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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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●「不定期日記」●

 映画『フラガール』は、なぜダメなのか               2007/02/25 

■伊那シネマクラブの2月例会として、2月13日(火)の夜7時から伊那旭座で『フラガール』が上映された。連休明けの火曜日だったから、12月、1月に続いて今月も見に行けないかと最初からあきらめていたのだが、まだインフルエンザは流行ってなかったから、午後の診察は奇跡的に6時45分に終了した。あわてて着替えて車に乗り、伊那市立図書館に車を置いて旭座まで走った。必死で走ったのだが、映画はすでに始まっていた。しかも、何時になく館内は満員じゃぁないか。

スクリーンでは、セーラー服の蒼井優と徳永えりが土手に坐って福島弁でしゃべっていた。フイルムのカラーがちょっと埃っぽいようなくすんだ色合いを出している。あぁ、炭坑なんだなと思った。この映画は、まだ30代の若い映画監督が撮ったとは到底思えない、昭和40年の東北を舞台とした、笑いと涙にあふれる山田洋次的、松竹映画的「昔はよかったな」映画だ。構造的には『ALWAYS 三丁目の夕日』と同じなのだが、映画作品のレベルとしては『フラガール』の方が数段抜きん出ていた。ホン(脚本)がよくて、役者がよくて、カメラがいい。久しぶりに「映画的カタルシス」が味わえる映画であった。

随所に泣かせどころが用意されている。もうベタで見え見えなんだけれど、やっぱり涙が出てしまった。(ちょいとネタバレになるが)徳永えりの転出シーン。夜の駅のホームでみんなでフラダンスを踊る場面。南海キャンディーズ「しずちゃん」の演技。ストーブを集めて廻る富司純子の凛々しさ。それから、映像的緊張感が見事な、松田泰子のソロダンスのシーンと、後半でまったくおなじ振り付けで踊る蒼井優のソロダンス。そうして、ラストの一糸乱れぬ迫力の群舞。蒼井優のキラキラした笑顔が印象的なことといったらなかったね。

■これだけ褒めているのに、でも『フラガール』はやっぱりダメな映画なんじゃないかと、ぼくは思った。すっごく矛盾しているが、それが映画を見終わって感じた正直な気分だ。

なぜダメなのか? それは、この映画が「いま」作られなければならない必然性を、まったく感じられなかったからだ。もっと個人的に言えば、この映画を見終わったぼくが、明日からの日々に何か引っかかるものを「この映画」から引きずって行くかというと、たぶん何も引っかかりはない、ということなのだ。同じ炭坑を扱っていても、例えばカナダの小説家アリステア・マクラウドの小説に登場する男たちは、ずんずんぼくの心に迫って来る。彼らは、いま書かれ、いま読まれるべき必然性を持っていたからだ。同時代性というのと違う、例えば小津安二郎が繰り返し描いた離散する家族の哀しみみたいな、国も民族も時代も違っても、「いま」リアルに「ずん」とくるものを、ぼくは『フラガール』からは残念ながら感じられなかったということだ。

上手く言えないので、今日はこれでおしまい。ごめんなさい。

 『メイメイ家族となかまたち』 長野県立伊那小学校3年秋組(その3)2007/02/23 

■前説が長くなりすぎたが、ここでようやく本題。 こちらが、最近「中日新聞・地方版」に載った記事。


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■伊那のパパズのメンバーである倉科さんの長男、弦矢くんが伊那小3年秋組だったことから、ぼくはこの『メイメイ家族となかまたち』のことを知った。でも正直、本が出来上がるまでは「ガリ版刷りの小学生の文集」程度のものを想定していたのだ。ところが、実際の本を手にして驚いた。凄いじゃないか。読みだしたら引き込まれてしまって、秋組の子供たちといっしょになって、山羊のメイちゃんと出会い、3年間過ごしたような気分にひたれたのだ。

本の構成がじつによく考えられていて、文章もしっかりとよく練ってあるので、たいへん読みやすい。なるほど、こうやって伊那小「秋組」の子供たちは日々勉強をしてきたんだな。すごくよくわかった。本当に、すごくよく分かったのだ。伊那小の総合学習はこういうふうに行われていたんだね。

■全ての始まりから、この本を出そうという提案まで、秋組の子供たちが主体で動いていることに、まずは驚かされる。そこには、たぶん担任の先生の目には見えない誘導があったのかもしれないが、基本的には先生は縁の下の力持ち的役割で終始する。決して、上からの押しつけではないのだ。

子供たちは、まずヤギを飼うための柵(牧場)を作り、ヤギが寝起きする小屋を作り、日々の世話を始める。桑の葉や干し草を餌に用意し、ウンコやおしっこを観察してヤギの健康状態を注意深くチェックする。ヤギはよくお腹をこわすし、鼓腸症や日射病や腰マヒなど、怖い病気がいっぱいあるからだ。

そのウンコは、クラスで管理する畑や田んぼの肥料となって、餅米や大根、ジャガイモがたくさん収穫される。大根の葉っぱはそのままヤギの餌となり、大根は甘酢漬に、ジャガイモはコロッケやジャガバターに加工される。それから、ヤギの乳から作ったバターやチーズでクッキーやケーキを焼き、それらを「PTA バザー」で売って、そのお金をヤギたちの餌代や獣医さんへ支払う医療費にあてるのだった。子供たちの活動が、ヤギを中心として全てが巡り巡って関連づいていることに驚かされる。あ、そうか、『ペレのあたらしいふく』ベスコフ(福音館書店)といっしょだね(^^) 人間の日々の営みとはこういうことだったのだ。そういう「世の中」のことを、伊那小秋組の子供たちは「体験・体感」して、自分の脳味噌に刻印してゆくのだ。なるほどなぁ。

そうこうするうちに、メス山羊のメイちゃんの赤ちゃんが欲しいという意見がクラスででる。グリーン・ファームからオス山羊の「メイすけ」が借り出されて、種付けが行われる。はたして赤ちゃんはできたのか? どうやって確認すればいいか? メイちゃんの体重変化を調べればいいんじゃないか? じゃぁ、どうやってメイちゃんの体重増加を調べる? 先生がヤギを抱っこしたまま体重計に乗り、その後で先生だけが体重計に乗って測って、引き算すればメイちゃんの体重が判るよ! なるほど、算数はこうやって実用価値があることを子供たちは学ぶのだな。

このメイちゃんの出産場面は、本当に感動的だ。秋組の子供たちの反応に驚かされる。みなが何故か泣き出してしまうのだ。赤ちゃんの誕生という、こんなにもうれしい事態に立ち会った子供たちが、何故泣き出してしまったのか? これはとても重要な意味が潜んでいるような気がしてならない。「いのち」の誕生という現場に、奇跡的に立ち会うことができた子供たちにとって、生まれてくる赤ちゃんにとっても、産み落とす母親のメイちゃんにとっても、「この世の生まれいずる」ということは、ものすごく大変なことなんだ、と体感できたからなのだと思う。きっと。

■この本は、できるだけ多くの「おとな」の人たちに「ぜひ」読んで欲しいと思う。日本の教育に関して、どうこう言おうとは決して思わないが、こういう教育が確かに存在するということも、ぜひ日本中の人たちに知って欲しいのだ。

■さて、本は出来上がった。2月も終わり、もうじき3月の終業式がやってくる。4月になればクラス替えだ。3年秋組の子供たちは、はたして、いったいどうやって「メイメイ家族」とお別れの決着をつけるのであろうか? ぼくはそのことが気になってしかたがない。

 『メイメイ家族となかまたち』 長野県立伊那小学校3年秋組(その2)2007/02/22 

『なぜ勉強させるのか?』諏訪哲二・著(光文社新書)は、なかなかに面白い。読みながらいろいろと考えさせられる。
 さて、2章で述べたように、文科省の「ゆとり・生きる力」派は、内容を三割削減して子ども(生徒)たちに余裕を持たせ、基礎・基本と呼ぶ教科の中核をしっかりと確保しつつ、「総合的な学習」を重視して子ども(生徒)に自らテーマを選ばせ、教師が主導的に指導しるのではなく、子ども(生徒)たちの「学び」を支援することによって、彼らを科学や真理の「知」へ向かわせようとした。(71頁)


<『論座』2005年 12月号「どうすれば公教育は甦るのか」から、東京都杉並区立和田中学校校長・藤原和博氏(もとリクルート部長)の発言>

 僕は2年前に教育現場に入ってみて、百八十度考えが変わりました。学校って生活指導という部分が絶対に欠かせない。学習に向かう態度みたいなものをきちっとさせたうえでないと、基礎学力も応用力もつかない。子供たちは自分に関係する人からしか学ばないです。関係が深い人から多く学ぶというシンプルな原則で動く。あるいは、体育大会とか学芸発表会とか、行事を通じていろんな人間関係のとり方を学ぶ。好きなやつとばっかりじゃなくて、嫌いなやつとどうつきあっていくのか。そういう距離感みたいなものを学んでいる。僕は塾を否定しませんが、そこは、塾にはない、学校の非常に大きな機能だと思っています。(105頁)
■学校とは、子供たちにとってどういう場所なのか? 担任の先生とは、子供たちにとってどういった存在なのか? この本を読んで「なるほど!」と思った。内田樹センセイの著書『先生はえらい』(ちくまプリマー新書)のタイトルどおり、先生はえらいのだ。いや、少なくとも、子供たちを「そう」暗示にかけないことには学校教育は成り立たないのだな。

■文科省の「ゆとり・生きる力」教育を推進するスポークスマンだった寺脇研氏は、いまどうしているのだろうか? ふと、思ったりする。

■さて、伝統ある伊那小の総合学習の事例として世間で有名になったのは、伊那小6年春組の仔牛「ローラ」の飼育だ。1980年代末に、テレビ朝日の看板番組、久米宏の「ニュース・ステーション」の中で数回に渡って特集で放送され、さらにその春組の「その後の経過」を、『誰も知らない』『ワンダフルライフ』の映画監督、是枝裕和氏が取材を続け、『もう一つの教育〜伊那小学校春組の記録〜』 (91)というドキュメンタリーに仕上げている(ぼくは未見だが)。

ぼくは同じ伊那市民として、伊那小の教育理念は理解したいとは思うのだが、如何せん、その「伊那小的総合学習」というものを具体的には全くイメージできないでいた。何故なら、天竜川よりも東側に住むわが家の息子たちは、伊那小ではなくて、いい意味でも悪い意味でもオーソドックスな教育方針の伊那東小に通っているからだ。(まだまだ、つづく)

 『メイメイ家族となかまたち』 長野県立伊那小学校3年秋組(その1)2007/02/21 

■高校の同級生や、小児科の先輩と話をしていて必ず話題になることは、最近健診で指摘された自分の尿酸値やコレステロール値のことと、子供の教育に関する話だ。特にこの時期は、高校受験や大学受験で親はピリピリしている子供に気を使って大変だという。わが家はまだ息子たちが小学生なので、その緊張感を実感できないでいる。そうは言っても、わが子の教育問題はわが家においても夫婦間の最重要課題であることは間違いない。

■内田樹センセイの最新刊『下流志向』(講談社)は未読だが、内田センセイが以前から度々引用する『オレ様化する子どもたち』(中公新書ラクレ)の著者の最新刊『なぜ勉強させるのか?』諏訪哲二(光文社新書)を、今日の午後 TSUTAYA で見つけて買ってきたのだが、う〜む、教育問題は本当に難しいなぁ。子を持つ親としては、日本の教育をどうしたらよいのか?という「一般論」と、諏訪氏が言う「教育のわが子問題」=「教育の超私事化」(自分家の子供だけが勉強が出来てくれれば、それでよいという考え)の間で、振り子のように気持が揺れ動いてしまうのが正直な気持だ。
 実は「ゆとり」か「学力向上」かの教育論議において、根底(無意識)のところで争われていたのは、「子どもを社会に合わせる」(「学力向上」)か、「教育を子どもに合わせる」(「ゆとり・生きる力」)かの難問だった。
 もちろん、「子どもを社会に合わせる」という発想は、人類史的に考えて正しい公理である。それに対して、「教育を子どもに合わせる」という発想は、子どもを社会化する公理を前提にして、初めて妥当する公理であろう。なぜなら、「社会化」を押しのけて「個性化」は主張させるべきではないからだ。
「学力向上」は、まず子どもが学ぶべき「知」や学問があるということが前提されている。「ゆとり・生きる力」教育は、まず子どもがいて、その子どもが自らの興味・関心・能力に応じて「知」や学問の世界に入っていくという構図になっている。(『なぜ勉強させるのか?』p58〜p59)
■文部科学省が理想として掲げた「ゆとり・生きる力」は今や全てが否定され、学校教育は「学力向上」が至上命題となってしまった感があるが、いやいやどうして、まず子どもがいて、その子どもが自らの興味・関心・能力に応じて「知」や学問の世界に入っていく構図の教育を、今も頑なに固持して実践している小学校がある。それが、総合学習の聖地(メッカ)長野県立伊那小学校だ。

伊那小には昔から「通知票」がない。検索したら「こんな学術論文」が見つかった。伊那小の教育実践の歴史に関する総説だ。この論文によると伊那小独自の総合学習実践の歴史は古い。

●伊那小学校実践略史

(参考文献)
・宮崎総子・小松恒夫『羊も鳩も、ぼくらの教科書』(新潮社 1988年 以下、「A」と略記)
・小野牧夫「伊那小学校(長野県)の総合学習の現代性」(前掲 以下、「B」と略記)

  1956年  通知票を全廃
       ☆酒井源次氏は、この当時に伊那小の教員だった。(A・P.26)
  1976年  酒井源次校長赴任(B・P.316)
      文部省指定研究「ゆとりあるしかも充実した教育のための教育課程」 (B・同)
  1977-78年 県教委指定研究「幼保小の一貫した教育課程」 (B・同)
  1977年  授業の区切りのチャイムは廃止 (A・P.26))
  1976-77年 総合学習の試行期

☆1977年度は1年の2学級だけが選ばれて、教科書にも時間割にもとらわれない学習を試行。
担任は三輪忠幸教諭と溝上淳一教諭 (A・P.25)
1978年  低学年の教科別授業を廃止し、「総合学習」実施 (酒井源次校長) (A・P.20)
  1982年  大槻武治教諭(1978年度に附属長野小学校から転入/1983年県教委指導主事として転出)が「ポチのいる教 室」(1年生)を実践。これ以後の典型に。それ以前にもウサギ、アヒル、ニワトリ、チャボ等の飼育活動は あったが、犬という動物を中核に据えた総合学習はこれが最初。 (A・P.24/P.29)
  1984-86年 文部省教育研究開発校 (B・P.315)
  1998年  校長提案により、前年度までの「クラス替えなし」から、「3→4年時にクラス替え」に変更。これにより低 学年の動物飼育は3年までとなる。(2000年2月公開学習指導研究会の研究協議で報告者がメモした情報)

(「伊那小学校の総合学習・総合活動に関する研究(その1)」三重大学教育学部  佐藤年明  より引用)
授業の開始と終了を告げる「チャイム」が廃止されたのが1977年で、同年より1、2年生の「教科書も時間割もない」総合学習が始まったとある。当初から様々な試みが各クラスごとに実践されてきたが(前述の論文参照)、動物をクラスで飼って皆で世話をする中で、子供たちが自ら学ぶ必然性に気づく、という実践方法が生まれたようだ。動物を毎日世話するために、クラスの子供たちは、日々の話し合いの中でその幼い頭脳を彼らなりに最大限高速に回転させる必要があった。そこには、算数も必要だったし、国語も必要だったし、社会も理科も音楽も図画工作も必然的に必要だったのだ。(つづく)

 東京は今日も雨だった                 2007/02/18 

■2月17日(土)18日(日)に、文京区本駒込にある日本医師会館で「医療情報システム協議会」があって、久しぶりに単身上京した。ぼくは上伊那医師会の医療情報伝達委員会の(名ばかりの)委員長なので、この会議はどうしても出席しなければならなかったのだ。でも、土曜日の診療後に家を出ると、東京着は早くても夕方になってしまうので、会議は日曜日だけしか出られない。そうは言っても、日曜日は午前9時から始まるので日帰りは無理。で、土曜日の午後、茅野駅2時半発の「あずさ」に乗って新宿へ向かった。

この日の宿は御徒町のビジネスホテルを取った。なぜかと言えば、上野鈴本演芸場の寄席で落語を聴きたかったからだ(^^;;

鈴本演芸場は初めてだったが、キレイな建物だね。中へ入ると、客席には若いお姉ちゃんたちがお友だちと見に来ていたりして、案外客層が若いんで驚いた。前回、国立演芸場で聴いた時には、うるさそうなジジイと、コアな落語ファンばかりだったのに。この日の演者と演目は以下のとおり。渋い人ばかりだったが、実力派ぞろいで聴き応えがあったよ。

・柳家喬之助  「元犬」
・鏡味仙三郎社中 太神楽曲芸
・柳家さん若  「堀の内」
・橘家圓太郎  「桃太郎」
・柳亭左龍   「棒だら」
・大空遊平、かほり 「漫才」
・柳家小袁治  「金明竹」
・五街道雲助  「強情灸」
・ホームラン  「漫才」
・古今亭菊之丞 「片棒」
・伊藤夢葉   「マジック」
・柳家さん喬  「福禄寿」

■古今亭菊之丞さんは、国立演芸場でも聴いたが(この時は「たちきり線香」)この人には華があるね。見た目もちょいと歌舞伎役者みたいだから、なよっとした若旦那が登場する噺が上手い。でも、赤螺屋ケチ兵衛の次男、竹次郎みたいな奔放で豪快な江戸っ子を演じさせても、じつに上手いねぇ。感心した。トリは柳家さん喬さん。この人は初めて聴いた。しかも、三遊亭円朝作の珍しい人情噺「福禄寿」をたっぷりと。最近、NHK教育の「日本の話芸」でも放送されたそうだが、ぼくは初めて聴いた。

あの、柳家喬太郎さんの師匠なのだが、ぜんぜん芸風が違うんだね(^^;) この人は声がいいな。雪の情景描写がすばらしい。また、ぜひ生で聴きたい人だ。

■日曜日は、朝からずっと協議会。あんなに土砂降りだったのに(東京マラソンは大変だったろうね)、午後には雨も上がって青空がのぞいた。午後4時前に会場を後にして、地下鉄「南北線」に乗って溜池山王で乗り換え、銀座で下車。改装中の山野楽器で落語のCDを物色してから、教文館6F「ナルニア国」へ。伊那小学校3年秋組が今月自費出版した『メイメイ家族となかまたち』を「ナルニア国」で取り扱っていただけないかどうか訊いてみたのだが、やはりダメだった。でも、取りあえず1冊置いてきた。読んでもらえたらうれしいな(^^)

 『意味がなければスイングはない』 村上春樹 / 文藝春秋(その3)  2007/02/16 

■しつこくシダー・ウォルトンのはなし。昨日、LP『ナイト・アット・ブーマーズ』をここ20年近く聴いたこともなかったと書いたが、それは間違いだった。先月だったか、「JAZZ CAFE BASE」へ寄ったとき、『ナイト・アット・ブーマーズ vol.1 A面』がスピーカーから鳴っていたのだ、そう言えば。「おぉっ!何だコレは?」と思って、レコードジャケットを見に行ったら「コレ」で、でも確かぼくも持っていたよなぁ? と思ったはずなのだ。検索してみたら、このCDはいま廃盤で入手困難みたいだぞ。それから、この章にジャケット写真が載っている、East Wind 盤『 Pit Inn』は、ぼくも持ってなかったので、さっそく Amazon へ注文した。だって、やっぱり聴いてみたいじゃん。なんか、まんまと村上さんの術にハマってるね(^^;; 

■この本に関しては「こんな解説」もあったが、ほとんど解説になってないよなぁ。


■ところで、ぼくが個人的に最も興味深く読んだのは、ブルース・スプリングスティーンのパートだ。ロック全般には興味がなかったぼくでさえ、何故か『ボーン・イン・ザ・USA 』のCDは持っている。当時、それくらい売れたんだね。でも、ぼくもロナルド・レーガンと同じく、単なるマッチョなアメリカンと誤解していた。この本を読んで「えぇっ! そうだったの?」と驚いた。アメリカのワーキング・クラス出身者としての、ブルース・スプリングスティーンと、レイモンド・カーヴァー。そういうつながりがあったんだ。

そしてまたひとつには現実問題として、ニューディール政策の影響を色濃く受けたスタインベックの世代を最後にして、ワーキング・クラスの生活を真摯に描こうとする芸術家が、ほとんど現れなかったという事実がある。そのような動きは、50年代前半にアメリカを席巻したマッカーシーイズムによって、徹底的に壊滅させられてしまった。(121頁)
そうして、この主題は最終章の「ウディー・ガスリー」のパートへ引き継がれてゆく。
しかしガスリーが一貫して持ち続けた、虐げられた人々のための社会的公正= sosial justice を獲得しようとする意志は、そしてそれを支えたナイーブなまでの理想主義が、多くの志あるミュージシャンによって継承され、今日でもまだ頑固に----意外なほどと言ってもいいだろう----その力を維持し続けている。(271頁)

ジョン・スタインベックはウディー・ガスリーについて、このような文章を残している。

「(中略)ウディーにスイートなところはない。彼の歌う歌にもスイートなところはない。しかし彼の歌に耳を傾ける人にとっては、もっと大事なものがそこにある。圧迫に耐え、それに抗して立ち上がろうとする意志が、そこにはあるのだ。それをアメリカ魂と呼んでもいいだろう」(273頁)

 『意味がなければスイングはない』 村上春樹 / 文藝春秋(その2)  2007/02/15 

■10章からなるこの本で、ジャズマンで取り上げられているのは、たったの3人。これは意外だった。村上さんは、『ポートレイト・イン・ジャズ1,2』和田誠・村上春樹(新潮社)で、あれほど思い入れたっぷりの文章を書いているのに。しかも、その3人がシダー・ウォルトン(p) と、スタン・ゲッツ(ts) と、ウイントン・マルサリス(tp) だったんで、もっとビックリした。

スタン・ゲッツはね、わかるよ。前述の『ポートレイト・イン・ジャズ』の「スタン・ゲッツ」の項には、こんなふうに書かれている。
 僕はこれまでにいろんな小説に夢中になり、いろんなジャズにのめりこんだ。でも僕にとっては最終的にはスコット・フィッツジェラルドこそが小説(the Novel)であり、スタン・ゲッツこそがジャズ(the Jazz)であった。(p26〜28)
それなのに、この本の巻頭を飾るのがシダー・ウォルトンとは驚きだ。なんでこんな地味な人がいいの? しかも、村上さんは現役のジャズ・ピアニストの中で彼が一番好きだと言い切っている。たぶん、ぼく以外のジャズファンもきっとビックリしただろうし、クラシック・ファンの人が、この本の3番目に登場するシューベルト「ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」に驚いたのと同じくらいの、確信犯的なイジワルを村上さんは楽しんでいるみたいだ。

ただ一つ言わせてもらえば、クラシック・ファンで「シューベルト、ピアノ・ソナタ第17番ニ長調」を聴いたことがない人は多いかもしれないけど(もちろん、ぼくも聴いたことない)、ジャズ好きでシダー・ウォルトンのピアノを聴いたことがない人はいない。ぼくもこの本を読んでから、あわててレコード棚の奥の方をガサコソ漁ってみたら、本に出てくるLP『ナイト・アット・ブーマーズ』も『サムシング・フォー・レスター』も『イースタン・リベリオン』も、既にちゃんと所有していた。でも、ここ20年近く聴いたこともなかったのだ(レコードでしか持っていないせいもある)。今回じつに久々に聴いてみたのだが、なかなかいいじゃんとは思ったものの、やっぱり一番いいとまでは思わないな。

確かに、シダー・ウォルトンがいわゆる「ミュージシャン's ミュージシャン」であることは間違いないのだが、ジャズを知らない「村上春樹ファン」が、「やっぱ、ジャズピアノなら、シダー・ウォルトンが知る人ぞ知るって存在よね!」なんて、知ったかぶりするのは、とうてい我慢できない。でもまぁ、そんなスノッブな人はいないか(^^;;

■さらにまいったのは、ウイントン・マルサリスだ。ぼくはこの人が嫌いで、CDは1枚も持ってないし、LPだって『Jムード』1枚しか所有していない。このLPだって、盲目のピアニスト、マーカス・ロバーツが好きで購入したようなもんだ。兄ちゃんのブランフォード・マルサリスのLPは3枚あったし、ブランフォードがサイドメンで参加したLP、CDは、スティングのリーダー作をはじめ10枚近く持っている。でも、ウイントンはね、ダメなんだ。なんかこう、生理的に受け付けない。村上さんは、ウイントンのことをあーだこーだ散々悪口を言いつつ、いまもずっと彼の音楽をフォローし続けているわけだから、結局は、ウイントンのことが好きなんだろうな。趣味が合わないと言ってしまえばそれまでだが、なんかちょっと悲しかった。(さらに続く)

 『意味がなければスイングはない』 村上春樹 / 文藝春秋(その1)  2007/02/14 

■村上春樹が書く文章は、読んでいてとても気持ちがいい。心地よいのだ。だから、いつまでもその文章に浸っていたい気分になってしまう。ある種、麻薬的な依存性があるのだな。『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』と彼は書いているが、いやもうすでに、彼の文章は「ウィスキー」であり「音楽」であるとぼくは思う。
 スガシカオの音楽を初めて耳にしたとき、まず印象づけられたのは、そのメロディーラインの独自性だったと思う。彼のメロディーラインは、ほかの誰の作るメロディーラインとも異なっている。多少なりとも彼の音楽を聴き込んだ人ならおそらく、メロディーをひとしきり耳にすれば、「あ、これはスガシカオの音楽だな」と視認(聴認)することができるはずだ。こういう distinctiveness(固有性)は音楽にとって大きな意味を持つはずだと僕は考える。(中略)

 ちょっと聴いたら「あ。これはポールだ」「これはスティーヴィーだ」ってすぐにわかりますよね? つまり彼らの音楽には、メロディーラインとかコード進行とかに、個人的イディオムのようなものが盛り込まれており、それがシグネチャーの役割を果たしているわけだ。

 そしてその結果、ひとつのトラックの中に、うまくいけば一カ所か二カ所くらい、「おっ!」と思わせられる固有の音楽的ツイスト(テンション)が作り出されることになる。こういうツイストは優れた音楽にとって、おそらくなくてはならないものだ。そしてそれはときとしてリスナーの神経系に、一種の麻薬的な効果を及ぼすことになる。たとえばモーツァルトのある種の転調もそうだし、エロール・ガーナーのビハインド・ザ・ビートのブロック・コードもそうだ。そういうその人ならではの心地よいテイストにいったん病みつきになると、なかなかそこから離れられない。下世話な言い方をすれば、ヤクの売人がカスタマーに注射を一本打っておいてから、「どや、兄ちゃん、よかったやろ? クーっとくるやろ? また今度お金もっておいで」、みたいなことになってしまうわけだ。
(『意味がなければスイングはない』「スガシカオの柔らかなカオス」 p200〜201 より)
■ウィスキーの味わいを文章で表現するのも大変だが、その音楽を自分がどういうふうに聴いてきたかを文章で他人に説明するのは、もっとすごく面倒くさいことだ。でも、それを村上さんはいとも簡単にやっちゃうんだから、ほんと参っちゃうね。しかも、この文章を読んでいると、ぼくが聴いたことがない「その音楽」を、是が非でも聴きたくなっちゃうんだからたまらない。例えば、ブライアン・ウィルソンの『サンフラワー』と『サーフズ・アップ』や、ルドルフ・セルギンがピアノを弾くベートーヴェンのソナタ「ハンマークラヴィア」。それに、プーランクとスガシカオもね。(つづく)

 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 村上春樹(その2)  2007/02/12 

■この本の 47頁に載っている「殻つきの生牡蠣にシングル・モルトをとくとくと垂らし、そのまま口に運ぶ食べ方」は、前述の『かえっていく場所』椎名誠(集英社文庫)169頁にも同じことが書いてある。これはぜひ、ぼくも試してみたいものだが、アイラ島まで行かないとダメか。椎名誠さんの本にはこんなことも書いてあった。

 どの蒸留所にも猫がいる。みんな太っておっとりして眠そうだった。大変に人なつっこくみんなの足元に頭をすりつけてくる。蒸留所には麦が沢山あるのでネズミがいっぱい住み着いている。猫はそのネズミ対策なのだった。(『かえっていく場所』 p170)
村上さんの本では、53頁にまさに「その猫」が、すまして写真に収まっている。

■さて、「ラフロイグ10年」だが、コイツはなかなかにゴツくてハードなウィスキーだった。ストレートではアルコールがきつくて喉が焼け、マイルドなボウモアのようには味わえない。水で半分に割ったくらいが一番飲みやすい。ぼくは無知なので、「ボウモア12年」をロックと氷入りのチェイサーで飲んでいたが、「シングル・モルトには氷を入れてはいけない。赤ワインを冷やさないのと同じ理屈で、そんなことをしたら大事なアロマが消えてしまうからだ(32頁)」なんだそうだ。勉強になるねぇ。それから、こんなことも書いてあった。
"You need cube?(氷はほしい?)" と尋ねられる。 "No thanks. With just water, please." と答える。
 主人は「うむうむ」という顔でにっこりと微笑む。(注:良いウィスキーに氷を入れて飲むのは、焼き立てのパイを冷凍庫に放り込むようなものだ、と土地の人々は強固に考えている。だからアイルランドとスコットランドでは、酒場にいったらなるべく氷を注文されないほうが良かろう。そうすればとりあえず「文明人のかたわれ」として遇される可能性は高い)【中略】 そのとなりには、小さな水差しに入った水がついてくる。もちろんタップ・ウォーター(水道の水)だ。ミネラル・ウォーターなどという無粋なものは出てこない。タップ・ウォーターのほうが生き生きとして、ずっとうまいのだから。 土地のひとはだいたいウィスキーと水を半々くらいで割って飲む。【中略】「そのほうがウィスキーの味が生きるんだ」と彼らは言う。 (80〜81頁)


 たしかにラフロイグには、まぎれもないラフロイグの味がした。10年ものには10年ものの頑固な味があり、15年ものには15年ものの頑固な味があった。どちらも個性的で、おもねったところはない。【中略】 音楽でいうならば、ジョニー・グリフィンの入ったセロニアス・モンクのカルテット。15年ものは、ジョン・コルトレーンの入ったセロニアス・モンクのカルテットに近いかもしれない。どっちも捨てがたく素敵だ。(62頁)

●さすが、村上さんはうまいことを言うなぁ。ジョニー・グリフィンの入ったLP「ミステリオーソ」セロニアス・モンク・カルテットを久々にレコード棚から取りだしてきて、B面をターンテーブルにのせ、針を落としてボリュウムを上げる。深夜一人ヘッドホンで「ラフロイグ10年」をちびりちびり飲みながらジャズを聴くのは、ちょいとオツかもしれないねぇ(^^;;

 『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』 村上春樹(新潮文庫)  2007/02/10 

■アイラ島のシングル・モルトのはなし(つづき)■

なんだかんだと「ボウモア12年」を、ちびりちびりやっているうちに、すっかり「この味」が癖になってしまった。カモメが飛んでる潮の香りと、ピートのスモークに混ざった海藻のヨードと塩味。なかなかいいじゃぁないか。もっと他の「アイラ・シングルモルト」を飲んでみたいぞ。勉強もしなきゃ。

てなワケで、TSUTAYA へ行って『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』村上春樹(新潮文庫)を買ってきて一気に読んだ。そうして、今日の土曜の夕方に再び「酒のスーパーたかぎ」へ行ってみたら、もう「ボウモア12年」は残念ながら売り切れていたんで、棚の隣にあった「ラフロイグ10年」を(3680円もしたが)思い切ってレジに持っていった。

 アイラ島にはぜんぶで七つの蒸留所がある。僕はこの七つのシングル・モルト・ウィスキーを、地元の小さなパブのカウンターで同時に飲み比べてみた。グラスをずらりと一列に並べて、左から順番にひとつひとつテイスティングしてみたわけだ。気持ちよく晴れた六月のある日の、午後の一時に。(中略)

 ここで飲み比べたアイラ・ウィスキーを味に「癖のある」順番に並べてみると、だいたい次のようになる。

 (1) --- アードベック(20年 1979年蒸留)
 (2) --- ラガヴリン (16年)
 (3) --- ラフロイグ (15年)
 (4) --- カリラ   (15年)
 (5) --- ボウモア  (15年)
 (6) --- ブルイックラディー(10年)
 (7) --- ブナハーブン(12年)

 最初の方がいかにも土臭く、荒々しく、それからだんだんまろやかに、香りがやさしくなってくる。ボウモアがちょうど真ん中あたりで、ほどよくバランスがとれていて、いわば<分水嶺>というところだ。でもどれだけ味わいがライトになってもソフトになっても、「アイラ臭さ」は刻印のようにちゃんとそこに残っている。(中略)

 ところで「アイラ臭さ」とはいったいどのような味のことなんだ? とあなたは(まだアイラの酒を飲んだことのないあなたは)僕に尋ねるかもしれない。しかしその個性を言葉で説明するのは簡単ではない。これはやはり実際に飲んでいただくしかない。いや、飲む前にまずグラスの上に鼻をやって、その香りをかいでもらいたい。独特の少しくせのある香りがする。礒(いそ)くさい、潮っぽい --- というのが感覚的に近いかもしれない。

『もし僕らのことばがウィスキーであったなら』村上春樹 34〜35頁より)

  今年も、伊那東小学校6年生に「薬物乱用防止授業」をさせてもらった  2007/02/09 

■今週水曜日の午後、5時間目の授業枠をいただいて、今年も、伊那東小学校6年生全員に「薬物乱用防止授業」をさせてもらった。タバコの話だけならポイントを絞れて楽なのだが、ドラッグ全般の話をしなければならないので、毎回なかなか難しいな、うまく伝達できないな、という反省ばかりが残る。今回で4年目となるが、毎回すこしずつ工夫して改良を加えている。

今年は、前もって以下のような「薬物乱用防止クイズ」を、養護の岡先生にお願いして、6年生の生徒さんたちに配布してもらっておいてから授業に臨んだ。


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■薬物乱用防止クイズ■     <授業の前に、ちょっと予習してきてくれると、うれしいな>

                             平成19年2月7日(水)5校時
                             北原こどもクリニック 北原文徳



(1) 薬(くすり)と薬物(ドラッグ)の違いって何だろう?


(2) ドラッグって何だろう?


(3)「シンナー中毒」になると、君の体はどうなる?

  a) 脳が溶ける  b) 歯が溶ける c) 骨が溶ける d) 視神経がやられて目が見えなくなる
  e) 末梢神経がやられて手足の感覚が徐々にマヒしていく   f)再生不良性貧血を起こす
    g) 鼻やのどや気管支の粘膜がやられて慢性的な炎症を起こす h) 肝臓がやられる


(4) 君たちが中学に行って、怖い先輩や不良の友だちから「ドラッグ」をすすめられたらどうする?


(5) タバコとアルコールが、他のドラッグと違っているところは何だろう?


(6) タバコが、他のドラッグと「いちばん」違っていることは何?


(7) タバコが、なぜ1箱「20本入り」なのか知ってる?


(8) タバコ1箱の値段が一番高い国はどこ?

  a) イギリス  b) アメリカ c) 日本 d) フランス e) オーストラリア f) 韓国
  g) タイ    h) ブラジル i) フィリピン  j) 香港  d) スウェーデン


(9) タバコを1本吸うと、地球の大気をどれくらい汚染するの?

  a) 10リットルの空気    b) ドラム缶1個分の空気  c) ドラム缶10個分の空気
  d) ドラム缶100個分の空気 e) ドラム缶200個分の空気 f) ドラム缶500個分の空気



(10)毎日1箱のタバコ(300円)を吸い続けていたお父さんが禁煙に成功した。もしもお父さんが
  そのままタバコを吸い続けていたら10年後には「君の家」は、いったい何円損したことになる?


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それにしても、同じ6年生なのに、その年によって子供たちの印象や反応がまったく異なるのでビックリしてしまう。今年の生徒さんたちは、おとなしいというか、クールというか、冷ややかなんだな、反応が。去年大受けした、シンナー液に発砲スチロールで作った「歯」と「骨」と「脳みそ」を浸して、「ほら、シンナーを吸うと、歯も骨も脳も溶けちゃうんだよ!」と、ぼくが声を張り上げても、「なに言ってんだ、このオッサン……」といった雰囲気で、完全にスベってしまった。う〜む。来年はどうしたものか……

今年は、あの水谷修先生が書いた絵本、『ドラッグなんていらない』(東山書房)をベースに話をさせてもらったのだが、ドラッグを先輩から誘われた時に上手に断る方法が書かれていて、それをそのまま生徒さんたちに伝授した。これはよかったみたい。彼らにとって、ひとつでも得るものがあった授業になってくれたなら、うれしいな。

  ニシザワ「まごころワイン コンコード」(アルプスワイン)  2007/02/07 

■ワインのことは、からきしとんと分からないのだが、しばらく前に、ニシザワ・ショッパーズ春近大橋店で見つけた「まごころワイン コンコード」(アルプスワイン製造、ニシザワ販売)\890 が飲みやすくて美味しいので、このところずっと贔屓にしている。信州松本平産の葡萄(コンコード)100% 使用の酸化防止剤無添加ワインで、ぶどう生産者農家の名前がラベルに記載されている。きょうび、得体の知れない輸入ワインよりも安全で美味しいのが、100% 国産ぶどうを使用した長野県塩尻市で作られる、これらの国産ワインなんじゃないかと密かに思っているんだ。

このコンコードは赤ワインだけれど、わりと軽く素直にスッと喉を通過する。喉ごしはあくまでも優しい。新酒のフルーティーな香りと、それでいて口の中にズッシリと存在感が確かに残るこの味わい。これは、よくある「新酒」では味わえない味覚だと、ぼくは思う。いや、おいしいなぁ(^^)  ベルシャインのワイン売場は、最近なかなかに充実しているらしい。ぼくは素人なので、安いオーストラリア・ワインやチリのワインしか買ったことないが、売場のワイン・クーラーには高価なフランス・ワインがで〜んと鎮座している。この中のワインも一度、飲んでみたいものだ。

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■先週の月曜日、上伊那医師会理事会の終了後に久々に「JAZZ CAFE BASE」へ寄った。ぼくはいつもスコッチの水割りを2杯飲んで帰るのだが、この日マスターは珍しくいつもと違う「スコッチ・ウイスキー」をグラスに注いでくれたのだ。一口飲むと、イソジンうがい液のような、ヨードチンキのような奇妙な味わいと、海の香りと、スモーキーなまったりと懐かしい味がした。

「あっ!」と顔を上げると、マスターはニカッとしてこう言った。「アイラ島」で蒸留されているシングルモルト・ウイスキーなんですよ。どうです? 個性的でちょっとクセになりそうでしょ? ピートが効いてるんですよ、と。その後、アイラ島のシングルモルトを何種類かストレートでちょいと味見させていただいたのだが、う〜む、みな個性的すぎて美味しいんだか何なんだか、よく分からなかった。ごめんなさい、マスター。

「勉強してきます」と言って店を出ようとしたら、「酒のスーパーたかぎ」へ行けば、サントリーが株を100%取得して子会社にした、アイラ島の「BOWMORE」が手に入るから、まずはそれから試してみたら、と教えてもらった。数日後に「酒のスーパーたかぎ」へ行くと、たしかにあった。12年もので、ボトル1本2980円だった。しかも、円筒のケース入り! カッコイイじゃぁないか! 確かに、潮の香りはするけど、でもちょっと、パンチに欠けるかな(^^;)

■「JAZZ CAFE BASE」のマスターから「アイラ島」という名前を聞いて、どこかで聞いたことある名前だなぁ、とずっと思っていた。自転車を押しながら歩道をトボトボと自宅へ帰る途中、「あっ!」と思い出した。そうだ、『かえっていく場所』椎名誠(集英社文庫)p163 「アザラシのためのコンサート」で、椎名誠さんは、スコットランド、ハイランド地方のウイスキー蒸留所を巡る旅をしていて、まさに「アイラ島」に入って、「ボウモア」蒸留所を訪れているのだった。

この時、同行した編集者がパブで「アザラシに音楽を聞かせる女性」がこの島にいると聞いてきて、みなで彼女が住むアイラ島・キルダルトン村へ会いに行ったという話が載っている。この時のはなしは、『絵本たんけん隊』椎名誠(クレヨンハウス)p264 にも載っていて、彼女はアザラシにバイオリンを聴かせるのだが、確かにその音が奏でられると、待ちかねていたかのように数多くのアザラシたちが、ぴょこんぴょこんと次々と海面に顔を出すのだ。(後にぼくもテレビ番組で実際に見た)

椎名誠さんは、この時、マリー・ホール・エッツの『海のおばけオーリー』(岩波書店)を思い出したという。オーリーも音楽好きで、元飼育員がラッパを吹くと、すぐに寄ってくるのだった。ラッパがいいな。『もりのなか』の少年も、ラッパを吹くよね(^^)


  映画 『硫黄島からの手紙』 を見てきた(その3)     2007/02/06 

■映画 『硫黄島からの手紙』に関連して、参考になる興味深いサイトをいくつか見つけた。



●いつも二宮クンの隣で静かに微笑んでいた笑顔が印象的な、ロス在住の役者、松崎悠希くんのブログ
●映画「硫黄島からの手紙」に出演したロス在住の日本人俳優たちを紹介する、英字新聞カルチュラル・ニュースの日本語要約

●アメリカの映画館で『硫黄島からの手紙』を見たアメリカ人たちの反応がたいへん興味深い、「アリゾナ映画ログ 砂漠から」


●硫黄島関連の本を数多く集めた、kanjisin さんのブログ
●栗林忠道中将がアメリカ留学時代に日本へ送った、実際の「絵手紙」


  映画 『硫黄島からの手紙』 を見てきた(その2)     2007/02/03 

■映画館を出て、伊那市立図書館へ寄ったら、新刊書コーナーに『写真集 硫黄島』「丸」編集部・編(光人社)があった。「借りてくれ」と本が言っているような気がして、手にとってそのままカウンターへ持っていった。家に帰って、「ごめんな、たいへんだったね。」と息子と妻に詫び、それから息子に点滴をした。熱も出てきたみたいだが、顔色はずいぶんと良くなった。まずは一安心。

■ぼくが小学4年生〜6年生まで教わった担任の竹内先生は、硫黄島からの生還者だった。ただし、アメリカ軍が攻めて来る前に、先生は結核のために本土へ送還され九死に一生を得た。まさに、九死に一生を得たのだ。先生は、そのことをぼくらに何度も話してくれた。「硫黄島」はこうして、ぼくの心に刻み込まれた。あれから40年近くが経って、クリント・イーストウッドのおかげで、あの硫黄島を(映画の中とはいえ)目の当たりにできたのだ。何とも感慨深い思いがした。

この映画の実質的な主人公は、二宮クン演じる大宮のパン屋だ。彼は味方の陣地を転々としながら、次々と地獄巡りをする。それを映画の観客であるわれわれは、追体験することとなるのだ。これは辛かった。

『写真集 硫黄島』によると、アメリカ軍の戦闘開始が昭和20年2月16日で、3日間の徹底的な空爆と戦砲射撃の後、2月19日にアメリカ軍は上陸した。その後、栗林忠道中将が兵団最後の総攻撃で玉砕した3月26日でこの映画は終わっている。映画を見ていても、その1カ月以上の時間経過は体感できない。たぶんそれは、監督が意識的に排除したのだと思う。主人公の二宮クンにとってみれば、あの極限状況のもとでの実質的な時間経過と体感的な時間経過とは、ものすごくかけ離れたものであっただろうから。

実際、この映画の中では、描かれていることと、意識的に省略されている(あえて描かれていない)ことが、いろいろとあるような気がする。

■映画は3月26日で終わるが、硫黄島での死闘は、その後もさらに続いた。日本軍が玉砕したと言われるこの日においても、地下のトンネルの奥深くでは、まだ1万人近くの日本兵が生きて息を潜めていたのだという。本当の地獄は、ここから始まったのだ。司令本部は消滅し、指揮系統も途絶え情報もなにもない孤立した中で、日本兵たちは孤独な戦いを続けていた。しかし、ダイナマイトで生き埋めにされたり、海水やガソリンの注入で焼け死んだり、投降しようとして味方の上官から撃ち殺されたり、飢餓や病気でやられたりして、彼らは次々と死んでいった。それでも、8月15日の敗戦の日以降まで生き延びた兵士もいたらしい。しかし、そうした日本兵も、戦争が終わったことも知らずに、暗い闇の中で息絶えていったのだ。結局、日本兵の生還者は、たったの1033名だった。

硫黄島での徹底抗戦を挑む日本軍のゲリラ戦で、存外な被害を被ったアメリカ軍は、それ以降、徹底した空爆作戦にでることとなる。3月10日・東京大空襲、広島・長崎への原爆投下。それは、ベトナム戦争へも、イラク戦争へも引き継がれることとなったのだ。

  映画 『硫黄島からの手紙』 を見てきた(その1)     2007/02/01 

■昨日の水曜日の午後は、長谷で1歳半健診。3時前に終わって、南アルプス村のパン屋さんへ寄って、クロワッサンを買って帰ろうかと思ったが、パンが焼き上がるのを待っている先客がいっぱいで、しかも、それは15分後とのこと。ここのクロワッサンは、有名なドンクの「それ」よりも二回りほど大きくて、味は決して「それ」に引けを取らない。特に焼きたては最高だ。でも、残念だがこの日は買うのを諦めて伊那へ戻った。3時半から、伊那に1軒しかない映画館「旭座」で、クリント・イーストウッド監督のアメリカ映画『硫黄島からの手紙』の上映が始まってしまうからだ。

この映画は、どうしても映画館で見たかったんだ。先行公開された姉妹編『父親たちの星条旗』は、伊那へはやって来ず、未だ見られない状態。でも、ラッキーなことに『硫黄島からの手紙』は伊那でも公開されたのだ。急いで車を伊那市立図書館の駐車場に停め、旭座まで走って、なんとか間に合った。もぎりのおばさんは「下は寒いから、2階席へ行ってくださいね」と言った。仕方なく階段を上がると、確かに5〜6人の先客が2階席に座っていた。暖房で暖められた空気は上昇して映画館の上の方に溜まるんだね。でも、スクリーンを見下ろす2階席は、ぼくはどうしても我慢ならなかった。クリント・イーストウッド監督に失礼じゃないか。

そう思って階段を下り、1階席の前から7列目のまん中に陣取った。やっぱ、見たい映画は、スクリーンを仰ぎ見なければいけない。

定刻どおりに、映画は始まった。開始まもなく、携帯にメールが着信。あわてて開くと妻からで、何でも小学4年生の長男が、学校で嘔吐して呼び出され、迎えに行ってきたとのこと。家に帰ってから再び大量に嘔吐し、下痢もしたけど、どうしたらいいの? という内容だった。ぼくは、スクリーンを仰ぎつつ、携帯の液晶画面に目を落としつつ、馴れない親指シフトで返信した。漢字変換やカタカナ数字変換が未だによく分かっていないのだ(^^;;「なうぜりん座薬三十をいれてください」と。ほんとは座薬じゃなくて「坐薬」だったんだけどね(^^;)

どうしても見たかった映画だったんだ。自分の息子が苦しがって吐いて下痢しているとはいえ、映画が始まったばかりの映画館を飛び出す勇気はぼくにはなかった。ごめんな、息子よ。

さて、そういう後ろめたい想いを抱えたまま、2時間半の映画を見終わった。これは、たいへんな映画だった。ただただ、圧倒された。以前読んだ『わたしを離さないで』と同様の、ざわざわとした落ちつかない、いつまでも後を引く映画になるな、という予感。ほぼ完璧に「日本映画」なのに、監督はアメリカ人で、プロデューサーも資本もアメリカのハリウッド映画であることが、ものすごく不思議だった。『父親たちの星条旗』を未見の上で、この映画の感想を述べるのは危険だとは思うが、でも言いたいことがいっぱいあるので、少しずつ書いていきたいと思う。

■クリント・イーストウッドが「この映画」を撮る前に、われわれ日本人のいったい何%の人が「硫黄島(いおうとう)」のことを忘れずに憶えていたのであろうか? 戦前・戦中生まれの方々は別にしても、戦後生まれの僕の兄貴や僕ら、それから、その子供たちの世代は、ほとんど誰も知らず、憶えていなかったのではないか? 昭和20年2月〜3月、南海の孤島「硫黄島」で繰り広げられた日本軍とアメリカ軍の壮絶な死闘で、日本兵は1万9,900人の戦死者と、わずかたった 1,033名の生還者を得た。アメリカ軍は、6,821名の戦死者と、21,865名の戦傷者が残った。この数は尋常ではない。第二次世界大戦で、アメリカ軍が被った最大の被害が硫黄島の戦いだったのだ。

だから、アメリカ人の心には、パール・ハーバーの次に「iwo jima」が刻み込まれることとなった。あの有名な、AP通信カメラマン、ジョセフ・ローゼンタールが撮影した「擂鉢山山頂に星条旗を立てようとする6人のアメリカ兵」の写真とともに。

浅薄な日本人はみな、すっかり「硫黄島」のことを忘れてしまったが、意外と深く根に持つ「アメリカ人」は、戦中・戦後世代を越えて「iwo jima」のことを決して忘れなかった。だから、クリント・イーストウッドは「硫黄島」を映画にできたのだろう。薄情な日本人よ、あんたらの同胞は戦後60有余年たった今でも、成仏できずに硫黄臭と蒸し風呂のような灼熱地獄の暗い洞窟の中で、もんもんとしているのだ。彼らが手紙に込めた思いが、今のあなたがたに、はたして届くのだろうか? 皮肉屋のクリント・イーストウッドが、そう、われわれ日本人に問いかけた映画なのであろうな、そう思った。(つづく)



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