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しろくま 不定期日記


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●「不定期日記」●

 まほら伊那地球元気村 パパ's 野外絵本ライヴ          2006/08/28

●今週はまた、ずっと忙しいので、写真のみアップです。

   

   

   



   

   

   

   

   


           ■■「伊那のパパ's 絵本ライヴ」レポートへ行く ■■

 『定本 岳物語』椎名誠(集英社)               2006/08/25

●明日の午後、1時半から、伊那市・鳩吹公園「わんぱく広場」で、まほら伊那地球元気村「伊那のパパ's 絵本・野外ライヴ」を行います。大気の状態が不安定なので、昨日今日に続いて夕立が来そうな天気予報ですが、昼過ぎくらいまでなら、何とか持つんじゃないかなぁ。みなさん、ぜひ、いらして下さい。「絵本ライヴ」は、入場無料です。

■『続岳物語』椎名誠(集英社文庫)を読み終わったら、『岳物語』の方も読み返したくなった。ところが、何処を探しても見つからない。こういう時は、ネットで伊那市立図書館の「蔵書検索システム」を調べるのが一番だ。すると、東春近「ふれあい館」の伊那市立図書館分館に『定本 岳物語』椎名誠(集英社)があることが分かった。ここは水曜・木曜の2日間だけ開館している。で、休診にしている水曜日の午後に早速行って借りてきた。ついでに、まほら伊那地球元気村で、飛び入りで絵本を読んでもらうおとうさん向けの「暑い夏」にピッタシの絵本を何冊か調達した。

『定本 岳物語』は、『岳物語』と『続岳物語』を改訂し合本にしてあり、それぞれの「著者あとがき」に加え、長い長い「定本版・著者あとがき」が新たに書き加えられていて、たいへん読み応えがある。さらには、「岳物語」とぼく という、この本の主人公「岳クン」自身の文章まで収められているのだ。これがまた、なかなかにいい文章なのだった。

「椎名さんはまだ岳にステられていないの?」
 千葉の亀山湖に行ったとき、野田知佑さんがエイヤッと投網を打ちながらそんなことを言っていたのをこのごろ私はしばしば思いだすのだ。
 親というものはいつまでも子供の面倒を見ているような気になっているけれど、実際には子供は思いがけないほど早く自分の世界をつくり出していってあっという間に親ばなれしてしまうものだ、というのが野田さんの考えだった。(81頁)

■先日新聞を読んでいたら、30〜34歳男性の45%近くが、今でも親と同居しているというデータが載っていて、ビックリしてしまった。うちの息子たちは、二十歳過ぎたら、ちゃんと独立してくれるのだろうか? 「自分のことは自分でやれよな!」と息子から言われるくらいの自律精神を、ぼくは椎名誠さんのように息子たちにちゃんと教育できできるのかな。ちょっと心配になってきたぞ(^^;)

 『続 岳物語』椎名誠(集英社文庫)              2006/08/22

●まほら伊那地球元気村が、今週末に迫った。『地球元気村通信』から依頼された原稿の締切が今日までだったので、ぼくはちょっと焦っていた。で、先ほど四苦八苦しながら何とか原稿を書き上げた。思ったよりも、いい文章が書けたかなぁ(^^;;。それは、こんな文章です。


伊那のパパたちの「絵本ライヴ」(その3)

 ぼくの父は、映画『東京物語』で山村聡が演じていたような町医者だった。夜中でも、日曜日でも、急患があれば年中無休で往診に出かけた。それが当たり前の時代だったのだ。だから、年の離れた二人の兄たちは、父親に何処かに連れて行ってもらった記憶があまりないという。でも、三男のぼくは違った。父は日曜日になると、ぼくを車に乗せてあちこちよく出かけたのだ。11年前に亡くなった父にその真意を確かめることはできないが、自分が父親になってみると、当時の父の気持ちが何となく判るような気がする。

 子供はあれよあれよと大きくなってゆく。長男は10歳になった。小2の次男もこの半年でぐんと背が伸びた。あと10年もしないうちに、二人ともわが家から巣立っていってしまう。一つ屋根の下、親子水入らずでいっしょに暮らす期間というのは案外短いのだ。ぼくの父はそのことに気が付いたに違いない。

 父が死んだ翌年の夏、ぼくの長男は生まれた。父親になったぼくは、赤ん坊を抱っこしながら、親子でキャッチボールをしたり、本気でプロレスごっこに興じる姿を思い浮かべた。さらには、渓流に二人して黙って釣り糸を垂れ、夜にはテント横の焚き火を囲んで、少し日焼けした息子の顔を見ながら「わんぱくでもいい。たくましく育ってほしい」そう思っている自分をイメージした。教条的な父親にだけはなりたくないな、そう思っていた。大好きな椎名誠さんの『岳物語』に多分に影響されていたからだ。

 あれから10年が経つが、現実は理想通りにはゆかない。4の字固めですら息子にかけられないし、コントロールの悪いぼくの投球は、息子のグローブの1m上空を越えて行く。先日の尾白川キャンプでは、満足にテントも設営できなかった。格好悪い父親だった。次男は一生懸命、彼なりに慰めてくれた。思春期の手前にさしかかった長男は、ちょっと冷ややかな目でぼくを見上げた。彼が父親を越えて行く日も近いのかもしれない。『十五少年漂流記』を息子が寝る前に読み聞かせしながら、ぼくはふとそう感じた。

 この夏、『川の名前』川端裕人(ハヤカワ文庫)を読み終わり、カヤックで川下りする話を思い出し、久しぶりに『続岳物語』を手に取った。やはりこの本は傑作だ。既に椎名私小説の最新作『かえっていく場所』を読んでいただけに、しみじみしてしまう。そうだ、俺は野田知佑さんを目指せばよいのだ。伊那のパパ'sにはうちの息子たちの他に元気のいい男の子が5人いる。彼らの「モ・ノンクル」になろう! ちょっと不良な伯父さんにね。
そう思ったら、少し気が楽になった。


■ところで、8月26日(土)午後1時半から、伊那市・鳩吹公園の奥にある遊具施設の木陰で、今年も「伊那のパパ's」が絵本を読む。参加自由で無料です。地球元気村に申し込まなくても、われわれのライヴを見に来ていただいて、一向にかまいません(たぶん)。ですので、ぜひ、みなさん見に来てくださいね(^^;;)

 わが家の夏休み(その2)              2006/08/19

●午後11時50分、『川の名前』川端裕人(早川書店)読了。今日は第7章(p117) から読み始めたのだが、途中で止めることができなくなってしまい、ラストまで一気に読んだ。すっごく、面白かったな。そうか、『川の名前』って、そういう意味だったのか! カール・ハイアセン『フラッシュ』に続いて、ジュブナイルの傑作を読むこととなった不思議な因縁を感じる。しかも、夏休みが終わろうとしているこの時期にシンクロさせて読むことができたのは、じつに幸せだった。父親が土曜日の午後に、片時も本から手を離さないで読みふけっているのを見た長男(小4)は「そんなに面白いなら、その本、読んでみようかな」そう言った。しめしめ(^^)

          

■さて、夏休みの話の続き。富士見高原から、小淵沢リゾナーレ経由で甲斐大泉へ。「絵本の樹美術館」へ向かう。ここでは、いま「したきりすずめ」をやっている。この催しは、2001年のリプレイだそうだが、わが家は初体験だ。これまた細部までじつに細かく神経が行き届いて作られていて、感心してしまった。それにしても、「牛かた」がこの昔話に重要な役回りで登場していたとは、ぜんぜん知らなかったなあ。子供たちは、スズメよりも 牛方になりたがったよ。

ここで、以前から探していた『絵本があってよかったな』内田麟太郎(架空社)を購入。これはいい本だぞ!

   

■甲斐大泉の「絵本の樹美術館」のすぐ近くに、御宿「ん路湖」がある。というワケで、この日はまたまたこちらに宿泊。例によって、食べきれない量の夕食。周富徳の「海老マヨ」に始まって、酸っぱみのある中華タマゴスープ、豚肉の中華天ぷら、ジャガイモの千切りとアンチョビの塩胡椒炒め、ダイコンとシソの酢の物。自家製梅の箸休めに、定番のピータン味噌付き冷や奴、岩魚の塩焼き、デザートのバナナシャーベットがテーブルに並ぶ。そして、満を持して登場したのが、特製麻婆豆腐だ!。

これが美味かったな。ごはんにかけて食べたら、いくらでも食べられる。何年か前「こどもの心研修会」が都市センターホテルで開催された時に、オフ会が永田町「四川飯店」であって、陳健一が作る激辛麻婆豆腐を、やはりごはんにのせて、はふはふ食べた時のこと思い出したよ。

ちょうど1年前、「まほら伊那地球元気村」に参加した2日目の日曜日、わが家の家族は、東春近の野溝さんが講師を務めた「信大農学部・中国留学生が教える、本場の中国餃子と麻婆豆腐」に参加した。この時に教わった麻婆豆腐のレシピを、妻は今もとっても大切にしている。野溝さんはたしかこう言った。「中国には、辛いものに2種類あります。唐辛子で作る ラーの辛さと、麻痺・麻酔の漢字として使われている、山椒の実のシビれる辛さ『麻』です。この二つは全然違います。」と。

そうなのだ。麻婆豆腐の辛さは、山椒のシビれる辛さが決め手なのだ。「ん路湖」の奥さんに訊くと、この山椒の実も自家製なのだそうだ。写真は、少し取り分けした後撮ったので、盛りつけがきれいでないが、ほんとうにカラくて、旨かった。

さて、夜9時ティータイムのお楽しみは、愛玉子(おうぎょうち)と、焼きとうもうろこし、すいかのタネ、それに高麗人参入り烏龍茶だ。前回来た時には「その名」を忘れてしまった「おうぎょうち」だが、ゼリーのようでゼリーでない不思議な食感が楽しめて、感動的に甘く香ばしいトウモロコシとともに、満腹でもう何も入らないはずの胃袋に、すっと収まってしまった。

翌朝は、再度「絵本の樹美術館」に寄ったあと富士見高原に戻り、カントリーキッチン奥に新しくできたカフェでお茶して、ヨドバシカメラ研修センターでテニスを1時間。その後、リゾナーレのプールで遊ぶ予定だったが、連日ハードスケジュールの子供らはさすがに疲れてしまい、結局そのまま妻の運転で杖突峠を越えて帰宅。  

 わが家の夏休み(その1)              2006/08/17

●開業医の夏休みは、基本的に「お盆休み」期間にしか取れない。

今年の「お盆」は、8月14日(月)が当番医で、予想をはるかに上回るたくさんの患者さんで当院待合室はあふれた。正月3日の当番医に当たった時と同じくらいの混雑で本当に驚いた。プール熱(咽頭結膜熱)などの夏かぜの子供が多い。夜7時前になんとか終了して、タクシーで旧上伊那図書館前の「しみずや」へ急ぐ。高校の同級会が7時から始まるのだ。幹事はこのぼく。幹事が遅刻していちゃぁ、いけないよね。

8月15日は、境区の夏祭り。去年、公民館副主事だったので、今年も実行委員として午後2時から公民館に集まって夏祭りの準備。カラオケセットや金魚400匹を引き取りに行ったり、ヨーヨー釣りの風船を膨らませたり。夕方6時から夏祭りが始まれば、アイスクリーム売場を担当しつつ、隣で忙しい「綿あめコーナー」の手伝いをして、途中、生ビールで喉をうるおす間もなく働く。心配された夕立もなく、人出も多く各出店の売り上げも順調でよかったよかった。しかし、アイスクリームだけが売れ残ってしまった。ごめんなさい(^^;; 今年の副主事さんと9月の敬老会の相談をして家に帰ったら、よる10時過ぎだった。

●というわけで、今年のわが家の夏休みは、8月16日、17日(当番医の振り替えで休診にしたのだ)の2日のみ、ということとなった。で、いつもの「困った時は八ヶ岳方面」と、またまた相成った次第。いやはや(^^;;

   

当初、ヨドバシカメラ研修センターでテニスをする予定で出かけたのだが、珍しく午後3時までコートは全て予約でうまっていた。仕方ないのでテニスをあきらめ、富士見高原スキー場の「ゆりの里」へ。ぼくが富士見に住んでいた10年前にはやってなかったのに、まぁ、よくたくさん、あんなに植えたね、ユリ。それから、スキー場の奥に、あんな白樺林があったとは! 知らなかったぞ。(つづく)

             

 8月15日に               2006/08/15

●先だって、NHKスペシャルで放送された『硫黄島 玉砕戦 〜生還者 61年目の証言〜』は、想像を絶する凄惨な話で、見ていて本当に辛かった。人と人とが当たり前なこととして手段を選ばずに殺し合う「戦争」というものを、人間はどうして発明してしまったのだろうか? "Why are the people so cruel ?" 先週の火曜日のよる、伊那シネマクラブ8月例会で観た『ホテル・ルワンダ』の中で、主人公のホテル支配人ポールに対して、ベルボーイ長が こう訊くシーンがあった。この映画も、凄まじかったなあ。いまからたった12年前、中央アフリカの小国ルワンダで実際に起こった事実なのだから、じつに怖ろしい話だ。

この時、ルワンダのツチ族の人たちは、3カ月で100万人が虐殺されたという。一方、『日本という国』小熊英二(理論社)の80頁によると、61年前の太平洋戦争での日本人の戦死者の数は、「死亡したのは、戦闘で死んだ軍人および空襲などで死んだ民間人などをあわせて、約310万(民間人のうち沖縄が臨時に軍に動員された人をふくめて約15万、広島と長崎の原爆で約30万以上)。これは当時の日本の人口の約4%にあたる。そのほか、約1500万人が空襲などで家を失った。」と書かれている。

■もしも太平洋戦争が半年早く終わっていたら、310万人の戦死者の数はもっとずっと少なくなったはずだ。昭和20年2月の硫黄島玉砕もなかったし、フィリピンやニューギニアなどの南方戦線で餓死同然で死んでいった兵隊さんたちも生きて日本に帰れたかもしれない。3月10日の東京大空襲で命を落とした10万人の民間人、4月からの沖縄戦、8月の広島と長崎の原爆投下、ソ連参戦と満州からの引き上げ、シベリア抑留と、みんな死ぬ必要がなかったはずなのだ。

歴史に「イフ」は意味がないのかもしれないが、今日はちょっと、そんなことを考えてしまった。

 「昆虫酒場」               2006/08/12

●「戸田杏子」さんで検索していたら、「昆虫酒場」という言葉が目に入った。なんだ? と思って見に行くと、動物写真家の宮崎学(がく)さんのサイト内にある「森のライブカメラ24時間中継中」だった。これはスゴイね、面白いねぇ。いまこれを書いているのは、8月13日早朝で、ライブカメラには、さっきまで旨そうに一杯やっていたヒラタクワガタが写っていたのだが、じゅうぶん満足したのか、たった今、下手へ退場していった。「目撃情報」をクリックすると、いろんな虫がやって来ているのがわかる。

■宮崎学さんは、あの「キツネ目」の宮崎学氏とはまったく別人の動物写真家で、この伊那谷に住み、南アルプス山中の「けものみち」を往来する野生動物の姿をカメラに収めている人だ。詳しくは、「宮崎学(がく)写真館 森の365日」をごらんください。

 白州・尾白の森でキャンプ               2006/08/07

●8月5日(土)6日(日)と、山梨県北杜市白州町の尾白の森キャンプ場に出かけた。テント持参のキャンプは、去年の8月末「まほら伊那地球元気村」以来のことだ。土曜日の診察終了後、午後3時前に自宅を出て、4時過ぎにはキャンプ場に到着した。出発前、キャンプ装具一式を車(マツダ4WD・トリビュード)に詰め込んだら入り切らなくて、仕方なく後部座席の床にテント、椅子、フロアマット、ダッチオーブンを置いて、子供たちには靴を脱いで胡座で坐ってもらい、1時間をなんとか耐えてもらった。車庫の入口の屋根の高さの関係で、車のルーフにボックス型のキャリアーを装着できないのだ。これ以上荷物が増えると、どうにもならないぞ。

尾白の森キャンプ場は、尾白川右岸の林間にバンガローが数十棟散在する大きなキャンプ場で、その東側の林間にオートキャンプのサイトがある。もう少し上流に行くと、べるが名水公園が広がっている。この日は、バンガローもオートキャンプ場もほぼいっぱいで、子供たちの団体が何組も来ていた。でも、オートキャンプの区画はかなり広く取ってあるので、あまり窮屈な印象はなかったな。全国的にこの夏一番の猛暑の1日だったが、雑木林の中のキャンプサイドは、吹き抜ける風もさわやかで、思いのほか涼しく快適だ。

テントの設営は一年ぶりだったので、すっかり忘れてしまっていた。妻のほうがよく分かっていて、あたふたする僕を隣のサイトのファミリーがじっと見ていたが、格好悪かったなぁ(^^;) 夕食は、BBQ。夕食後の夜8時半、虫取りに出発。幸運にもノコギリクワガタの雄と、カブトムシの雌をゲットできて、子供たちは大喜び。夜10時には場内に消灯のアナウンスが流れて、みんな明かりを消して静かに眠ってしまった。遅くまで騒いでいるグループはまったくいなかった。オートキャンプ場って、どこもそうなのか?

●翌朝は4時半に起きて、再度虫取りに出発。しかし1匹も発見できず。朝食は、昨夜の残りの焼きおにぎりと、ダッチオーブンで「パンプディング」を焼く。食パン1斤、牛乳500ml、卵5個、バニラエッセンス、砂糖(適量:今回は持っていくのを忘れてしまった)をミックスして、弱火で30分。

   

■チェックアウトは午前10時だったが、デイキャンプ料金を追加して夕方までゆっくりすることにした。朝食の後は、歩いて5分で行ける尾白川堰堤 で川遊び。まだ早い時間帯だったので、僕らの他には誰も来ていなかった。澄み切ったきれいな水には小さな魚やオタマジャクシがいたよ。

  

  

■昨日の残り物で昼食。散歩のあと、のんびり撤収作業を済ませ、キャンプ場北側に4月末に新しくオープンしたばかりの温泉「尾白の湯」へ汗を流しに出かけた。やはり歩いて5分。キャンプ場のすぐ近くに日帰り温泉があるといいねえ(^^)

 さよなら 戸田杏子さん               2006/08/04

●福音館書店の元編集者で、タイ料理研究家、日本各地・世界各国の動物園愛好家。そうして、動物細密画家であった薮内正幸さんの奥様であり、薮内正幸美術館の館長でもあった戸田杏子さんが、先月7月29日、卵巣ガンのため亡くなられた。享年65。まだまだ若いのになぁ。4月30日に、薮内正幸美術館でお会いした時には、体力も回復されてずいぶんとお元気そうだったので、安心していたのに、ほんとうに残念です。

その時は、長坂図書館で「伊那のパパ's」が絵本ライヴを行った話をして、長坂図書館の輿水さんから、お土産に白州金精軒の「大吟醸かすてら」をいただき、それを坂本さんが「こんなに旨いカステラは、未だかつて食ったことがない!」と、その後わざわざ再び金精軒までカステラを買いに出かけた、というようなことを話した。そしたら戸田さんは「へぇー、坂本クン、カステラそんなに気に入ったんだ。今度来たら、御馳走してあげようか」たしかそう言った。「坂本クン」って先輩口調で言うのが、なんだか可笑しかった(^^;)

■児童文学者の今江祥智さんが、福音館書店に就職した当時のことを回想した文章を読んだことがあるが、当時の福音館書店には、縁の下の力持ち的な役割で、松居直氏を影で支えた優れた女性編集者が2人いた。一人は、後に堀内誠一婦人となる、内田路子さんであり、もう一人が戸田杏子さんだった。

戸田杏子さんには、もっともっと、いろいろとお話を伺いたかったな。当時の福音館のこと、『いやいやえん』や『エルマーのぼうけん』の編集のこと、動物園のこと。それから、薮内正幸さんのこと。

戸田さんは、きっといま、大好きな「ヤブさん」といっしょに、天国からぼくらを見守ってくれているに違いない。

慎んでご冥福をお祈りいたします。

 『十五少年漂流記』(その3)            2006/08/01

●ニュージーランドのチャタム島は、南島から東へ 840km 離れた絶海の孤島だ。衛星写真で見ると、千葉県みたいな形だね。

  

 島は、蝶が羽をひろげたようなかたちをしていた。中央部がくびれていて、北をのぞく東、南、西の各海岸線には、湾がはいりこんでいる。島のまんなかに、森林にかこまれた湖水がある。長さ三十キロ、幅八キロくらいはある広大な湖だから、ブリアンたちが西岸にたどりついたとき、むこう岸が見えず、海とかんちがいしたのもむりはなかった。

 湖からは、数本の川が流れだしていた。そのうちの一本は、洞穴のそばを流れて、スラウギ湾へとそそいでいる。
 島で高いところはただひとつ、スラウギ湾の北に見える岬だけだった。島の北部は砂地、南部は湿地だ。島の大きさは、地図の下に記されている縮尺で計算すると、南北約80キロ、東西約40キロ、周囲およそ240キロということになる。

『十五少年漂流記』志水辰夫・文(講談社)p84 より。


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