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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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2004年:<1/2/3+4月><4 / 5/6月>< 7/ 8/ 9月> < 10/ 11月>
2005年:< 12月/ 1月>< 2月/ 3月><4月>  

●「不定期日記」●

 長新太さんのこと(その2)      2005/06/30

●昨日の水曜日は、午後2時半から高遠第一保育園で内科健診。1時間弱で健診は終わって、園長先生にお茶をご馳走になった後、年長さんのクラスで絵本の読み聞かせ。ちょっと園長先生と話し込んでいるうちに、子供たちはすっかりスタンバイして待ちかまえている。いやぁ、ごめんごめん(^^;)

1)『へんしんトンネル』あきやまただし(金の星社)
2)『へんてこへんてこ』長新太・さく(佼成出版社)
3)『うんちっち』ステファニー・ブレイク(PHP研究所)

今日はね、どうしても長新太さんの絵本を読みたかったんだ。当初、ちょっとシュールで少し不気味な『ブタヤマさんたらブタヤマさん』(文研出版)にする予定だったが、『へんしんトンネル』の「ことばあそび」つながりで、『へんてこへんてこ』に変更。でも、正解だったかな。子供たちは、ぼくといっしょになって「ねーこー」とか「たーぬーきー」とか言ってくれたのだ。うれしかったよ(^^) 夜になって、オバケが登場する場面では、みんなちょっと緊張しているのがよーくわかって面白かったな。

●おかあさん方が迎えに来る時間に、まだすこし余裕があったので、年中さんと年少さんにも絵本を読むことになったぞ。

1)『ぞうのボタン』うえののりこ(冨山房)
2)『こちょこちょこちょ』内田麟太郎・長野ヒデ子(童心社)
3)『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)

『ちへいせんのみえるところ』は、長新太さんの絵本の中で、ぼくが一番好きな絵本。なんてったって、色使いが素晴らしい。ブルー・イン・グレイ の空の色。うすいオレンジ色の草原に、空の色が反射したかのような水色が重なる。この空の色は、今にも雨が降り出しそうな曇天を表しているのか? それとも、夜明け間際の「あの不思議な明るさ」を「色で表現する」としたならば、この色となる必然があったのか? 結局ぼくにはよくわからないのだった。

ただ、今回ほど「この本」を読んで受けたことは、かつてなかった。ぼくはただ「でました」と言うだけなのに、うけた。子供らは、もうきゃっきゃ言ってよろこんだのだ。もちろん、何も書かれていないページでは、子供らは自ら「でません!」と言ったよ(^^;)

おそるべし! 長新太!!

 長新太さんのこと(その1)      2005/06/29

●昨日も夜中に起き出して、長新太さんのことを書こうと思ったものの、結局は何も書けなかった。畏怖とでも言ったらよいか、恐れ多くて僕なんかが長新太さんの絵本を語ってはいけない、そういう思いがずっと以前からあったからだ。

長新太さんの名前は、小学生の頃から知っていたように思う。それは「絵本」でではなくて、ジュブナイルSFの挿し絵や、兄貴が当時よく買ってきた月刊誌『話の特集』に載っていた、ヘンテコな連載マンガによってでだった。「トンカチおじさん」「怪人ジャガイモ男」「ガニマタ博士」タイトルは異なるが、どれもみんな鼻の長い変なおじさんがズンズン進んで行くと「変なもの」に出会うというパターンの、ナンセンス冒険マンガ。

現在、『母の友』(福音館書店)6月号、7月号に再掲載されている「なんじゃもんじゃ博士」と同じ元祖ヘタウマタッチの線画に、同じコマ割りのマンガだった。当時、最も斬新な雑誌であった『話の特集』に、長新太さんは創刊号(1966年 2月号)から参加している。10年前に廃刊になって、今年の2月に「話の特集・創刊40周年記念号」が久々に出たのだが、通巻 353号の全てに一回も欠かさず登場しているのは、編集長の矢崎泰久氏と長新太さんだけだそうだ。律儀な人だったんだね。

「変なおじさん」が登場する「へんなマンガ」によって長新太の洗礼を受けたので、ぼくは未だに長新太さんは「絵本」よりも「マンガ」のほうが好きなのだった。徹底したナンセンス、あっけらかんとしたバカバカしさ、自由奔放なストーリー展開。もうほんとうに面白い。

うちの息子たちには、長さんのマンガを見せたことはなかった。あれは1〜2年前のこと。兄弟で「自作えほん」を作るのが流行して、裏が白紙の新聞広告を切ってはホッチキスで止め、鉛筆で何やら一生懸命「絵と字」を描いて遊んでいた。その当時幼稚園年長だった次男が描いた「えほん」に「くわがたくんのぼうけん」というシリーズがあって(現在「その9」まで続いているのだが)親バカだけど、これが面白いのだ。はちゃめちゃで突拍子もないストーリー展開、飄々としたユーモア、でもちゃんと納得いくように話は出来ていて、最後のページには「つづく!」の大きな文字。ただし「く」の字は「>」と鏡文字になっていたが(^^;)

読んでみて驚いたことに、長新太さんのマンガと、そのセンス、マインドがまったく同じなのだった。いや、うちの息子がすごいと言いたいのではなくて、長新太さんの「センス」「マインド」が凄い! ということを、改めて思い知らされたということ。月並みな言い方しかできないが、「こども」の気持ちを忘れずに保持している、ほんとうに希有な「おとな」であったんだなぁ、長新太さんは。

慎んでご冥福をお祈りいたします。

 『おだんごぱん』は「絵本の樹美術館」にいた      2005/06/26

「中村農場」親子丼がどうしてもまた食べたくなって、再び甲斐大泉へと向かった。今日は、中央道を小淵沢インターで下りたのだが、この時期インター出口の料金所は長蛇の列で渋滞中。前回小淵沢に来た時も渋滞した。でも今回は、渋滞中の車をしり目にスイスイーっと「ETC」の出口へ。そうです。先だって我が家の車にも「ETC」を導入したのでした。やったね(^^)

中村農場直販所に着いたのは、午前 11:55。車を降りようとすると続々と車が到着し、あれよあれよと先を越されて、ぼくらが直販所食堂に入ったところでテーブルは満席となった。向かいの席についたオバサンたちはタクシーで乗り付けていた。運転手さんも親子丼のご相伴にあずかっている。何だか知らないうちに人気が出てきたみたいですよ、中村農場

●親子丼と焼き鳥でしっかり満腹となったぼくらは、すぐ近くの「絵本の樹美術館」へ。先週から子どもも大人もお話の世界に入って楽しむ参加型シリーズ 第7弾「“おだんごパン”って、どんなパン? 案・制作 野口光世」が始まったのだ。

我が家では、毎年この催し物を楽しみにしていて、今回もすばらしい出来映え。細かいところまでじつによく作られている。もうすっかり様子が分かっている我が家の息子たちは、入館してさっそくに変装。次男は「おだんごパン」で長男は「キツネ」。妻は「おばあさん」で、僕は「おじいさん」と「クマ」の2役掛け持ち。一度はストーリーをなぞってみたものの、あとはひたすらおままごとごっこ。でも、これが子供らにとっては楽しいんだね。1時間が過ぎても飽きずにまだ遊んでいる。

館長の田中裕子さんのお話によると、来館者が多いとゆっくり遊べないが、日曜日の午後であれば比較的空いているとのこと。11月まで開催中。同時開催のベリンダ・ダウンの「刺繍絵」もすばらしい。この夏のオススメです。

 Google Map の衛星写真で伊那市を見る      2005/06/24

●6月23日の「さとなおメモ」に、Google Map のことが載っている。ぜんぜん知らなかったが、これ、面白いねぇ。ライヴじゃないけど、自宅にいながら世界一周旅行が簡単にできるのだ。ほぼ世界中どこでも衛星写真を見ることができるのかどうか、まだ試してないので分からないが、アメリカ国内はかなり解像度の高い写真になっていて、地図と写真を切り替えながら見比べてみると面白い。サンフランシスコの金門橋を見てみたが、橋を通る車まではっきり写っている。

PowerBook G4 (OS 9.2) の Internet Explorer はサポートされていないので、いま衛星写真を見ることはできないのだが、患者さんが途切れた今日の午後、診察室の Windows PC でいろいろ試してみた。東京の衛星写真をズームアウトして、西側にスクロールしてゆくと、甲府盆地を過ぎて南アルプスを越えて伊那谷に入る。そこでズームインすると、おお、わが伊那市ではないか! 東京やニューヨークのような高解像度ではないのが不満だが、それでも、我が家はこのあたりか? という場所がなんとなく分かる。

しばらく「これ」で遊べるねえ(^^;)

 『小児科医が見つけた えほん エホン 絵本』(医歯薬出版社)    2005/06/22

●前回書いた「絵本のある風景」というエッセイのタイトルをここに紹介しますね。


1)幼稚園・保育所での読み聞かせ 〜新米読み聞かせ奮闘記〜
                ○住谷朋人   住谷小児科医院 香川県高松市
2)ブックスタートと小児科医
                ○佐々木邦明  佐々木こどもクリニック 名古屋市
  個別健診で行うブックスタート
                ○佐藤雄一   佐藤小児科   宮崎県宮崎市
3)絵本とコミュニケーションの発達
                ○佐々木邦明  佐々木こどもクリニック 名古屋市
4)待合室の絵本
                ○佐々木邦明  佐々木こどもクリニック 名古屋市
5)日本のアンデルセンを追って
                ○時松 昭   時松小児科   埼玉県所沢市
6)院内報と絵本
                ○小野元子   おのクリニック 千葉県松戸市
7)保育園と絵本
                ○時松 昭   時松小児科   埼玉県所沢市
8)あおむし劇団の奇跡
                ○杉山和子   杉山内科小児科医院 山口県防府市
9)絵本とジャズの不思議な関係
                ○北原文徳   北原こどもクリニック 長野県伊那市
10) お父さんと読む絵本
                ○北原文徳   北原こどもクリニック 長野県伊那市
11) 絵本がおとなへ伝えてくれること
                ○高田 修   たかだこども医院   宮城県宮城郡
12) クリスマス会から生まれた絵本
                ○松田幸久   まつだこどもクリニック 鹿児島県鹿屋市
13) 離島のこども達へ絵本を
                ○時松 昭   時松小児科   埼玉県所沢市
14)かかりつけ本屋さん
                ○多田香苗   明和病院    兵庫県西宮市
15)絵本専門店から
                ○三輪 哲   メルヘンハウス 名古屋市千種区

 名古屋「メルヘンハウス」での編集会議       2005/06/20

●昨日の日曜日は、この8月出版予定の『小児科医が見つけた えほん エホン 絵本』日本外来小児科学会 編著(医歯薬出版社)の編集会議が、名古屋のメルヘンハウス2階で行われた。編集作業もいよいよ大詰め、本の全体像も見えてきた。これはいい本になる予感がするぞ。112冊の絵本の紹介文が1ページ1冊で載り、さらにそのページに、関連する絵本を2冊づつ表紙画像入りで紹介されている。一部ダブりもあるから、トータルで300冊強の絵本が取り上げられることになる。

さらに、「絵本のある風景」というエッセイがテーマ別で15本、幕間に入るのだが、このエッセイがみな力作で、それぞれの書き手の思いがしっかりと伝わるいい文章が集まっている。全国各地に絵本が好きで好きでたまらない小児科医がこんなにもたくさんいるのだ、ということを知っていただくためにも、ぜひ、読んでいただきたいエッセイだと思うのです。

 『御乱心』 三遊亭円丈(主婦の友社)       2005/06/17

川柳川柳は、三遊亭圓生一門の出身で、一番弟子の円楽とは入門が3ヵ月遅いだけだった。三遊亭さん生という名前で、二つ目の頃はソンブレロをかぶってギターをかき鳴らしながら、ラテンの「ラ・マラゲーニャ」を高座で唄い、ウケに受けていた。それこそ、円楽よりも師匠の圓生よりもずっと受けていた。桂文楽や先代の林家正蔵からもずいぶんと可愛がられていたようだ。

しかし、二つ目時代は「まる16年」も続いた。師匠の圓生が「あれは色物です。色物を真打にはできません」「いくら人気があっても噺をチャンとできない者は真打にしない」と、優等生の円楽や円窓とは違って、彼を冷遇し続けたからだ。さらに、落語界一の酒乱といわれるほどの酒癖の悪さも一因だったようだ。とにかく、酒にまつわる逸話には事欠かない。

内弟子の前座時代、泥酔して師匠宅へ帰り、その玄関の三和土になんと、ウンコをしたのだ。しかも、その時はいていたふんどしを、あろうことか圓生の書斎の机の上に脱ぎ捨てていったのだった(^^;;;  ほんと、よくまぁこの時、破門にならなかったねぇ。

そんな彼も名門である「三遊亭一門」を破門される時がきた。そう、昭和53年の落語協会分裂騒動だ。『天下御免の極落語』でも語られているが、ことの詳細は『御乱心』三遊亭円丈(主婦の友社)のほうがものすごくリアルだ。伊那市立図書館にあったので借りてきて読み始めたら止められなくなってしまい、一晩で一気に読了した。

円楽、談志の権謀術数に、翻弄されるだけの圓生の弟子たち。師匠の圓生も、ただ円楽の言うなり。志ん朝だって翻弄された一人だった。師匠と弟子の絶対的な関係の中で、苦悩する円丈の気持ちがストレートにひしひしと伝わってくる文章だ。落語界も、けっこう「どろどろ」なんだねぇ。そんな中で、圓生に破門された三遊亭さん生は、落語協会に残り、柳家小さんから川柳川柳という名前をつけてもらったのだ。『天下御免の極落語』では、このあたりのことは淡々と描かれているだけだ。圓生7番目の弟子だった円丈は、2番弟子だった川柳川柳がもっとちゃんとしっかりした兄弟子だったら状況は全然違ったかもしれないと書いている。

 俺はさん生に言った。
「大体、うちの一門は異常ですョ。何時だって師匠と円楽サンだけの間で何でも決まってしまうんです。何時も円楽サンの独走を許してしまったのは、他が情けないからですョ。二番弟子の兄さんがふがいないからこんなことになるんですョ!」(『御乱心』p79)

 『天下御免の極落語』 川柳川柳(彩流社)       2005/06/14

●楽天ブックスの店長で、「パパ's 絵本プロジェクト」のメンバーである安藤哲也さんの子育て Blog が面白い。6月11日の日記のタイトルは「笑わない父親」。たしかにいるいる、こういうお父さん。でも、そんな彼らの気持ちも何となく分かるような気もするのだ。「男の意地」とでも言ったらいいのか、絵本を読んでウケをねらう父親たちを、ちょっと斜に構えて否定的にながめていたい気分。目の前で自分の妻と子供に大ウケしている悔しさ。「男の嫉妬」といった側面も大きいと思う。

『天下御免の極落語』川柳川柳(彩流社)を読んでいたら、こんなフレーズに出くわした。あまり関係ないかもしれないが……

「武士道とは死ぬことと見つけたり」
有名な『葉隠』の一節だが、武士道は長所もあるが短所もある。
身近な例だが、寄席などで老女はよく笑うが老男は笑わない。お婆さんが多いと盛り上がるが爺様が多いともう暗く重い。これも武士道の悪影響だと思う。

私がガキのころ、友達とキャアキャア騒ぎ大笑いして帰ると親父に、
「馬鹿野郎、女みてえにゲラゲラ笑いやがって見っともねえ。男は軽っぽく笑うと馬鹿にされる。男は人前で白い歯を見せるんじゃあねえ」と怒られたものだ。
(38ページ)
川柳川柳(かわやなぎ・せんりゅう)という不思議な名前の噺家をご存知だろうか? ぼくは、去年の元旦の未明、NHK教育で放送された「日本の話芸スペシャル」で、大声で軍歌を歌ったかと思ったら、ウッドベースを「ボンボン、ボンボン」弾くまねをしながらジャズも唄う、ハチャメチャで圧倒的迫力の川柳川柳を初めて目撃した。おったまげた。まったく知らない落語家だったから。その後も、気にはなっていたものの何の情報もないまま過ぎてしまったのだが、彼の自叙伝が昨年出版されたことを知り、さっそく読んでみたのだ。これがまた、メチャクチャで面白い。彼はなんと三遊亭圓生の2番目の弟子(一番弟子は円楽さん)だったのだ。詳しくは、またいずれ。

今年74歳の川柳川柳は、この夏、芸能生活50周年を迎える。おりしも、この落語ブームに乗って、超遅咲きのブレイクを迎えるような予感がする。

 清里へ行って来た                 2005/06/12

●装幀家でエッセイストの荒川じんぺいさんのファンクラブ「あらじん読者倶楽部」の「オフ会」がこの土日に清里であって、家族4人で参加してきた。オフ会は5回目だそうだが、ぼくらは初めての参加。荒川じんぺいさんとも、今回初めてお会いした。だから、すごく緊張して出かけたのだが、じんぺいさんをはじめ、参加した倶楽部のみなさん(6組10数人)が、みな温かく迎えてくださって、ホントうれしかったな。

オフ会は土日2日間に渡りたいへん充実した内容だったが、詳細はないしょです。荒川じんぺいさんはとにかくホントにいい人で、昼前で解散となった後、ぼくらを「黒井健絵本ハウス」へ案内してくださり、ちょうど在館していた黒井健さんに、直接このぼくを紹介してくれたのだ。そこでお別れしたのだが、その後ぼくらは館内にゆっくり30分くらいいただろうか。ふと見ると、「あ、いたいた!」と、じんぺいさんがニコニコしながら、またそこにいた。

「さっきね、家でみつけたんだよ。ほら!」と見せてくれたのは、コクワガタのオス。息子らは歓声を上げ大喜び。ご自宅から、わざわざ戻ってきてくれたのだ。本当にどうもありがとうございました。写真は、今回のオフ会の参加記念品として頂戴した、じんぺいさん手作りの木工細工。かわいい3匹のヒツジが何とも味わい深いです。大切にさせていただきます。

 保育園で、春の内科健診が始まった         2005/06/10

●今月は、園医をしている3つの保育園で内科健診がある。まずは6月8日(水)の午後に、美篶中央保育所へ。健診のあと、園児と同じ「おやつ」をご馳走になって、例によって年少さんのクラスで絵本を読ませてもらってきた。

『はやいぞブンブン』こもりまこと(童心社)

 『バルンくん』の作者の新作。唇をふるわせて「ブルブル、ブルルーン。ブンブンブーン!」と、力んで読んだら、みんなビックリして引いちゃった(^^;; この読み方がうけるのは、やっぱり2歳までか?

『ちへいせんのみえるところ』長新太(ビリケン出版)

 「でました!」をいうタイミングがむずかしいなぁ。やはりページをめくって一呼吸おいてからか。あと、何も出ない場面では、どうしても「でません」と言いたくなっちゃうんだよなぁ。

『もけらもけら』山下洋輔・元永定正(福音館書店)

この本が一番反応がよかったが、なんか、みんなおとなしいんだな。わけわからん変な絵本ばかり読んだからいけなかったかなぁ(^^;;

●忘れないうちに、5月17日(火)に天使幼稚園の内科健診のあと、年長クラスの「アネモネ組」で読ませてもらった絵本も記録しておこう。昨年度は、『マイクマリガンとスチームショベル』を読んで外したので、今回は絶対に受ける絵本ばかり持っていった。今年の天使幼稚園の年長さんは、なんだかものすごく元気がよくて、受け方も半端じゃなくって、うれしかったなあ(^^) 園長先生もいっしょにニコニコしながら聞いてくれたよ。『うんちっち』なんて読んじゃって、はたしてよかったんだろうか?

『こんにちワニ』中川ひろたか・村上康成(PHP)
『おかあさんのパンツ』山岡ひかる(絵本館)
『へんしんトンネル』あきやまただし(金の星社)
『うんちっち』ステファニー・ブレイク(PHP研究所)

 内田樹センセイって、何者なんだ?        2005/06/07

●信濃毎日新聞 6月5日(日)読書欄の中の「新書」を紹介するコーナーで、実川元子さんが書いていたことが気になってしかたがない。彼女はこう言っている。

 現在の異常なほどのペットブームは、「子どもは嫌い」と言える人たちが支えているのではないかと私は疑っている。
 子どもは大人とはちがう文化で生きている上に、「子ども--大人」の関係は、「ペット--飼い主」とはちがって、「被支配--支配」ではすまない複雑さがある。子どもと関係を築くには多大な時間とエネルギーを要し、しかも成功するとは限らないのだ。

 そんな子どもを、現代日本社会は<異物>と見なしているのではないか、と指摘するのが斉藤環氏。著書「『負けた』教の信者たち」(中公新書ラクレ)で、氏は、<子どもという存在が、対話と共感の回路から、これまでになく疎外されつつあるのではないか>と言う。
ぼくはあわてて本屋さんに走って、斉藤環氏の新書を買って帰ったのだが、この本を読む前に、現在読んでいる『14歳の子を持つ親たちへ』内田樹・名越康文(新潮新書)と、次に読む予定の『なぜ、その子供は腕のない絵を描いたか』藤原智美(祥伝社)を読み終えないとならない。

●ところで、最近ネット上で、本屋さんで、やたらと目にする内田樹センセイって、いったい何者なのだろう? 永江朗『批評の事情』(ちくま文庫)には、索引にも載っていないから、内田樹(たつる、と読む)先生は、2002年以降に突如彗星の如く出現したことになる。神戸女学院大学教授で、専門はフランス現代思想。合気道の師範でもあり、あの伝説の武道家甲野善紀氏ともお友達だという。でも、飛ぶ鳥を落とす勢いで、現在出版界でモテモテなのは何故なのか?

内田先生のブログ「内田樹の研究室」を日々チェックしてゆけば、自ずと判ることではあるが、たまたま、入手したもののついてゆけなくて積ん読状態だった『ユリイカ4月号(特集:ブログ作法)』をながめていたら、内田樹先生の文章を発見した。内田先生も、1999年の春までは世間ではまったく無名の研究者にすぎなかったのだ。その年の春にホームページを立ち上げて、あの怒濤の書き込みが始まった。これがネット上で注目を集め、その中のコンテンツの一部が『ためらいの倫理学』(すみません未読)というデビュー作になったのだそうだ。

「ユリイカ 4月号」に載った文章は、ぼくでもよく分かる(スルドくてわかりやすいのが内田先生の特色なワケね)。彼が考える「インターネット・コミュニケーション」とは贈与としてのコミュニケーションである、と言っている以下の点に特に共感を覚えた。
 私がいまブログで毎日よしなしごとを書き連ねることができるのも、そのせいで物書き仕事に恵まれたのも、このような原稿を書いてみなさまにネット・コミュニケーションの意義についてご託を並べていられるのも、一つとして私の手柄ではない。私は自力で扉をこじあけてこの場に立ったのではない。さまざまな人々が私の手を引き、尻押しをし、扉を開いて、ここに立たせてくれたのである。だから、私の書き物はそのような先行する「贈り物」への私からの「お返し」でなければならない。(中略)

 ネット・コミュニケーションが私たちに与えてくれる最良のものは、情報の速報性でも公開性でも言論の自由でもない。それは「人間は一人では何もできない」ということ、私たちはそのつどすでに「贈り物」の受け取り手として「反対給付」の義務を負っているという真理である。
(「ユリイカ 2005/4月号」p111 より)


 『いってらっしゃーい いってきまーす』     2005/06/05

林明子さんの「絵本」の秘密■ を、久しぶりに更新しました。取り上げた絵本は、『いってらっしゃーい いってきまーす』。絵本を手元に用意して、読んでみてください。

 講演も、ひとつの話芸であるよなぁ      2005/06/03

●今週の日曜日は、中川村図書館・文化センター共催「元気っ子講座(第1回)」の講師として呼ばれて、「メディア育児の危険性」と題して1時間半近くはなしをさせてもらってきた。若いおかあさん方に、お父さんも2人、保育士さんもたくさん聴きにきてくれたようだ。杉沢図書館長さんによると、下伊那郡の高森町や喬木村から来てくれた人もいて、60人近くも集まったそうだ。ほんとうにありがたいことだけれど、聞きに来てくれた人たちに十分満足してもらえる「おはなし」ができたのかどうか? となると、なんだかまったく自信がない。

今回のはなしの「元ネタ」は、昨年の1月28日に辰野の「聖ヨゼフ幼稚園」で話したもので、その直後の2月初めに日本小児科医会が出した「子どもとメディア」の問題に対する提言を受けて、3月14日に「いなっせ」7階の子育て支援センターで、さらに4月14日には、諏訪・上伊那地区私立幼稚園協会の総会で幼稚園の先生方を前におはなしさせてもらった。

毎回、終わったあと「今日はいまひとつだったなぁ」と反省しては、少しずつ改良を加えてはいるのだが、いつまでたってもスマートな講演はできない。凄い講演をする講師っているよね。最初の「つかみ」で一気に聴衆を引きつけて、3分に1回は笑いを取って、終盤でしみじみと泣かせる話をして、最後には明日への希望の光を見せてくれる、といった講演をする人が。

例えば、夜回り先生の水谷修先生。それに、ヤンキー先生だった義家弘介氏。高塚人志先生の講演もそうだ。

こういう言い方は失礼なのかもしれないが、講演も、ひとつの話芸であるよなぁと、つくづくそう思う。何度も何度も講演を重ねるうちに、無駄を省き、話術を洗練させ、まるで、桂文楽の落語のように研ぎすまされた話芸に仕上げられるのだろう。

 一点一劃もおろそかにしない楷書の芸、というのが文楽に対する大方の見方で、だから同じ噺を百回聞けば百回とも寸分たがわぬ出来だという印象を抱いている人が少なくない。事実、これ以上改良の余地はないというギリギリのところまで練り上げられているのが文楽落語の特質であり、その意味では融通性のない高座であった。(中略)すなわち不動の芸である。

しかし、仔細に聞けば、不動の芸のワクのなかで、微妙に動く部分があった。五、六年前まで毎月イイノホールで開かれていた精選落語会の楽屋に用事があって、舞台の裏にまわったところで、ちょうど高座からおりてきた文楽に出くわしたことがある。
「きょうはよござんした。ああ、きょうはよかったよ。うん、きょうぐらいできりゃいいんだ」
 まだ少しばかり息をはずませながら、文楽は、私と弟子の文平にむかって、しかし半分は自分にいいきかせるようにつぶやくのを耳にして、私は改めて、芸という生きものの不思議さを感じた。

 その揺れ動く部分が芸の艶であり精気であり、それを微動だにしない部分ががっしりと支えている。それも、太い梁や大黒柱だけではなくて、巧緻をきわめたほぞ組や繊細な桟をふんだんに用いた骨格である。そういう構造だから、一つの噺の完成に五年十年という歳月を要したのも無理はない。(『落語への招待』江國滋 p298)
●ぼくには、やっぱりとても真似できないよなぁ。「同じはなし」をくり返していると、話しながら自分で飽きてきてしまうのだ。そういう不埒な人間は、とても芸の領域には入ってゆけないだろうなぁ。なんて考えつつ、水曜日の午後には、上の原の子育て支援センターへ行って、2歳以下の入園前の児を連れた母親30組を前に、「子育てとメディアの話・ 30分短縮版」をはなしてきた。

 寄席の出囃子               2005/05/29

『タイガー&ドラゴン』第7話のオープニング。落語芸能協会・会長の柳亭小しん(小日向文世)が登場するシーンで使われていた「出囃子」が、よく聴く出囃子だったんで、はて? 誰の出囃子だったっけ? と思って、iPod に入れてある落語の出囃子を確認してみたら、八代目・桂文楽の「野崎」という出囃子だった。

話の展開から、落語協会の分裂騒動と関連して、三遊亭圓生さんの出囃子じゃないか? と思ったんですが、違いました。

『寄席の世界』小沢昭一(朝日新聞社)を読むと、120ページに寄席のお囃子を担当している小松美枝子さんとの対談が載っているのだが、これがまた面白い。127ページには、主な落語家の出囃子が一覧表になっている。

桂文楽(八代目)  野崎
古今亭志ん生    一丁入り
古今亭志ん朝    老松
三遊亭圓生     正札附
柳家小さん     序の舞

立川談志      木賊狩り
柳家小三治     二上がりかつ鼓
春風亭小朝     三下りさわぎ
春風亭昇太     デイビー・クロケット
林家こん平     佐渡おけさ


土曜のよる、日テレの『瑠璃の島』をたまたま見てたら、こちらでも小日向文世さんがメインで出てましたねぇ。

 近ごろ、読んでいる本            2005/05/27

『失踪日記』吾妻ひでお(イースト・プレス)

  全編マンガだけど、隅から隅までこれほどちゃんとマンガを読んだのは久しぶりだ。
  カバー裏のインタビュー記事が泣ける。

『幼児期』 岡本夏木(岩波新書)

  昨日買ってきて、まだ 88ページまでしか読んでないのだが
  この本は、なんか凄い。読みながらゾクゾクしてくる。
  あの、元レースクイーンの岡本夏生ではなくて、80歳近い
  発達心理学の老先生の最新著書。

 「幼児期」に育てられる主要なもの「しつけ」「遊び」
 「表現」「ことば」の4つを取り上げて、それぞれが、その
  後の人間的発達にどのように重要に係わっているのか?
  そして、いまの子供たち、その親たちは、それらの何を
  喪失してしまったかが考察されている、じつに刺激的な1冊!

『ほめるな』伊藤進(講談社現代新書)

 「ほめること」のむずかしさについては、以前ここにも書いた。
  『幼児期』の第1章:なぜ「しつけ」か とも関連してくる。詳細は読み終わってから(^^;;

 外来はヒマなのに、何故かとっても忙しい      2005/05/25

●先週の木曜日のあさ早々に提出した「上伊那医師会報5月号」の原稿割付だが、1週間経って「初校」がようやく刷り上がってきた。しかも、予定外の「空欄」が2カ所もできてしまった。カットで埋めるには広すぎるスペース。ひょえぇ〜、18×25 字、18×24 字で、文章を「2つ」明日の朝までに書き下ろさなくてはならない。中途半端な字数制限だから、これが案外難しいのだ。

というわけで、苦労して何とか先ほど書き終えた。はぁ。今度の日曜日は、中川村図書館へ行って「メディア漬け育児の危険性」という題で講演をしなければならないのだが、その準備も進んでいない。木・金・土、あと3日が勝負だぞ! (^^;;


私の園医・学校医活動

 私は伊那東小学校、竜東保育所、美篶中央保育所、高遠第一保育園、天使幼稚
園、それに、発達障害児の母児通所施設小鳩園の園医・学校医を担当しています。

小鳩園では、通所する母親を対象に年2回のおはなし会を開いていますが、他の
保育園へは春秋の内科健診の時だけ出向きます。ただ、子供たちが怖がらないよ
うにと、2年半前から健診のあとに絵本の読み聞かせを始めました。これが子供
等にたいへんな人気で、最近では、健診よりもこちらがメインになってしまいま
した。

3月上旬の小学校では、卒業する6年生を対象にタバコの害を中心にドラッグ依存
の恐怖について授業をしています。今度はぜひ「いのちの授業」に挑戦してみた
いです。入園前の子供が集まる「いなっせ」7階の子育て支援センターでも
毎月「おはなし会」を続けて1年が経ちました。これからも診察室を飛び出して、
活動の場を広げて行きたいと思います。



左手だけのピアノリサイタル

 5月14日(土)の夜、ぼくは伊那文化会館への道を急いでいた。小ホールで7時
から、ピアニスト舘野泉さんのコンサートがあるのだ。開演間際の到着で空席は
右手前方のみ。ここからだと残念ながら舘野さんの手の動きは見えない。

 世界的に有名なピアニスト、舘野泉さんが脳溢血で倒れ、右半身不随に陥った
のは、2002年1月のこと。右手の麻痺はピアニストとしての生命を断たれたこと
を意味する。苦悩と絶望の中で、ひとすじの光が見えた。左手だけのピアニスト
として、彼は再起の道を模索したのだ。実際、音楽を表現するのに片手だの両手だ
のは関係ない。

演奏会の最初の曲は、バッハのシャコンヌ。ヴァイオリン・ソロの曲を、彼は左手
だけのピアノで弾いたのだが、その気迫と音の深さに圧倒された。膝の上に置かれた
ままの右手に対し、ピアノの蓋(屋根)に写る左手は右に左に激しく動く。
きっともの凄く高度なテクニックと厳しい練習が必要だったに違いない。

 『おわりの雪』ユベール・マンガレリ        2005/05/22

●境区公民館の副主事としてずっと準備してきた「境区運動会」が、今日無事終了した。お天気がもってくれて、ほんとよかった。地区の一大イベントを裏方で支えるということは、予想以上にものすごく大変なことだ。さて、今度は「お盆の夏祭り」に向かっての準備が始まる。

朝の集合時間が6時45分だったので、土曜日は子供といっしょになって夜8時には寝た。そしたら、午前0時過ぎに目が覚めてしまって眠れなくなってしまった。仕方ないので、2階から下りてきて、半分ほど読みかけだった本の続きを読むことにした。『おわりの雪』ユベール・マンガレリ(白水社)だ。

PDFファイルで最初の3ページが読めるので、興味のある方はぜひダウンロードして欲しいのだが、ぼくはこの最初の4行を読んで、すっと小説世界に引き込まれてしまった。ディック・フランシスも、宮城谷昌光も、小説の冒頭の1行に命を賭けている。この無名なフランス人の小説家もまさにそう。

トビを買いたいと思ったのは、雪がたくさんふった年のことだ。
「トビ」がいいんだね。同じ猛禽類でも、鷲や鷹ではダメなんだ。そんなに華やかじゃない。かと言って、本当は猛禽類ではない「よだか」の哀愁とも違う。うらぶれてはいるけれど、凛としているんだ。主人公の少年が、寝たきりの父親のベッドサイドで語る「トビ捕り」の作り話。その詳細は、小説の中では結局は一切語られないのだが、読んでいくうちに、父親と同様にもう何度も聞いた話に思えてくるから不思議だ。
「ぼく、おぼえてる。たしかこうだよ。男の影はひとつの黒い夜でした」
「そう、それだ。こんどはおぼえた。そこはほんとうに気に入ったんだ」
静かな前半を読みながら、ぼくは「フランスにもいしいしんじそっくりの作家がいたんだねぇ」と感嘆した。深い諦観の向こうに、かすかな光が見える。いしいしんじの処女作『ぶらんこ乗り』の肌ざわりを思い出したからだ。そう言えば、あの本の中の「弟」も、いっぱい「作り話」をしていた。 ユベール・マンガレリ『綱渡り芸人の秘密』という小説で、児童文学作家としてデビューしている。ね、似てるでしょ(^^;)

●夜中に読み始めたのは、66ページからだった。この中盤からの展開が素晴らしくて、途中で止めることができなくなり、結局最後まで読み終えてしまった。本を閉じた後になっても、鮮烈な視覚的イメージが次々とフラッシュバックのごとく浮かんでくる。いしいしんじ『絵描きの植田さん』も、雪のイメージが印象的だったが、フランスの「いしいしんじ」はもっとずっと凄かった。

この、フランス本国で出版されているペーパーバック版の表紙の絵がじつにいい。そう、この場面が一番印象的なんだ。 ぼくにしては珍しく、もう一度この小説を読み返してみたい、そう思った。今度はゆっくりと、文章を味わいながら。

 『ポプラビーチ』               2005/05/20

柳家喬太郎さんは、現在「週刊文春」誌上で「川柳のらりくらり」という連載をしているという。ちっとも知らなかった。近頃は「週刊文春」を定期的には買っていないからなぁ。5月19日号をたまたま購入してあったので見てみると、p111にあったあった。毎週「お題」を決めて投稿された川柳を選考して講評するページだ。下の欄外を見ると、5月16日(月)、長野県駒ヶ根市・安楽寺にて、「柳家喬太郎独演会」を開催します! と書いてある。

ウエブ上で、喬太郎さんが何か書いていないか検索したら、ありましたありました。

 「落語こてんパン」だ。おっ、今月は「寝床」。

それにしても、この『ポプラビーチ』の連載陣は充実しているなぁ。『恥ずかしい読書』永江朗や、『古本道場』角田光代+岡崎武志は、ここのコンテンツを本にしたんだね。まだ少ししか目を通してないが、TVディレクター、込山正徳さんの「ぼくはパパでありママである 〜シングルファーザー奮闘記」は読ませるなぁ。

ちょっと、楽しみなサイトを見つけて、うれしい。

 「柳家喬太郎・独演会」at 駒ヶ根・安楽寺本堂  2005/05/16

●今日は、夜7時から駒ヶ根の安楽寺で「柳家喬太郎・独演会」。月曜日だし、ちょっと無理かなぁと思っていたが、めずらしく6時前には診察終了。早めの夕飯を作ってもらって、急いで食べてから向かったのだが、6時45分にはゆとりで到着。木戸銭1000円とは安いねぇ。会場のお寺の本堂には老若男女、300人以上が詰めかけていた。TBS『タイガー&ドラゴン』の影響か、ぼくの左側には高校生の男女グループが5〜6人。ほかにも若者が目立っていたな。

柳家喬太郎さんを聴くのは初めて。去年だったか、銀座山野楽器の落語CDコーナーで『喬太郎落語秘宝館1』が平積みになって大きくプッシュされていたのを見てから、ずっと気になっていた噺家さん。国立演芸場の平成16年度花形演芸大賞を受賞している。

最初に前座が出てくるのかと思ったら、いきなり喬太郎さんが登場。ひとりで飯田線に乗って来たんだって。一席目は「たらちね」。そのあと続けて新作落語の「韓流質屋」で、ヨン様かぶれの男と、チェ・ジウになりたい女が質屋で出会う噺。中入りのあとは「お菊の皿」をたっぷりと。いやぁ。笑った笑った(^^) 面白かったなあ。初めて聴いた「お菊の皿」は、怪談「番町皿屋敷」を茶化してお笑いに仕立てたネタで、ちゃんとした古典落語なのだが、ぼくはてっきり喬太郎さんの自作「新作落語」かと思ってしまいましたよ。それくらい「いま風」にアレンジされていた。

喬太郎さんは声がいいね。それから、女性を演じるとじつに艶っぽい。青山のお殿様が、お菊をいたぶる場面を妙に熱演しているのが可笑しかった(^^;)
喬太郎さんの駒ヶ根での独演会は、今回で6回目だそうだ。来年もまた聴きにこよう。

●さて、つぎは立川談春を聴きに行かなくちゃ。伊那にに来てくれないかなぁ

 パパ's 絵本ライヴ(その11)辰野西小学校親子文庫  2005/05/14

●今日は、辰野西小学校の「親子文庫」に呼ばれて、われわれ伊那のパパ's 4人で(坂本パパはおやすみ)辰野町で絵本を読んできた。今回が 11回目のライヴだ。辰野町は、昨年7月の「新町保育園・父親参観」、11月の辰野図書館に続いて、今回で3度目。こんなに何度も呼んでもらえて、まったく有り難いこってす(^^;) 同じネタが重ならないように、新曲も用意した。前日の金曜日の夜に集まって、15分だけ練習した歌、『かごからとびだした』だ。振り付けもある。うまくいくか心配。

■辰野西小学校の「親子文庫」は、今年から「月丘の森文庫」という宝塚歌劇団のような素敵な名称になって、今までの「母親文庫」のお堅い真面目なイメージを払拭すべく、その初のイベントとして「われわれパパ's」の絵本ライヴを企画してくれたのだった。会場には親子あわせて40人くらいが集まってくれて、若いお父さんが2人に、辰野西小の校長先生も見に来てくれたよ。うれしいねぇ。

  

いつものように『はじめまして』でごあいさつ。この日のトップ・バッターは伊東パパ。五味太郎さんのむかしの絵本『くじらだ!』を「ビッグ・えほん」で読んだ。ラストのどんでん返しが、ビッグサイズで迫力がでて、「わぁ〜っ!!」と子供たちは大きな歓声をあげたよ。
     

続いて、お笑い担当のぼくの出番。ラジカセ持って子供たちの前へ。今日も「ヒロシです」ならぬ『バナナです』だ。BGMの「ガラスの部屋」がラジカセから流れ出しただけで、子供たちは笑い出した。やった(^^) 読み終わってすかさず次の『いちこです』を手に取り読み始める。今日はタイミングがバッチリだったぞ。よぉし、ヒロシ人気はまだ続きそうだし、このネタ、あと半年は使えそうだな(^^;;

●次はいよいよ新曲披露だ。『かごからとびだした』緊張するね。絵本を見せながら6番まで通して歌って見せたあと、今度は聴衆のみんなに二人一組になってもらって、手遊びでいっしょに歌に参加してもらった。ふつう小学生ぐらいになると、手遊びなんてふてくされて参加してくれないものだが、辰野の子供はとにかく反応がよくて、大きな子もみんな嫌がらずに手遊びをしてくれた。おかあさんはもちろん、おとうさんも校長先生もね。うれしかったな(^^)

  

宮脇パパは、一年ぶりの『ハのハの小天狗』飯野和好(ほるぷ出版)だ。敵の大将が「ムッ! 手り剣がなくなった」という場面で、宮脇パパはおもむろにズボンのポケットに手を突っ込み「いや、まだあったぞ!」と、折り紙の手裏剣を次々に取り出して、子供たちに向けて「シュシュッ!」と投げたのだった。これには子供たちもビックリ(^^)

主任(トリ)の倉科パパが読んだ絵本は、今年の1月に出たばかりの『アリのさんぽ』こしだミカ・作(架空社)。散歩しながらふと「このみち いったい どこまで つづいてるんやろ」と疑問に思ったアリは、いろんな動物に訊いて回ります。大胆な色使いとデフォルメされた迫力の絵柄に、軽妙な大阪弁のセリフが妙にマッチする、哲学的で不思議な絵本。これ面白いなあ。

おしまいに、いつもの『世界中のこどもたちが 103』を歌い終えると、この日は坂本パパがいなかった分、ずいぶんと予定よりも早く終了してしまった。すると、客席のおかあさん方からアンコールの手拍子が! うぅっ、アンコールなんて、はじめてだぜ。うれしいねぇ。あわてて、控え室まで『いっぽんばしにほんばし』中川ひろたか(アリス館)を取りに行き、最後にみんなでこの手遊び歌を歌ったのだった。

それにしても、辰野の子供はみな絵本の楽しみ方をよく心得ていて、乗りがいいから、絵本を読むほうもすごくやりやすいし、充実感も大きいんだね。辰野西小学校「月丘の森文庫」のみなさま、ほんとうにどうもありがとうございました。(2005/05/17 追記)

<パパ's 絵本ライヴ 目次へもどる>

 センダック『かいじゅうたちのいるところ』(おしまい) 2005/05/12

●渡辺茂男・著『すばらしいとき・絵本との出会い』(大和書房 / 絶版)を伊那市立図書館から借りてきて読んでみると、92ページにこんなことが書いてあった。

センダックの創作のテーマは、「人間存在の一つの状態としての子ども時代」である。「すべての子どもたちが、一日一日、どのようにして子ども時代をとおりすぎるのか。彼らが、たいくつ、恐れ、痛み、そして悩みをどのように克服し、そして喜びをみつけるのか、ということに、わたしはつきることのない興味をもっています。子どもたちは成長できるのだということが、わたしには、いつも奇蹟のように思われます。」(中略)

「……だから彼らは、経験について無垢ではないのです。子どもは、非常に多くを知り、非常に悩むものだ、という事実を尊重しない両親や、子どもの本の書き手が多すぎるだけなのです。わたしの描く子どもたちは、多くの喜びを表していますが、しばしば無防備に見えます。無防備であるということは、子どものもっとも子どもらしい要素です。」(中略)

「……わたしが頼りにしつづけるのは、自分の知っていること ---- 自分のかつての子ども時代についてでなく、いまここにいるかつて子どもだったわたしについてなのです。」(『センダックの世界』岩波書店)
■センダックという人は、自分が子供のころに体験し、感じ、空想したもろもろのことを、じつに細かく正確に記憶しているんだね。それをネタにして絵本を描いているんだ。彼は、1964年のコールデコット章受賞の挨拶の中で、こんなことを言っている。
それらは子どもたちが必要としているゲーム ---- 子どもであることの恐ろしい現実と戦うために、想像力で呼び出さなくてはならないゲームです。その現実とは、彼らが恐怖、怒り、憎しみ、欲求不満などの感情に常に脅かされているということにほかなりません。こうした感情はどれも子どもの日常生活に普通に見られるものですが、彼らはそれを制御できない危険な力として味わうほかないのです。

そうした力をなんとか飼い慣らしていくために、子どもたちは空想(ファンタジー)に向かいます。そしてその想像の世界の中で、子どもたちを悩ましている感情は次第にほどけ、満足が得られるのです。私の本の主人公マックスは、空想(ファンタジー)によって母親への怒りを解消し、眠くなり、おなかをすかせ、自分自身と和解して現実世界にもどってきます。

もちろん私たちは、子どもたちの情緒的理解力を越える経験、不安を強めるような新しい苦痛を伴う経験から、子どもたちを護りたいと願っています。そして、あまりに早いうちからそんな経験にさらされないですむように子どもたちを護ることなら、ある程度は可能です。それは明らかです。しかし、同様に明らかでありながら、あまりにもしばしば見過ごされているのは、子どもたちがごく幼いうちからすでに自分を引き裂く感情とはお馴染みであるということ、恐怖と不安は彼らの日常生活の本質的な一部であるということ、彼らは常に全力を尽くして欲求不満と戦っているのだということです。そして、子どもたちがそれらから解放されるのは、空想(ファンタジー)によってなのです。それは「かいじゅうたち」を飼い慣らすために彼らが持っている最上の手段なのです。(『センダックの絵本論』岩波書店 p160より)
このあたりの考え方は、センダックがフロイトの精神分析理論の影響を受けていることの表れとも思われるが、フロイトに無知なぼくも、最近、イギリスの小児科医でなおかつ優れた精神分析医であった、ウィニコット『赤ちゃんはなぜなくの』(星和書店)を読んだので、うんうん、そうなんだよねぇと、すごく納得してしまうのだった。

ウィニコットのはなしは、いずれまた。(おわり)

 センダック『かいじゅうたちのいるところ』(その4)  2005/05/10

『絵本をよんでみる』の p263 で、五味太郎さんはこんなことを言っている。

この絵本の扉のところに二匹の「かいじゅう」がいるでしょ。これ、絶対にマックスのお父さんとお母さんだと思ったの。
ところがセンダックは、彼が幼いころ家にやって来た親戚のおじ、おばたちが「かいじゅう」のモデルであると、次のように述べている。
彼らは、ほとんど日曜日ごとにやってきました。そしてわたしは、つぎの日曜日にまた彼らがやってくることを考えて、一週間悩んだものです。わたしの母は、彼らのために料理をしました。子どものわたしの目には、彼らがわが家の食料をたべつくしてしまうように思いました。わたしたちは、これらのおじ、おば、そして彼らが引きつれてきたいとこたちのために、よそいきの服をきせられ、家具にはみにくいプラスチックのカバーがかぶせられました。親類のものたちときたら、子どもたちとおしゃべりするのが、まぬけかと思われるほど下手でした。

わたしがどうしようもなくて、台所のいすにすわっていると、そこへきて、ねこなで声で何かいい、ほっぺたを、ちょいとつねるのです。あるいは、きたない歯と鼻毛ののびた鼻を近づけて、「たべちゃいたいくらいにかわいいねえ!」なんて恐ろしいことをいうのです。
(『センダックの世界』岩波書店 88ページ)
というわけで、この扉に描かれた二匹の「かいじゅう」は、センダックのおじさん、おばさんということになる。髪の毛の長い「かいじゅう」は三匹登場するから、おばさんは3人だな。小さな山羊の「かいじゅう」は、おばさんが連れてきた「いとこ」に違いない。残りの「かいじゅう」は4匹。じゃあ、おじさんは4人か? いや、そうではない。センダックに独身の叔父さんがいたかどうかは不明だが、おじさん・おばさんは必ず「ペア」で訪問したはずだから、おじさんも「3人」ということになる。となると、残りの一匹は誰か?

そう、それはセンダックのお父さんだ。母親は、この絵本の中では声だけの出演で姿を見せない。でも、父親は登場していたんだね(^^;) どこに? ほら、表紙にいるじゃない(^^)

なぜ、この「かいじゅう」がセンダック(マックス)の父親かというと、この「かいじゅう」だけ人間の素足をしているからだ。つまり、彼も「本物のかいじゅう」なのではなくて、「着ぐるみ」を着ているんだね、たぶん。それから、マックスを「かたぐるま」しているのが、この「かいじゅう」だ。息子を肩車するのは、洋の東西を問わず「父親」と相場は決まっている。
(もうすこし続く予定)

 中村農場の「ほんものの親子丼」ふたたび     2005/05/08

●ゴールデン・ウィーク最終日の日曜日。午後4時から境区公民館主催の運動会準備のための会合があるのだが、お天気がよかったので、車で出かけることにした。目指すは清里。中央道を長坂インターで下り、八ヶ岳へ向かって大泉まで上り、清里高原有料道路を通って清里へ。有料道路の「料金所」手前左側にある「中村農場・直売所」で昼飯にする予定だったが、到着した11時にはまだ準備中で、営業は午後0時〜2時とのこと。しかたないので、帰りに寄ることにして、まずは清泉寮へ。

「えほんミュージアム清里」では、5月30日まで島田ゆか絵本原画展を開催中。最新刊『ぶーちゃんとおにいちゃん』全点に、『かばんうりのガラゴ』『うちにかえったガラゴ』の原画が多数展示されていた。『バムとケロ』の原画は、以前「斑尾高原絵本美術館」で見たことがあったが、とにかく島田ゆかさんの絵本原画はすばらしい。シックな色使い、センスが光る小物のデザイン、微細な筆のタッチ。どれも、印刷された絵本の絵と違って、絵本作家の体温が感じられるのだ。そんな原画ならではの味わいを堪能させていただきましたよ。

続いて、すぐ近くにある「黒井健絵本ハウス」へ。「ぶたのモモコ」シリーズと、『うみをわたったこぶた』の原画展。こちらもすばらしい。『うみをわたったこぶた』に関しては、後日また紹介する予定。

●午後1時55分、閉店ぎりぎりで「中村農場」へ戻ってきた。これからでもOKとのこと。ありがたい。ほんもののの親子丼にありつけるぞ(^^) 久しぶりだなぁ。今日は、前回食べれなかった手羽元先に、やきとり(ぼんぼり、ソリレス、かわ)も2本づつ注文。いや、これがまた、ほんとうに美味かった。親子丼は2つしか注文しなかったので、またしても親子で奪い合うように一気に食べ終わったのだった。オレンジ色の黄味をした卵がとくかく絶品! もちろん、甲州地鶏のよく締まった肉も味が濃く旨い。「掲示板」で、こんな紹介サイトも見つけた。どうです、旨そうでしょ(^^)

午後3時半には無事帰宅したが、近いうちにまた食べに行こうっと。

 センダック『かいじゅうたちのいるところ』(その3)  2005/05/05

●前回、ぜんぜん意味ないじゃん、と書いてしまいましたが、マックスが怪獣たちを引き連れて、「月夜の盆踊り」を踊るシーンには、やっぱり満月が必要だった訳で、作者のセンダックにとっては必然だったんだな(^^;; 訂正いたします。ごめんなさい。

今回は、「おとうさんの絵本」とのコラボレーションを企画していて、あちらで書けない水面下の事象を、こちらに書いていこうと思っているワケです。そこんところを、ご理解くだいさいね。

■ところで、次に取り上げるテキストは、五味太郎の『絵本をよんでみる』だ。この本は、ほんと凄いのだが、例えば次のフレーズを読んでみて欲しい。

たとえばここの場面にはいたんだけれど、最後のほうでいなくなっちゃう「かいじゅう」がいるじゃない。

-----黄色い眼をしたやせっぽちの山羊。

こいつはいったいどうしたんだろう、って気になるのがあたりまえです。この山羊の化け物、最初に二度出るだけで姿を消している。どうやらこれは食われましたよ。たぶん、このみんなが寝ている画面をずっとパンしていくと、木にズタズタにされてぶらさがっているヤツがいる。
(272ページ)
あわてて絵本を取りだして、マックスが「かいじゅう」たちを夕食抜きで寝かせ付ける場面を広げて見るのだけれど、木には何もぶらさがってはいない。どうして? 版が新しくなった絵本では、書き換えられてしまったのか? これも謎です。(とりとめのない話はまだまだ続く)

 センダック『かいじゅうたちのいるところ』(その2)  2005/05/03

『もっかい読んで!』田代康子(ひとなる書房)を読むと、「月の秘密」の意外な解答が載っていましたよ。

ところで、センダックはこの月をどんな意図で描いたのでしょうか。センダックはこう述べています。

「わたしは、満月が好きなんです。友人のトミー・ウンゲラーが、わたしの本は矛盾だらけだといいました。満月が何の理由なしに四分の三に欠けたり、半月になったりするんですからね。でも、わたしの本には、月は、グラフィックな理由であらわれるのであって、天文学的理由ではないのです。ページにどうしてもあの形が必要なのです」(『センダックの世界』93ページ) (p182より)
なぁ〜んだ! ぜんぜん意味ないんじゃん! うへっ(^^;; 
(まだまだ続く)

 センダック『かいじゅうたちのいるところ』(その1)  2005/05/01

●落語のはなしは、ちょいとおやすみ。

『私のカントリー No.52』春号 (主婦と生活社 \1350+税)の河合隼雄さんと落合恵子さんの絵本対談 の中で、河合隼雄さんはこんなことを言っていました。

-----絵本はお子さんとの遊びのひとつ?

【河合】ええ、そうですね。でも、仕事にも役立っている。『かいじゅうたちのいるところ』は、何でか、英語で先に読んでいるんですよ。で、すごい絵本だと思ったわけです。

【落合】最初にその本が出たとき、大人たちには「好ましくない本」と、とらえられた。ところが子供たちにはすごい人気で。

【河合】そう、怪獣のこの顔見るだけで子供はめちゃくちゃ喜んで。これねえ、心理学の学会なんかでよう見せるんですよ。結局、このすべての体験はほとんんど一瞬のことなんですね。ごはんがあったかい間なんです。子供がお母さんに怒られて、カッとなって治まる。その数分ほどの体験がこれなんです。それを覚えていて話に仕立てるっていうのはすごいと思う。ぼくは、子供の体験はみんなこういうものだってことを心理学者に伝えるというのと、もうひとつは、イメージっていうのはどんなにすごいか……一瞬のイメージが、ゆっくり話したらこんな話になる、というふうな意味で。

【落合】ほかの先生方も入りやすいですよね、そういう形なら。

【河合】ええ、そう。箱庭療法なんか日本のほうが進んでいるから、アメリカでよくしゃべったものです。この絵本使ってね。 (92ページ)
■たしかに、現世では「一瞬の間」であったことは間違いない。では、主人公のマックスが「行って帰ってきた」あの「かいじゅうたちのいるところ」は、いったい何だったのだろうか? マックスの白昼夢? それとも、幻想? もしかして、タイムトリップか?

そのヒントは「月」にあった。マックスが出発する前の窓の月は「三日月」なのに、マックスが長い航海から帰ってきた時の窓の月は、何故か満月! ということに関して、これからしばらく考えて行きたいと思いますデス(つづく)


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