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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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●「不定期日記」●

患者さんは何を期待してこの小児科医院へやって来るのか?     2003/01/29

●今日3番目に診察した女の子は8歳の小学校3年生で、発熱(37.5℃)と咽頭痛を訴えていました。カルテを見ると、2年前の1月に2回だけ受診している子どもで、お母さんの顔も見覚えがない、久々に来院した子どもでした。こうした場合、転勤から再び伊那へ帰ってきたという例も時にはありますが、普段は別の医院を受診しているのだけれど、のっぴきならない理由があって、当院を受診するケースが多いのです。

こうした患者さんの来院はほんとうに気を使います。何かを特別に求めて、あるいは、ほんとうは受診したくないんだけれど、今日はしかたなく来院されているわけです。この8歳の女の子を連れてきた母親は、いったい何を望んでいるのか? ぼくは必死で考えました。「インフルエンザの診断をして、世間では品薄と噂される特効薬を処方して欲しい」そうに違いない、そう判断して「比較的元気はいいし、熱はそれほどでもないけど、一応インフルエンザの検査をしてみましょう」と言うと「え〜、この間もやった検査でしょう? あれ、もう絶対イヤ!」そう女の子は拒否しました。今月上旬に他院で検査した時は陰性だったそうです。

診察開始早々トラブルでごたごたするのは嫌だったので「わかりました。検査はしないけれど、昨日診た同じクラスの子どもがインフルエンザだったので、薬を処方しますね」ぼくはそう言って診察を終了したのですが、母親は何か不満そうな顔で診察室を後にしたのです。どうして満足してもらえなかったのか? 今日一日ずっと考えていたのですが、想像するに、インフルエンザと診断されてしまうと、学校保健法の決まりで、インフルエンザは、解熱後2日間経たないと登校してはいけないことになっているので、フルタイムで働きに出ているお母さんは困ってしまう。むしろ「風邪ですね。お薬出しておきますね」と言われれば、明日もし熱がなければ娘を学校に出せるのです。

だから、もしかすると今回の場合、お母さんは「インフルエンザではありません」と、ぼくに言って欲しかったのではないでしょうか?
いやぁ、お母さんが何を望んでいるのか判断するのって、ホント難しいなぁ。

さんざん気を使って、苦労して診ても、こういう患者さんの場合、その後かかりつけ医としてお馴染みさんになって下さることはまずありません。患者と医者の相性もあるし、しょうがないですね。

続・ドーダの人々(アバウトな物言い)          2003/01/26

●小林信彦『テレビの黄金時代』が面白かったので『笑学百科』小林信彦(新潮文庫)を買ってきてパラパラ眺めていたら、おしまいの景山民夫さんの解説 にこんなことが書いてありました。

本書の中の<通人>の項に、小林サンの姿勢が打ち出されていると思う。通人とファンとは違う。ファンは、常に自分を楽しませてくれる存在として(例えば)芸人を見ているが、通人は自分を正当化し自分の見識をひけらかす手段としてしか芸人を見ない。(中略)同様の例は、60年安保の全学連くずれのジャズ通人、70年安保の全共闘くずれのロック通人などにも見られる様な気がする。サンバのパーカッションすら振れぬくせにコルトレーンのコンサートの全日時とナンバーを諳んじていたり、Cのコードも押さえられぬくせにジミー・ペイジのレスポールの弦の種類を知ってたりする連中がそうである。(p325)
あわてて小林信彦さんの本文のほうを読んでみると<通人>の項にはこんなことが書いてありました。
通人というのが、いる。
ぼくが、しばらく、落語をききにいかなくなった理由の一つは、若い通人のバッコにあったといってもよい。<落語好き>というだけで、なにか、ハイブラウな存在に思われる(自分でそう思うだけだが)時代があった。60年代末ごろである。(中略)若い通人というのは、やたら、凝ったところを見せたがる。
「あの噺が面白くない? はは、きみはそのレベルか。ぼくも、そんなときがあったな。国立んときね。で、東横できいたときは、わかったのね、噺の神髄が……。それからですよ、ぼくが深く入ったのは……」
スキンダイビングと間違えている。<神髄>なんて言葉を使ったりする、こういう連中がいると、ぼくは、まったく落ちつかない。

通人は、どこにでもいる。べつに落語の世界に限ったものじゃない。
映画の世界では……

「ブライアン・デ・パーマの『殺しのドレス』、あれは騒がれ過ぎてます。ヒッチコックにくらべたら、まだまだでげす」
 全然、わかっていない。ヒッチコック、なんて軽々しく言うが、こういう通人に限って、ヒッチコックの全作品はおろか、「ハリーの災難」あたりだって観てやしないのだ。
 スナオに面白がったり笑ったりしないことが、すなわち、高級な態度だと信じているのが、若い通人の常である。(中略)現代の通人の傾向としては、本質的にマイナーなものを持ち出して、メジャーなものを否定しようとするのが目立つ。(中略)人の目につかぬものを、発掘する、のではなく、バランスを失して持ちあげるのだ。(p211〜213)
●いやぁ、考えてみると、ぼくなんかはここに書かれている<通人>そのものなワケで、ご意見番のお言葉はズシリと来ますね。そしたら、『週刊文春』今週号(1/30)の「人生は五十一から」 という小林信彦さんの連載エッセイのなかで

   <アバウトな物言い>というものがある。

という書き出しで、<通人パート2>のような話を書かれています。相変わらず、キビシイなぁ(^^;;

●今日は朝早くから富士見高原スキー場に行っていたのですが、昼休みのレストハウスで、大学の山登りの同好会仲間だった花田クンと偶然再会しました。20年ぶりのことです。ビックリしました。ぼくは当時とぜんぜん変わらない花田クンがすぐに判りましたが、ずいぶんと太ってしまった僕を見ても、花田クンは誰だか全然気がつかなかったみたいです(^^;;  いや、でも懐かしかったなぁ。

●夕食は、スキー場でいっしょになった宮脇ファミリーが先に行って席を確保しておいて下さったおかげで、念願の「牛角・伊那店」に初めて行くことができました。ネギ塩カルビが、たらふく食えて大満足でした(^^)。ほんとに、どうもありがとうございました >宮脇ファミリー

ドーダの人々                      2003/01/25

●書評家吉野仁さんのサイトで、月刊誌「オール讀物」(文藝春秋)連載中の「男の分別学」の中で、東海林さだおさんが「ドーダ学」というのを提唱しているとの話を耳にしてちょっと気になったので、先日の水曜日の午後伊那市立図書館へ行ってその話が載っている「オール讀物」6,7,8月号(2002年)の3冊を借りてきました。

いや、面白い! それにしても、東海林さだおさんってネタが尽きないのでしょうか? 週刊朝日「あれも食いたいこれも食いたい」だって、まだ連載続いてましたよね。すごいな、ホント。

●人々はいろんな場所で会話しているワケだけれども、だいたいその80%は自慢話なのだそうだ。で、その場所が、喫茶店、レストラン、居酒屋、料亭、スナック、バー、クラブ、と水商売の水度が高くなるにしたがって、そこで交わされる会話の自慢話の頻度・自慢度も高くなってゆく、という「高水度自慢率漸増の法則」というのを東海林さだおさんは提唱しているのでした。

自慢話は「ドーダ!」 である。ドーダ、このようにオレはエライんだぞ、ドーダ、と言っているわけだ。(中略)銀座のクラブは「ドーダの館」とも言われている。「ドーダの館」では毎日「ドーダの人々」が集って「ドーダ博」が開催されている。「ドーダの館」は飲食費がべらぼうに高い。したがって、功成り名遂げた人しか入場できない。功成り名遂げた人は、自慢したいことがいっぱいある。自慢したくてうずうずしている。

一方、迎え撃つママ、ホステスも、日本中のママ、ホステスの中から選ばれたエリート中のエリートだ。年収もべらぼうに高い。指輪だってドレスだって靴だって、どれもこれも超ブランド品ばかりだ。自慢したいことは山ほどある。「ドーダの館」では、ドーダ対ドーダの激しい応酬が火花を散らしている。(中略)

次に「教養ドーダ」 について触れておきたい。つい先日、文部科学省の新学習指導要領というのが発表され、「円周率は3.14を使うが、目的に応じて3でもよい」ということになった。会社でそのことをわざと話題にして、「いくらなんでも3はひどいよなあ」「ぼくは3.141592まで覚えたけどね」「ぼくは3.141592653まで、一応覚えたけどね」という会話を交わしていると、いつのまにか忍び寄ってきていた、事業開発本部副本部長心得第二本部付補佐が、「3.141592653589793238462643383……」と念仏のように唱えている。
    「オール讀物6月号/2002年」(文藝春秋)p204〜209より
とまぁ、こんな感じで東海林さだおさんのスルドイ考察は7月号、8月号と、人間存在の本質に迫る勢いで深まってゆくのでした。単行本になるまで待ちきれない方は、お近くの図書館へ行ってバックナンバーを当たってみて下さい(^^)

●で、結局なにが言いたかったかというと、インターネット業界だって同じで、個人のホームページというのは、ほとんど「ドーダ!」の世界だよなぁ、ということなのでした。もちろん、ぼく自身のページも含めてね(^^;;

ネット情報の自由利用マーク               2003/01/21

●インフルエンザがアウトブレイクした感がありますが、その割に当院は混雑しておらず、静かな外来です。たぶん、病院へ行って逆にインフルエンザを伝染されたのではたまらないと、発熱以外の患者さんが受診を控えているためではないかと思われます。実際、軽い顔の湿疹で乳児が診察室に入ってきたりすると、こちらも気が気でなくて「おかあさんダメだよ! この程度で病院連れて来ちゃ」と思わず本音を言ってしまいます(^^;)

●今日の信濃毎日新聞「建設標」「ネット情報の円滑な活用を」 という、上田市の今井さん(52歳)の投書が載っていました。

文化庁の文化審議会著作権分科会がこのほど、インターネットのホームページで公表される写真や文章などの著作物に、著作者の意志を示す「自由利用マーク」(仮称)を作ることを提言する報告案をまとめた。

現在、インターネット上には、さまざまな情報が公開されているが、ネット上の著作物に著作権があることに留意しないと、トラブルに発展することになりかねない。また、リンクするのに許可を求めているサイトもあり、ネット情報の活用には、かなりの神経を使っている。著作権やリンクを「フリー」と表示しているサイトもあるが、ほとんどのサイトにはその表示がない。活用の判断は、利用者の良識に委ねられているのが現状だ。(後略)

                      【信濃毎日新聞 2003/01/21 第5面より引用】
まったく今井さんの仰るとおりで、特に自分のHPを運営していると、このことには絶えず気を使っています。ニフティ・サーブ全盛の頃のパソコン通信の時代には著作権には特にうるさかったし、1996年当時では、リンクを張らせてもらうのにも相手の許可が必要なのが常識とされていました。

でもぼくは、常々「リンク許可願い」の申請には疑問を感じていたのです。著作権は確かに守られなければならない、ぼくもそう思います。でも、リンクを張ることは、著作物の盗用でも転用でもないはずです。つい最近まで「日本弁護士会」のHPにリンクするのに、弁護士会は平然と許可の申請を求めていました。弁護士でもその程度の認識しかないのです。

でも、インターネット上に情報を公開するということは、その大前提として「リンク・フリー」であるべきなのではないでしょうか? ぼくはそう思っています。したがって、リンクを張らせてもらう場合、基本的には相手の許可は得ていないし、トップページ以外のページに直接リンクを張る場合もしばしばです。こんなぼくの態度に不快感を覚えたかたがいらっしゃいましたら、誠に申し訳ございません。

もちろん、このホームページは「リンクフリー」ですし、どのページにリンクしていただいても、ぼくは一向にかまいませんデスよ(^^)

「青木まりこ現象」と「眼瞼性頭痛」(その2)      2003/01/17

●前回、1月14 日の日記に付けた「図解」に大きな誤りがありました。肛門括約筋随意筋ですので、迷走神経の興奮で勝手に緩むなどということはありません。あくまで腸の蠕動運動が昂進するために便意をもようすワケです。謹んで訂正いたします。

●さて、信州大学医学部形成外科学教授の松尾清 先生が、なぜこの分野に詳しいか? と申しますと、松尾教授は「眼瞼性頭痛」 という概念を世界で初めて提唱した先生だからなのです。その詳細は<こちら>をご覧ください。まぶたを持ち上げる筋肉は2つあって、動眼神経支配の眼瞼挙筋と交感神経支配のMuller筋です。このMuller筋が絶えず無理して収縮していると、交感神経が過度に緊張した状態が続きます。交感神経というのは、もう一つの自律神経である迷走神経とまったく逆の働きをしていて、交感神経が興奮すると、心臓がドキドキしたり、腸の蠕動運動が低下して便秘になります。これは「青木まりこ現象」とは逆の現象なわけです。

また、まぶたが垂れ下がって前が見えにくいので、無理して眉毛を吊り上げたり、顎を前に突き出す姿勢で見るので、僧帽筋がいつも緊張していて、これが肩こり・頭痛の原因になる、というワケなのです。

この「眼瞼性頭痛」に関する体験的レポートを、豊南女子短大の先生で、信越放送のテレビ番組にコメンテーターとしてよく登場している、フォークシンガーの三浦久さんが書かれています。興味のあるかたは<こちら>を読んでみて下さい。

●ところで、青木まりこさんは本当に実在する人物で、投書が『本の雑誌』に載った当時は独身だったので、恥ずかしいことで全国的に名前が知れ渡ってしまい気の毒だけれど、でもまぁ、結婚して名字が変われば大丈夫。みなそう思っていました。ところが不幸にも?(^^;; 実際、数年後に結婚はされたのですが、何と!相手の方が青木さんだったので、彼女は今でも「青木まりこ」のままなのだそうです(^^;)

「青木まりこ現象」と「眼瞼性頭痛」(その1)      2003/01/14

「青木まりこ現象」という不思議な生理的現象があるのですが、年季の入った活字中毒者のかたならご存知かもしれません。椎名誠さん が編集長をしている『本の雑誌』第40号(1985年2月刊)の読者投書欄に、以下のような葉書が掲載されたのがそもそもの発端です。

 私はなぜか長時間本屋にいると便意をもようします。三島由紀夫の格調高き文芸書を手にしているときも、高橋春男のマンガを立ち読みしているときも、それは突然容赦なく私を襲ってくるのです。これは二、三年前に始まった現象なのですが、未だに理由がわかりません。(中略)

長時間新しい本の匂いをかいでいると、森林浴のように細胞の働きが活発になり、排便作用を促すのでしょうか。それとも本の背を目で追うだけで脳が酷使され消化が進むのでしょうか? わからない! 誰か教えて下さい。(後略)
 青木まりこ(会社員29歳・杉並区)

『本の雑誌傑作選・風雲篇』p78(本の雑誌社)1995 より引用
●この発言が大反響を呼んだ『本の雑誌』は次の号で、【本誌独占!】いま書店界を震撼させる「青木まりこ現象」の謎と真実を追う!という大々的な特集記事まで組まれたのでした。『活字探偵団』本の雑誌編集部(角川文庫) 収録。この時、「青木まりこ現象」 = 「本屋さんで便意をもようす現象」であると定義されたのです。 本の雑誌編集部では、この時の精力的な取材で「青木まりこ現象」の原因究明を試みたのですが、結局納得のいく結論は得られず、以下のような精神科医・中沢正夫先生のコメントを載せてお茶を濁しました。
中沢 もっとよく調べてみなければいけませんが自律神経による反応でしょうね。
編者 便意というのは自律神経からくるのですか?
中沢 人間の体の中にはオートマチックに動いているものが沢山ありますね。心臓とか腸の蠕動運動とか内臓の働きとかいろいろありますね。それらは人間の意志で止めようと思っても止められないわけです。
●その後、「この現象の謎」 が解明されたという話は未だに耳にしません。しかし、医学的にかなり信頼できそうな新たな情報を入手したのです。今から5年前、ぼくがまだ厚生連「富士見高原病院」に勤めていた頃のことです。じつは同僚の形成外科医、古田先生に、こんな話を聞きました。

信州大学医学部・形成外科教授の松尾清 先生が次のような話をされていたというのです。すなわち、本屋での「立ち読み」の姿勢というのは、直立した状態で前屈みになって、やや伏し目がちに手にした雑誌の活字を追うワケだけれど、この姿勢は自律神経の1つである副交感神経(迷走神経)を興奮させ、腸の蠕動運動が昂進して便意をもようすというのです。確かに、座って本を読む場合が多い図書館では「青木まりこ現象」は出現しないようです。(この話はもう少し続く)

スキー板を新調しました             2003/01/07

●ぼくは万年中級スキーヤーなんですが、ここ6〜7年はスキー場からすっかり足も遠のいて、運動不足で足腰も弱るし肥満も進むしで、ますますスキー熱は冷める一方でした。でも、こんな僕にも、スキーに燃えていた時期があったのです。時代的には、ちょうど映画『私をスキーに連れてって』の頃です。あの時代、猫も杓子も「スキー!スキー!」で、映画のロケでも使われていた志賀高原・焼額山、万座温泉スキー場が当時のお気に入りでした。あの頃、単に見栄だけ小賀坂「Unity 3」を買って滑ってましたが、下手な人が「Unity 3」はいているぐらいカッコ悪いことって、ないんですね。

そのオガサカ「Unity 3」を、じつは先シーズンまで履いてたんです(^^;;;

昨年の2月だったか、家族連れで(スノボ禁止の)富士見高原スキー場へ行った時には、まわりに僕と同じようなファミリーがいっぱいいたんで苦笑してしまいました。さすがに当時のメイク・髪型ではないけれど、ウエアーはあのころのイケイケなヤツをそのまま着た30代半ばのおかあさんとか、お昼どきの食堂で、おもむろに(気分は三上博史で)トランシーバーを取り出し「只今席を確保しました、どーぞー。これからメニューを読み上げるから決めて下さい、どーぞー!」とやってるお父さんとか……

みんな、あのころスキーの洗礼を受けた世代で、子育てにも一段落して、今度は自分の子どもを連れてスキー場に戻ってきているのです。

うちも子どもが6歳・4歳になったんで、今シーズンは本格的にスキーに復帰しようかと考えていたのです、じつは。そこでまずは、スキー板を新調することにしました。このあいだの日曜日に松本まで行って、噂に高いスキー専門店「佐山スポーツ」で、2003年モデルのHEAD製カービング・スキーを購入いたしました(^^) ここでは、ジュニア・スキーは取り扱っていなかったので、その足で南松本のアルペン(もとダイエー3F)へ行って、長男のスキーも購入しました。ものすごい品数、やたら広い売り場面積にビックリでしたが、ブーツが¥3,800、スキー板・ビンディング・ストックの「3点セット」が¥12,800でした。ぼくが買った板と同じモデルは「アルペン」にはなかったけれど、もしかすると、「アルペン」よりも「佐山スポーツ」のほうがずっと安いのかもしれませんね。

さて、来週の連休にはスキーに行くぞ!!

「ハリーポッター2」、「讃岐うどん・くうかい」、「牛角・伊那店」  2003/01/03

●新年、あけましておめでとうございます。本年もよろしくお付き合いのほどお願い申し上げます。

伊那旭座では上映していなかったので、岡谷スカラ座 まで行って「ハリーポッターと秘密の部屋」を観てきました。ここの映画館は今回初めてでしたが、今はやりのシネマ・コンプレックスで、一つの建物の中に5つの劇場が入っています。画面は思ったより大きいし、ドルビーサラウンドの音響はいいし、そして何よりもありがたいことは、近くの旧おかや東急正面の市営立体駐車場が3時間無料なので、駐車場の心配を一切する必要がないことです。

ぼくは原作をまったく読んでないので細かい論評はできませんが、映画は1作目よりも数倍面白かったです。3時間以上の長尺を途中まったくダレることなくラストまで観客の眼をスクリーンに釘付けにする構成・演出力はただモノではない。特に前半「これでもか、これでもか」と畳みかけるようなスリルとスピード にあふれた展開がすばらしい。キャラでは、新しい魔法の先生がいい味出してましたね(^^)

●映画館を出ると外はもう真っ暗で、さて夕飯をどうしようかということになったのですが、じつはもう決めていたのです。小松さんに先日メールで情報を寄せていただいた(ありがとうございます)岡谷に新しくできたセルフの讃岐うどん店「くうかい」です。場所は、市営立体駐車場から旧おかや東急前の通りを「天竜橋」方面に向かって南へ進み、中央線の線路の陸橋を過ぎた「次の交差点」の右斜め角になります。

「うどん食うかい」と弘法大師「空海」をひっかけているんですね。残念ながら「本日休業」で食べられませんでしたが、プレハブ1階建ての貧相な外観からは、あまり美味そうな店には見えませんでした(^^;;。でもまあ、本場の讃岐うどんでも、店の外観はとんでもないような名店ばかりですので、また次回に期待いたしましょう。

伊那までもどって、坂下町の「池上医院」近くに年末オープンしたばかりの『牛角・伊那店』へ行ってみました。こちらは営業していましたが、若い人で店はいっぱいで、席につけないで入り口で順番を待っている人が6組。1時間以上待ちと聞いてこちらもあきらめました。すでに伊那でも焼肉チェーン『牛角』の名は知れ渡っていたのですね。

で結局、『木曾の権兵衛』に落ち着いたのですが、こちらも正月二日からものすごい混雑。何とか席を確保しておいしい焼き肉にようやくありつけました。よかったよかった。

●なお、『木曾の権兵衛』も登場する 以前に書いた「たべものエッセイ」 を、少し改訂して<こちら>にアップいたしました。よろしかったら読んでみてください。

留守電「50件!」すみません、留守してました     2002/12/31

●29日の朝から今日の夕方まで、東京へ行ってました。帰ってみると、医院の留守電になんと50件もの着信記録が残っていました。ご迷惑をおかけしてたいへん申し訳ございません。

どうしても行ってみたい所があったんです。南信こどものとも社坂本さんに教えていただいた銀座「教文館」の「児童書専門フロアー」です。銀座四丁目交差点を「あんぱん」の木村屋の方向へ曲がって、銀座山野楽器、MIKIMOTOを通り過ぎ、その次の次ぐらいの並びのビルが「教文館」のビルで、あの資生堂パーラー が入っている所です。

この8階が『ナルニア国』という名前の、絵本・児童書のフロアーで、品数は決して多くはないのだけれど、置いてある本のセンスのよいことといったら、流石ですね。でも、ぼくが本当に行ってみたかったのは「この階」ではなくて、2階下の「6階」なのです。この階には、2002年に日本で出版されたありとあらゆる絵本・児童書が、1月〜12月まで、その月に出版された本ごとにきれいに整理されて順番に並んでいるのです! それは壮観でした。もちろん売り物です。ここは1日ずっといても、とても見切れません。

最近では、田舎に住んでいてもネット書店で簡単に欲しい本が手に入るようになりました。でも実際には、フラリと入った本屋さんで、なにげに手にした本の中に意外な面白本が隠れていることはよくあることで、本を購入する時には、やっぱり直接本を手にとって、腰巻きの推薦文を読んだり、中身をペラペラめくって本の雰囲気を感じたり、「あとがき」を眺めながら著者の心意気を読みとったりしながら、買うべき本であるかどうか判断するのが醍醐味であるのです。

これはネット書店では絶対に不可能です。ネットや雑誌の紹介記事を読んで「これは!」と思って注文した本が実際に手にした時「ハズレ」のことがままある。こういう時、紀伊国屋書店・丸善・八重洲ブックセンターがある東京に住む人が本当にうらやましく感じます。 ただ、都会の大書店でも、絵本・児童書 の品揃えとなると、はなはだ心細いもので、だからこそ、「教文館」6Fが凄いのです。ぼくはユリイカ「矢川澄子追悼号」と、長谷川義史さんの新作絵本『スモウマン』を購入いたしました(^^)
 あと、山野楽器で、前から欲しかったハワイアン・シンガーの「イズ」のCDを2枚、入手できました。

子どもたちのお目当ては、日本橋の丸善書店の斜め裏通りにある「ポケモンセンター・トウキョウ」で、この一角だけ、地方から上京してきた似たような親子連れで異様に混雑していて、その熱気には圧倒されましたよ。

夕食は、久しぶりに築地「すし清・本店」へ行きました。おいしかった(^^)。家族4人で腹いっぱいお寿司を食べて、ホタテの磯辺焼きもちゃんと注文して、それでも、ネットで予約して泊まったホテル銀座ダイエーの宿泊料金¥14,000(ツイン)よりもさらに安いんだから、やっぱ都会に住む人はうらやましいな(^^;) その後タクシーで、丸ビル〜有楽町のイルミネーション「ミレナレオ」を見に行ったのですが、まぁものすごい人で、これまたビックリいたしました。

あわただしい日々で、更新作業もままならず      2002/12/26

●政府のハッピー・マンデイ構想とやらで、最近やたらと日・月の連休が多いのはいいのだけれど、これって世間の人はみな歓迎しているのでしょうか? 喜んでいるのは一部の旅行会社とホテル旅館組合だけなんじゃないだろうか?

少なくとも、全国の小児科開業医と、小さな子どもを持つお父さん、おかあさんは、かえって迷惑していると思うのです。先日の連休明けのクリスマスイブの火曜日の忙しさといったら、尋常じゃぁありませんでした。朝8時に診療を開始して(8時半まではインフルエンザの予防接種をしているのです)午前中の診療が終了したのが午後2時55分、急いで昼飯を口の中に詰め込んで、3時からは直ぐに午後のインフルエンザ予防接種の予約の患者さんが待っていて、結局170人近くの最後の患者さんを診終わったのは夜8時半ころでした。連続12時間以上ほとんど休みなし。

しかし、もっと大変だったのは患者さんのほうで、朝一番で予約電話を入れてもチケットぴあなみにぜんぜんつながらない し、ようやく電話できたと思ったら「午前中の予約はいっぱいです。直接ご来院ください」とコンピュータ音声で冷たく言われるだけ。実際、8時半には午前も午後も予約枠は埋まってしまいました。

夜8時過ぎに診た子どもさんは、もう眠いしお腹も空いたしで、訳わからなくなってましたよ。そうして、やっと一息ついた夜10時前に電話が鳴って、じんましんの1歳3カ月の男の子を最後の最後に診察しました。卵アレルギー(+)の子で、15分前にイクラを食べさせたら、急に唇が腫れて顔が真っ赤になったとのことでした。「なんで、こんな遅くにイクラなんて食べさせたの?」と訊いたら、おかあさんは「おとうさんが残業で帰りが遅くなって、今日はクリスマスイブだから、夕食をずっとこの時間まで待っていたんです」って。

「そーか、そーか。たいへんだったね」ぼくは怒るのも止めて、おかあさんをなぐさめてあげました(^^;)

『テレビの黄金時代』小林信彦、そして、永六輔『妻の大往生』 2002/12/22

●つい最近読んだ本に『テレビの黄金時代』小林信彦 (文藝春秋) があるのですが、この本は面白かった。いわば民放放送テレビ初期のバラエティ番組製作秘話的「プロジェクトX」なのですが、当時の民放(特に日テレ)は、まだ若き天才たちの試行錯誤、実験の場であったことがよーく分かります。特に、日テレ・プロデューサー井原高忠というカリスマ的な存在(この人はスゴイ)があってこそ、中原弓彦(当時の小林信彦のペンネーム)も、永六輔も、野坂昭如も、前田武彦も、大橋巨泉も、青島幸男も、井上ひさしも、放送作家としての地位を築くことができたのだ、ということを「この本」で初めて知りました。

本に登場する「シャボン玉ホリデイ」「九ちゃん!」「ゲバゲバ90分」といった日テレの番組は、長野県ではネット局がなかったのでリアルタイムでは、ぼくは見たことがありません。それでも、著者の臨場感あふれる描写や、個人的な「思いこみ」を極力排除した記述によって、当時のテレビ局の現場がすごくリアルに感じられて、ひさびさの「一気読み本」でした。

ぼくが生まれたのが1958年 (昭和33年)で、この年、小林信彦は28歳、永六輔は24,5歳でした。その翌年が皇太子と美智子妃殿下のご成婚の年で、現皇太子はぼくの一つ年下になります。当時、小林信彦は「ヒッチコック・マガジン」の編集長で、永六輔は野坂昭如と同じく「三木鶏郎」の門下生でした。永六輔は、NHK初のバラエティ番組「夢であいましょう」の放送作家として活躍していましたが、この番組の中で、「六・八・九コンビ」による数々の傑作が誕生したのです。ちなみに、六=永六輔、八=中村八大、九=坂本九。「上を向いて歩こう」はその代表作です。

小林信彦を初めてテレビの世界へ引っ張り込んだのが永六輔なんですって。知りませんでした。ところで、永さん坂本九のことがあまり好きではなかったようです。それは小林信彦さんも同じで、この本の中で面白いエピソードを紹介しています。p206 に載っていますので、ぜひ読んでみて下さい。小林信彦の「江戸っ子」としてのプライドの高さを、かいま見る思いがしました。

当時活躍した放送作家は、その後テレビとは決別して己の独自の道を歩み始めました。小林信彦、野坂昭如、井上ひさしの3人は作家に、青島幸男は国会議員に、永六輔はラジオの世界へ。前田武彦と大橋巨泉はタレントとして。永六輔が何故テレビの世界から足を洗ったかといいますと、それは奥さんである永昌子さんの助言によるのだそうです。この奥さん、たいへん人間のできた方で、永六輔の初めての結婚記念日、忙しくてプレゼントを用意できなかった永六輔に奥さんは、こう言ったのだそうです。「あの、東京タワーを私にちょうだい」

これに味をしめた永さんは、翌年の結婚記念日には霞ヶ関ビルを、さらにその次の年には、サンフランシスコのゴールデン・ゲイト・ブリッジをプレゼントしたんだそうです(^^;)  すばらしい奥様ですよね。

その昌子さんに「胃ガン」が見つかったのは2年前の夏のことです。進行ガンで、すでに転移があり、もう手遅れの状態でした。病院での闘病生活の後、永さんは自分の妻を病院のベットの上でなく、できれば自宅で看取りたい、そう思いました。そうして、永さんと2人の娘(永千絵・永麻里)による必死の在宅看護が一月半自宅で行われ、昨年の1月、奥様は天に召されました。

その後の話が本になって出版されました。それが『妻の大往生』永六輔 (中央公論新社)です。本の表紙をめくると、想い出の写真集になっていて、その最初の写真は、まだ若いGIカットの永六輔と、本当に美人の昌子さんが二人して腕組みしながらカメラのアングルにおさまっている、じつに何ともカッコイイ写真なのですよ(^^)

●テレビの黄金時代を支えた、当時まだ20〜30代の若き天才たちも、すっかり年をとってしまったのだなぁ、などと、しみじみしてしまいました。

小児科の診察室にて                  2002/12/19

昨日の診察室での会話(その1)

 ぼく「赤ちゃん、だいぶ鼻つまってますねぇ。鼻を吸いましょう(鼻腔吸引しましょう)」
 母親「吸いません!」
 ぼく「えっ? そんなこと言わないで、吸いましょうよ!」
 母親「すいません、お願いします」
 ぼく「あ、えぇ、すいましょう(^^;;」

昨日の診察室での会話(その2)

 ぼく「お孫さん、水ぼうそう軽くすんでよかったですねぇ」
 祖母「でもね先生、おまんじゅうを痒がって大変だったんですよ」
 ぼく「えっ? お饅頭??」
 祖母「……(困ったような顔をしたまま黙ってしまいました)」
 ぼく「あっ、『お股』に水疱ができちゃったんですね、そりゃ痒くて大変だったねぇ」

    ボボ・ブラジル って名前のプロレスラーが九州巡業に行った時の話を思い出しました(^^;)

昨日の診察室での会話(その3)

 薬屋「先生のところでは、今年はもうインフルエンザが出てるんですってねぇ」
 ぼく「そうなんですよ、今年は冬が早かったからね」
 薬屋「不思議ですねぇ。こんなに暖かい冬なのに……」
 ぼく「えっ??? なに言ってんですか?」
 薬屋「あっ、スミマセン。僕、去年まで北海道の釧路営業所勤務だったもんで(^^;;;」

      『北の国から』では、マイナス20℃が、当たり前なんですって

 

美味しいラーメンを食するシアワセ           2002/12/16

●ナイスロード沿いの美容室「BOOM」 の先生ご夫妻は「ラーメン好き」なんだそうで、そう言えばときどき『ラーメン大将』で、お互い家族連れでお会いしたりします(^^;)

その先生に「おいしいラーメン屋さん見つけたのよ!」と、ぼくの女房が聞いてきたのはもうずいぶん前のはなしですが、その『みしま』というお店の場所が最近ようやく判って、先週の金曜日に一家4人でラーメンを食べに行ったのです。線路沿いのその店は、6畳間ほどのスペースしかない小さな食堂で、4人がけのテーブルがひとつと、あとはカウンター席のみといった佇まい。

あの食通で有名な山本益博さんが、どこかで言っていましたが、「うまいラーメン屋の見分け方」というのがあって、次の5つの条件をあげています。(以下は『東海林さだおの弁当箱』東海林さだお「朝日文芸文庫」\1200 p19 より引用)

  1)ビルに入っていない店
  2)表にサンプルがない店
  3)夫婦など、家族だけでやっている店
  4)店主が一人できりもりしている小体な店
  5)清潔感が漂っている店

松本でこの条件を満たしているのは、ぼくが大好きな『若松食堂』なのですが、伊那の『みしま』も、まさにそういう 食堂でした。ぼくらは中華そば2つと、みそラーメンひとつ(これは、子どもらが食べます。)それからチャーハンを1つ注文して、みなで分け合って食べました。おばさんが運んできてくれたラーメンは、なんだかとっても懐かしい「におい」がしました。

麺は、あの『紫煙荘』のラーメンと同じ「かんすい」の効いた白っぽい直麺で、ぼくの好みの「やや硬め」のゆで加減。澄んで透明な スープには、背油がちょっとだけ浮いていて、これが少しもしつこくないのです。最近「こってり系ラーメン」に浮気していた僕ですが、「あぁ、ぼくが好きなラーメンは、やっぱりこのあっさり味だったのだなぁ」と、しみじみ思い出してしまいましたよ。

チャーハンも美味しかったけど、ぼくらがテーブルについた後、次々と常連さんが入ってきてカウンターに座り、店のおばさんに注文するのですが、なんかこう「通のたのみ方」なんですよね。「麻婆ハンにラーメン」とか「カツ丼にスープ付けて」とか。でも、ぼくら「一見さん」にも、常連さんたちは皆やさしいんですよ。息子が「ドラえもん」が見たいと言えば、さっきまで見ていたNHKのニュースを「いいよいいよ」と言いながらチャンネル替えてくれるし。

よのなか、まだまだ、まんざら捨てたもんじゃないねぇ。などと、妙に感心しながら店をあとにしたのでした(^^;)

新聞「月刊かみいな」の原稿を書いていました      2002/12/11

●毎月、上伊那全戸に無料で配られる新聞「月刊かみいな」の中で、上伊那医師会広報委員会が担当している「健康カレンダー」というコーナーがあるのですが、半年に1回原稿の依頼がきて、来月1月号 の担当がぼくなのです。こんなホームページ始めちゃったものですから(^^;; なかなか原稿が書けなくて、昨日締め切りだったところを何とかギリギリ間に合って提出しました。以下がその原稿です(^^;
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●カゼの予防は「手洗い」から●

 今シーズンは冬の訪れが早く、上伊那でも12月上旬からインフルエンザが見つかってい ます。カゼの予防方法としてみなさんがまず思い浮かべるのは「うがい」 ですが、1日に 1〜2回程度のうがいでは、あまり予防効果は期待できません。それよりも医学的に確か な効果が得られる予防法があります。それは「手洗い」 です。

 カゼの中でも最もありふれた「鼻かぜ」ライノウイルスによって起こります。このウ イルスは鼻水の中にいて、鼻をかんだ手に付着し、その手で触ったものを他の人が触れて、 手についたウイルスが口に入るとカゼがうつるのです。イギリスの「カゼ研究所」 でカゼ の人をメンバーに入れたポーカーゲームの実験をしたところ、手から手へウイルスがうつ る様子がよく分かったそうです。

 また、このところ毎年11月から流行する小型球形ウイルス(SRSV) による嘔吐下痢症も、 吐物や便の中のウイルスが手について、それ が食材や保育園の遊具などに付着し、そこから他の人の口に入って2日後に突然の嘔吐で 発症するという感染経路が最も多いと考えられています。

 福井県のとある小学校の1クラスで、昨年2月に嘔吐下痢症が集団発生したケースの調査報告 によると、こんなことが判明いたしました。最初の患児が午前中に教室で嘔吐し保健室で休養していましたが、給食当番だ ったので教室へ戻り給食の配膳を行いました。その36時間後に同じクラスの16名が嘔吐下痢 症を発症したのです。このように、手に着いたウイルスは極わずかでも感染力は強力なの で注意が必要です。

具体的な手の洗い方ですが、10秒程度の手洗いでは効果はなく、石鹸と流水で30〜60秒間、指先や指間もしっかり洗 い、ペーパータオルでよく拭き乾かします。医療現場では、速乾性のアルコール消毒液を手指に 擦り込む方法が、最近ではよく用いられています。

なお、インフルエンザは残念ながら手洗いでは予防できません。
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●この原稿の「もとネタ」は、<こちら> と、月刊誌『小児科10月号』p1801〜1804 から頂戴いたしました(^^;;

●それから、<リンク集> をちょっと入れ替えました。

飯山「富倉そば」が届きました             2002/12/06

●ぼくは個人的にそば「富倉そば」が一番うまいと思っているのです。十割そばなのに、すっごくなめらかで「ひんやり+つるつるっ」とした独特の喉ごしは、他の蕎麦では決して味わえません。その秘密は、つなぎ として使われる「やまごぼうの葉っぱ」にあるのです。やまごぼうとは、正式には「オヤマボクチ」というアザミ類の草のことで、その葉っぱを乾燥させて手で揉んで、ちょうど「お灸のもぐさ」のようになったものをつなぎ とするのです。

詳しくは、<こちら>と、それから<こちら>もごらんください。

飯山市富倉は、新潟県新井市との県境に位置する、飯山の中でも指折りの豪雪地です。小学校の社会科の教科書にでていた「雪国の生活」そのまんまのところです。冬になると、2メートルを超える積雪に覆い尽くされます。毎年お願いして「富倉そば」を送ってもらっている富倉の「Uさん」のお話では、今年は10月にもう雪が積もって、それはいったん溶けたものの、その後降った雪はもう根雪 になってしまっていて、冬ごもりの準備が間に合わなくて大変だとのことでした。

『電池が切れるまで』長野県立こども病院・院内学級文集 2002/12/03

●先週の水曜日に高遠町図書館の新刊書コーナーで、『電池が切れるまで --- 子ども病院からのメッセージ』 すずらんの会編(角川書店) という本を見つけました。表紙の絵が、赤い屋根の長野県立こども病院だったので「あっ」と思って手に取りました。この本には、長野県立こども病院・院内学級の文集をもとに、こども病院に長期入院していた子どもたちの言葉がいっぱい載っていたのです。

これらの言葉を残した子どもたちは、その後の病気との壮絶な格闘のなかで、亡くなってしまった子ども、無事退院して進学した子ども、病院保育士となって、今度はスタッフとして再び「こども病院」へ帰ってきた子どもなど、さまざまですが、入院中の子どもたちが、これほどまでひたむき切実に、そして前向きに自分の「いのち」と向き合っていたという事実を知って、子どもたちを治療する側にいた者としては、ただただ、たじろぐばかりです。

冒頭の詩「命」を書いた宮越由貴奈ちゃんは、小児がんの中でも最も予後不良な進行性神経芽細胞腫という病気のために、4年前に11歳で亡くなりました。発病からの6年間、入退院を繰り返しながらの辛く厳しい治療の毎日の連続でしたが、3人の妹たちの頼りになる気丈なお姉さんとして、いつも明るく前向きな女の子でした。

   

これは由貴奈ちゃん自筆の詩のコピーで、亡くなったあと、由貴奈ちゃんのお母さんから頂戴したものです。本の中で、院内学級の担任の先生も書かれていますが、花がみな下向きなのは、しおれているんじゃなくて、すずらんの花だからなのだそうです。富士見町で育った由貴奈ちゃんは、すずらんが大好きだったのです。

●日曜日に「TSUTAYA」へ行ってみると、『電池が切れるまで』が平積みされていました。医院待合室用と自宅用に2冊買って帰りました。


こども病院の石井先生にお訊きしたら、この本の印税はすべて「すずらんの会」 という、長野県立こども病院で治療を受けた子どもたちや、現在治療している子どもたちの父母の会の活動資金にあてられるそうです。ぜひ、本屋さんでこの本を手にとって、最初の詩「命」、その次の詩「ゆきなちゃん」を読んでみて下さい。そして、できれば一冊購入してください。

●それにしても不思議に思うことは、闘病仲間の子どもたちも、われわれ治療者側の医者も、妹さんたちも、生前の由貴奈ちゃんにはずいぶんと励まされて来ました。そして今でもときどき「先生!落ち込んでちゃダメだよ、ねっ」と背中を「ポン」とたたかれるような感じで、ぼくは由貴奈ちゃんのことをよく思い出します。こうした思いは、ぼくらのように直接由貴奈ちゃんを知る者だけでなく、今度はこの本を通じて日本のどこかの見知らぬ「あなた」 の心の中にも、たしかに由貴奈ちゃんが息づいて生きてゆくのだと思うと、なんだかとっても、うれしくなってしまうのでした。





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