子どもに、母親と父親がそれぞれ別々に絵本を読んであげます。せなけいこ作絵『ねないこだれだ』『もじゃもじゃ』 の2冊です。すると、明るいお話の『もじゃもじゃ』 は母親が読むと赤ちゃんは歓声を上げて話に聞き入るのに対して、お父さんが読むとすぐに目を離してしまいます。逆に『ねないこだれだ』のような怖いお話では、お母さんが読むとすぐに飽きてしまい、お父さんが低い抑制の効いた抑揚のある声で読むと、子どもは真剣に聞き入るのです。

 子どもはオオカミやお化け、鬼や妖怪がでてくる「こわい話」 が大好きです。こういうお話は父親の語りのほうが絶対に子どもに受けます。子どもは、大好きなお父さんの膝の上に座っているので、安心して怖がることができるからです。うんち、おなら関連本も子どもに大受けします。小学生に人気の児童書『かいけつゾロリ』 シリーズは毎回「おなら」が重要なアイテムとして登場するし、隠し絵やクイズなど読者へのサービス満載で、大人が読んでも面白いです。

 川端誠『落語絵本』 シリーズや『時代劇絵本・風来坊』 のシリーズ、飯野和好『ねぎぼうずのあさたろう』『くろずみ小太郎』 シリーズあたりもお父さんに読んでもらいたい絵本ですね。じつは時代劇で、怖くて、臭くて、しかも楽しい「地獄八景亡者戯」 という落語がベースになった、子ども受けする条件を全て網羅した「ものすごい絵本」があるのです。田島征彦・作絵『じごくのそうべえ』(童心社)です。これは本当に面白い一冊ですよ。

 子どもって、あれよあれよと大きくなっていきますね。うちの長男も4月からは1年生、次男も幼稚園の年中組になります。先日、体重80kg、一発殴られたら気絶してしまいそうな強面の凄い中学生を外来で診察しながら、ふと、こう思ったんです。ぼくは息子にあと何年読み聞かせが続けられるんだろうかな?って。父と子の親密な場が確実に得られる、この限られた期間をもっと大切にしなきゃね。

 昨年の11月、園医をしている保育園の秋の内科健診に行った際、園長先生に無理やりお願いして、健診のあと年小さんのクラスで絵本『さつまのおいも』 の読み聞かせをさせてもらいました。たくさんの子どもを前に読み聞かせをするのは初めてだったのですが、子どもらの反応はすっごく良く、大受けでした。読み手のぼくにも、予想外に刺激的で楽しい体験で、これは何だか癖になりそうです。

 そんなワケで、一人でも多くの小児科医が、絵本に興味を持ってくれることを願ってやまない、今日この頃です。

2003/3/27(長野県小児科医会会報・投稿中)

                   
『ちいさいおうち』
バージニア・バートン作絵
石井桃子・訳
(岩波書店)


  
『きかんしゃやえもん』
阿川弘之・作
岡部冬彦・絵
(岩波書店)


  
『からすのパンやさん』
かこさとし作・絵
(偕成社)

  
『絵本のよろこび』
松居直
(NHK出版)


   
『ぐりとぐら』
中川李枝子・作
大村百合子・絵
(福音館)


  
『ノンタンぶらんこのせて』
キヨノサチコ・作絵
(偕成社)


  
『ねないこだれだ』
せなけいこ・作絵
(福音館)


  
『もじゃもじゃ』
せなけいこ・作絵
(福音館)


  
『落語絵本 じゅげむ』
川端誠・作絵
(クレヨンハウス)


  
『風来坊危機一髪』
川端誠・作絵
(BL出版)


  
ねぎぼうずのあさたろう(その1)
飯野和好・作・絵
(福音館書店)

  
くろずみ小太郎旅日記(その1)
飯野和好・作・絵
(クレヨンハウス)   
『じごくのそうべえ』
田島征彦・作絵
(童心社)


 
『さつまのおいも』
中川ひろたか・作
村上康成・絵 (童心社)

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