しろくま
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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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●「不定期日記」●

  「77777」カウント達成!        2007/05/31 

■今晩、なにげに自分のサイトにアクセスしたら、なんと! 77777カウントを自ら踏んでしまったのだった(^^;;
その証拠写真は以下に。それにしても、誰かに記念品でも贈呈しようかとせっかく思ってたのに、残念だ。晴れてカウンターが一巡して、10万カウントを達成した暁には、記念品を贈呈いたしますので、その際には「証拠写真」同封のメールを下さい。よろしくお願いいたします。

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■昨日書いた、内田センセイの話は、どうもうまく伝わりそうになかったので改めて書き直します。

つまり、内田樹先生は、確かに「体験的全共闘世代」であるはずなのに、何故か「団塊の世代」からは仲間として認められていないという矛盾した話。内田先生が、1960年代末の学生運動に参加したのは、まだ都立日比谷高校の現役高校生だった時だ。そのために(かどうかは分からないが)彼は日比谷高校を退学する。内田先生は1950年生まれ。大検を通った彼が大学受験をした年は、東大紛争のために東大受験が行われなかった。しかたなく彼は京大を受験したのだが落ちた。その頃、京大では高橋和巳がまだ現役で頑張っていたはずだ。その翌年、ウチダ先生は東大に合格する。

うちの兄貴が1949年の早生まれで、内田先生が1950年9月生まれ。この「2年の年の差」がどうも決定的な格差を生んでいるようなのだ。それはもう、絶対的に違うのだな。そのことを、検索してみたら、なんと内田先生ご本人がこんなふうに書いていた。

「人のいい」内田さんたちの世代

内田先生と同じ1950年生まれで例外的に「団塊の世代」から仲間として認められている人物が一人だけいる。それが『スズキさんの休息と遍歴』(新潮文庫)を書いた矢作俊彦氏だ。あの、ドーシーボーに乗って、会津若松まで行くはなし。ぼくも読んだ。すごく面白かった。読んだ当時、矢作俊彦がぼくより「たった8つだけ年上」と知って、ものすごくショックを受けたものだ。彼は異様に若くして、すでに世間で認められてしまったのだ。彼と同い年の内田先生が、ようやく世間から認められるようになるのに、それからさらに30年を要することになる。大変な時間差だな。

■よく、内田先生のことを「バリバリの団塊世代」として紹介している記事を目にするが、それは間違いだと思う。かれは「遅れてきた青年」なのだ。2年間の格差はあまりにも決定的なのだから。

内田先生の音楽的嗜好を見ると、彼が「団塊の世代」(すなわち「ビートルズ世代」ということ)と決定的に違うことがよくわかる。案外、1958年生まれの僕らのほうに近いのかもしれない。例えば、以下のような発言を読んでみるとね。

「音楽との対話」

キャロル・キングの「Will you love me tomorrow」は、ぼくは最近、ノルウェー在住のおばさんジャズ歌手、インゲル・マリエ・グンナシェン『 Make this moment』(ボンバ・レコード)で聴いて気に入っている。もちろん、ジェイムス・テイラーのCD『JT』は持っていて、いまも「ハンディ・マン」を聴いているところなのだった(^^;)

  上伊那地区の小児夜間一次救急を何とかしなければ(パート2)    2007/05/27 

■諏訪地区(諏訪広域6市町村:諏訪市、岡谷市、茅野市、下諏訪町、原村、富士見町)では、来月6月1日から、諏訪インター近くの「平安堂書店」裏側に「諏訪地区小児夜間急病センター」をオープンする。設立は諏訪広域連合、運営は、諏訪市医師会、諏訪郡医師会、岡谷市医師会の3医師会が行う。診療時間は夜7時〜9時の2時間。診療にあたるのは、諏訪地区の開業医(小児科医と内科医)と諏訪中央病院勤務医が10数名の計50名余の医師に、信州大学小児科から週1回パートで応援が来て、365日無休で対応する。それ以降の深夜帯の小児救急は、二次救急病院である諏訪日赤病院、岡谷市立病院、諏訪中央病院が受け持つことになっている。

実際に稼働してみないとその評価はできないのだが、これは総人口が20万〜30万人の地域における、理想的な「小児夜間一次救急システム」であることは間違いない。同じくらいの人口規模で先行した小児一次救急システムとして有名だったのが、鹿児島県大隅半島の「鹿屋方式」という、小児一次救急は地域の開業医が責任を持って対応するシステムだ。しかしこの「鹿屋方式」は、現在崩壊の危機に瀕しているという。

参加した開業医が15名ほど(小児科医+内科医)しかおらず、しかも、在宅当番医の24時間対応としたので「コンビニ感覚」で鹿屋市以外からも患者さんが殺到し、オープン当初に比べて四倍以上の患者さんが時間外にやって来るようになり、開業医は疲労困憊してしまったというのだ。システムが確立されたのはいいことだったけれども、その結果として、本来昼間の時間帯に受診できる子供たちが「親の都合」で便利に時間外に診療を受けるようになっただけなのだな。

大島郡における小児救急医療の問題点
「カモカのおっちゃんシステム」と「大隅の救急医療「鹿屋方式」崩壊
小児救急医療問題(2)
鹿屋方式は破綻の危機です
平成17年度乳幼児保健講習会「小児救急体制の新たな動き」


この事態は、そのまま現在の「伊那中央病院・地域救急医療センター」の実状と同じだ。「開いててよかった」という「親の都合」だけで、ただただ便利に使われているだけ。これでは地域救急医療の充実をうたった基本理念とは本末転倒だな。(さらにつづく予定)

  上伊那地区の小児夜間一次救急を何とかしなければならない      2007/05/25 

■以下は、今日の「長野日報」一面トップ記事。昨日の信毎朝刊「南信版」にも同様の記事が載った。

 http://www.nagano-np.co.jp/modules/news/article.php?storyid=7237

これは、実に大変な事態である。そのことを、はたして伊那市住民の皆様は、ちゃんと理解しているのだろうか? ぼくは何だかものすごく心配だ。こうなることは3月末の時点で既に分かっていた。しかし行政は無策のまま今の今までただ放置していたのだ。7月1日まで、あと1カ月しかないというのに。

■しかし水面下では、伊那中央病院院長と救急部部長が3月末に上伊那医師会を訪れ、伊那市医師会、東部(高遠・長谷)医師会、箕輪町・南箕輪村医師会会員と面談し、事態打開に向けての最初の話し合いが持たれている。残念ながら、この時にはお互いの主張が平行線に終わってしまい、具体的な打開案が検討される以前で話し合いは終わってしまったが、ぼくら開業医は「我々で何とかしなければ、大変なことになるぞ!」という危機感を肌で感じた。伊那中央病院の救急部が開設されてから、ぼくらはどれほど助かってきたか。どれほどその恩恵にあずかって、枕を高くして眠りにつくことができたか。その恩義を皆、感じているはずだ。

今こそ、恩返しをしなければならない、ぼくはそう感じている。上伊那地区の小児夜間一次救急を何とかしなければならない。

そのために、5月の連休明けから伊那中央病院小児科部長の藪原先生や中村クリニックの中村先生といっしょに、伊那市長や上伊那医師会長の上からの命令というのではなく、まったく独自に7月から具体的にどんな活動ができるのか検討を重ねている。

そうは言っても、上伊那地区にいる小児科医は、その人口割りからすると長野県下でも非常に少ない。しかも、この4月からは信州大学小児科学教室の意向として「小児科医の集約化」が実施され、辰野総合病院の常勤小児科医が2人から0人に、昭和伊南総合病院の常勤小児科医が3人から2人に削減されたのだ。松本市では、松本市医師会が運営する「松本市小児科・内科 夜間急病センター」が軌道に乗りつつあるが、松本の場合は、地域近隣の開業小児科医に加え、信州大学小児科医局の医師、それに長野県立こども病院の小児科医が参加して初めて成り立っている組織であることを忘れてもらっては困る。上伊那で松本と同レベルの「小児夜間一次救急」を求められても、それはハナから不可能な話なのだ。

「開いててよかった! セブンイレブン!」というキャッチコピーがずいぶん前に流行したが、伊那中央病院救急部はまさに「開いててよかった!」24時間いつでも誰でも診てくれる、地域住民にとって安心の医療機関として機能してきた。人間、便利に慣れてしまうと、それが「当たり前」と思えてしまう。でも、7月からはそうはいかない。地域住民は、それぞれの自己責任でもって、自らの、そしてその家族や子供たちの健康を管理する意識と覚悟が必要とされているのだ。

そうは言っても、そこまで(自己責任として)地域住民を突き放すことは、ぼくら小児科医にはできない。何とかしなければならない。コマは少ない。でも、なんとかしなければならないのだ。7月1日から。待ったなしで……

 支那そば「咲来軒」                    2007/05/22 

■天竜川の東側を走る竜東線を上牧方面へ北上すると、若宮団地がある上の段へ上って行く「レストランかずみ」(今は更地になってしまった)の交差点の左側、以前は「八番館」という店があった場所に、新しいラーメン屋さんができた。5月のGW前のことだ。店の名は「咲来軒」という。伝え聞いた話によると、ここのラーメンは昔ながらの「中華そば」だという。ぼくが好きなラーメン屋さんは、「若松食堂」「みしま」「美華」「万里菜館」「二八」と、みな「あっさり系」なので、これは! と思ったのだった。

で、さっそく先週の日曜日の夕方、家族全員でラーメンを食べに行った。店内に入ると、カウンターもテーブルもみな満席で、厨房では若い店主と彼の母親ではないかと思われる年格好のおばちゃん二人だけで忙しい店を切り盛りしていた。5分ほど待って、カウンター席が空いた。注文はラーメン3つ、チャーシュー麺1つ、それに小龍包と焼き餃子。

「ラーメンお待ちどおさま!」 どんぶりを両手で抱えて手前に引き寄せ、まずはスープを一口。「うっ、旨いじゃん!」懐かしい煮干しの効いたスッキリ醤油味で、しかも「こく」がある。続いて麺に取りかかる。「おっ?」これは予想外に細いちぢれ麺。「若松食堂」の麺を 2/3 くらいの細さにしてしまった感じとでも言えばよいか。ゆで加減は、もう少し「かため」がぼくの好みだが、この麺はいいんじゃないか、うん。そして、店主の力量が表れたと思ったのが、2枚のっているチャーシューだ。これは力が入っているね。満足な味わい。これならわざわざチャーシュー麺を注文する必要はないな。

小龍包はやや甘めの味付けだが、焼き餃子よりも案外ラーメンのサイドメニューとして相性がいいのかもしれない。また次回も注文しよう。今度は「パーコー麺」に挑戦だ!(^^)

 十代目 金原亭馬生                    2007/05/20 

■先だって、銀座山野楽器で買ってきた「金原亭馬生のCD2枚組」がいい。2007年4月25日に発売になったばかりで、長らく廃盤だった「そば清」に「茶金」、それに代表作の「笠碁」と、与太郎が何とも可愛い「錦の袈裟」の4本を収録。録音状態もよい。特に「そば清」は聴きたくてもずっと聴けなかった噺だけにうれしかったな。清さんが「どぉ〜も」と蕎麦屋の「のれん」をくぐって入ってくる場面の繰り返しが何とも可笑しい。

十代目金原亭馬生は、父親が古今亭志ん生で、弟は古今亭志ん朝。そして女優池波志乃の父親でもあり、ということは娘婿が「あの」中尾彬ということになる。父親や弟と違って地味な芸風ではあったが、年を取るにしたがって枯れた味わいが増し、通のファンも多かった人だが、食道ガンのために54歳の若さで亡くなっている。その若すぎる死が惜しまれた志ん朝さんの享年が63だから、外見上もっと老けて見えた金原亭馬生の享年が54とは本当に驚きだ。以下は、手持ちの落語本からの抜粋。

■吉川潮: 志ん朝師匠がそれだけ愛情を受けてお坊ちゃんに育ったのとは対照的に、十年の差で、馬生師匠はずいぶん苦労しましたね。
美濃部美津子(馬生の姉): ほんとにあの子はかわいそうでね。でも、本人は子供のころの貧乏をそれほど感じてないですよ。やっぱり一番苦しかったのは、落語家になってから、お父さんが満州に行っている間。楽屋なんかで、とても辛い目にあってね。

吉川:  何かすごかったらしいですね。
美濃部: 凄まじかった。お父さんが日本にいる時は仲良さそうにしていた人たちまで、手の平返すようなこともあったみたい。(中略)

吉川: しかし、かえすがえすも五十四歳の死は早過ぎましたね。馬生師匠が生きていれば、柳家小さん師匠みたいに人間国宝になったはずですよ。(中略)長生きすればするほどよくなった渋い芸ですよね。高座に出る時も踊りの時も、柳が風に吹かれてなびくような形で出てくるのが非常に色っぽくて、それが好きだっていう馬生ファンが多かったんです。
『芸人の了見』吉川潮 河出書房新社 p118〜120より)


■家元、前座の時に馬生宅に稽古に行き、そこで青春の悩みというか、修業の矛盾を若き馬生師にぶつけたら、ちゃんと答えてくれたっけ。だがそれはすぐ筒抜けて目白のお内儀さんに聞こえ叱言ォ喰らった。「お前は馬生ン処へいって愚痴ィいったそうだネ……」
 こんな時代だから、馬生師の若者の問題提起に真摯に答えてくれた行為は感動的であった。つまりこの師匠はあの世界には珍しくロジカルであったのだ。
『談志百選』立川談志・著、山藤章二・画、講談社 p244より)


■私が一番肩入れをしている落語家である。私は元々は馬生の弟子になりたいと思っていた。しかし、大学の一年の秋に食道癌で亡くなってしまった。(中略)
 で、馬生のどこがそんなにいいのか。世間の評価は圧倒的に弟の志ん朝だ。
 私の馬生評は「空間芸の魅力」という事になる。
 覚えていないのか、酔っぱらって忘れてしまったのか(大変な大酒呑みである)、やたら「えー」とか、「うー」とか言う。調子が悪い時は「えーうー」が耳障りで聴けたもんではないのだが、これが一度はまると魅力になるのだ。「えーうー」から人物の性格や季節の匂いまでもが伝わってくる。更に馬生の落語には無駄な説明が極端に少ない。(中略)

 無駄を省くといった点からすると文楽に似ている。しかし、決定的に違うところは馬生のそれは文楽ほど緻密ではない。志ん生の血が流れているだけあって、実にいい加減なのだ。だから、はまれば凄いがそうではない時はひどいものになってしまう。コンスタントに結果を出す志ん朝より評価が低いのはその所為だ。でも父志ん生の域に近付いたのはむしろ馬生だったのではないか。
『全身落語家読本』立川志らく著、新潮選書 p117〜120)


■実は、名人は、もう一人いた。
 あまりにも地味だから、世間はそう呼ばないが、文楽、志ん生の死で落語から離れたぼくより年長のある作家がたまたま馬生の会を聞いて、瞠目した。この話はごくさいきん知ったのだが、金原亭馬生は、とっくに、そういう存在になっていた。1981年4月の紀伊国屋寄席に、真打ちの志ん朝の「茶金」目あてで行ったら、馬生の「ずっこけ(居酒屋)」に打ちのめされた話はほかに書いているので省略するが、二十一年たった今でも、
(あれはすごかった……)
と想い出す。
『名人 志ん生、そして志ん朝』小林信彦・著、朝日選書 p132より)

 金曜日の夜はテレビを見るのに忙しい            2007/05/18 

■金曜のよる11時15分からは『帰ってきた時効警察』を見て、0時15分からは同じチャンネルで『探偵!ナイトスクープ』を見ることに毎週決まっているのだ。ところが今夜は、0時15分からNHKBS2でラーメンズの舞台『TEXT』も見なければならない。ああ忙しい。

■昨日の木曜日は、昼休みに天使幼稚園の内科健診。年少の「ゆり組」の子供たちはまだまだ幼くて、ほんと、かわいいよなぁ。2年前、その「ゆり組」だった子供たちは年長の「アネモネ組」となって、もうすっかりお兄さんお姉さんの風格だ。こどもって、あれよあれよと大きくなってくよなあ。健診終了後に「アネモネ組」で絵本を読ませてもらった。

1)『どうぶつしりとりえほん』薮内正幸・作(岩崎書店)
2)『ラージャのカレー』国松エリカ(偕成社)
3)『おいしいおやつをくださいな』大塚たえこ・作、おおの麻里・絵(こどものとも年中向き/2007年5月)
4)『ふってきました』もとしたいづみ・文、石井聖岳・絵(講談社)

『ふってきました』は受けた。とても受けた。また読んでみよう。でも読み方をもう少し工夫しないとな。降ってくる「もの」がページをめくって最初から描かれているので、ちょうど紙芝居を半分抜きながらテキストを読むようにしたほうがいいんじゃないかとね。むずかしいな。


■今日、金曜日の昼休みは「いなっせ」7Fこども広場で、久しぶりの「おはなし会」。今年度は隔月開催にしてもらったのだ。4年目に入って、ちょっと疲れてきたんでね(^^;; 今日は、東京で麻疹(はしか)流行の話と、薬のはなし。次回は、7月20日(金)午後1時45分から「夏の肌のトラブル」と題して話します。

例によって、お終いに絵本を2冊読んだ。男の子が多ければ『バルンくん』を読むつもりだったが、女の子が多かったので予定を変更。

1)『くうちゃんが ないた』みなみくうくう・作絵(アリス館)
2)『かあさん』たしろちさと作(こどものとも0.1.2.福音館書店)

みんないいこでじっと聞いてくれたよ。次回は続編の『ねえ、あそぼうよ』たしろちさと作(こどものとも0.1.2.福音館書店)を読んでみよう(^^)

 『みずうみ』 いしいしんじ (その2)            2007/05/16 

■先日、書き忘れたこと。

 池田進吾さんの装幀・装画が素晴らしい。『麦ふみクーツェ』も『プラネタリウムのふたご』も表紙の絵がじつに印象的だったが、『みずうみ』では滲む水彩絵の具の色合いが、深く閑かに小説と共鳴している。これはほんとすばらしい。

 それから、この小説は大江健三郎の『個人的な体験』と同じく、著者にとってのターニングポイントとなるに違いない。そう思う。


 三島賞、取れなくて残念でした。

 『みずうみ』 いしいしんじ(河出書房新社)        2007/05/13 

■例えば、『みずうみ』第三章に登場する慎二さんと園子さんが、何度も通ったであろう松本市清水1丁目「桜橋交差点」近くのマンションに、僕らはかつて住んでいた。もう15年近く前の話だが…… そのころ妻は、園子さんが入院した病院の薬局でパート勤めをしていた。

例えば先だってのGWに、僕ら家族が向かった旅行先は東京都台東区浅草だった。浅草は、慎二さんが三浦半島の三崎に移り住むまで暮らしていた街だ。『文藝 2006年秋号 特集:いしいしんじ』(河出書房新社)によると、慎二さんと園子さんが初めて出会ったのが、柳家小三治の落語会だったという。僕らもこの間、上野鈴本演芸場で柳家小三治の落語を聴いてきた。いや、あくまでも「たまたま」ではありますが。

『みずうみ』第二章に登場するタクシー運転手は、「たまたま」その日は乗せたお客の行き先がすべて「同じ飛行場」だったりする。またある日には、都合56組の客を乗せたが、そのうち七回が「空色の服を着た同じ女性」だったりする。世の中は時たま「偶然たまたまであるかのような必然」に支配されているように感じられることがあるよなぁ。不思議とね。前述の『文藝 2006年秋号』「いしいしんじ特集」の冒頭にはこんな文章が載っていた。
 動物と人間はけっしてわかりあえない。人間同士もけっしてわかりあえない。かつて、彼はそんな話として『ぶらんこ乗り』を構想した。自分と自分の外とのあいだに横たわる裂け目を、人は決して越えられない。そう気づいたとき彼は、とてつもないさびしさを知る。そして、そのとき初めて、いしいしんじは小説家になったのだという。
たぶん彼は、そうは言いながらも、人を信じたいのではないか? 人とつながりたいのではないか? だからこそ、彼は小説を書き続けているのではないか? そう思う僕は、テンプル・グランディンの『動物感覚』(NHK出版)を読みながらお台場へ行き、「ノマディック美術館」で、グレゴリー・コンベール「 ashes and snow」写真&映像展を見た。いしいさんは、この展覧会は見にこないんだろうか? と思いながら。

お台場から「ゆりかもめ」で新橋に出て、博品館トイパークのレジで僕はたまたま、そこに置かれた老舗のフリーペーパー『銀座百点 5月号』を手にした。ぺらぺら捲ると、あっ! いしいしんじさんのエッセイが載っている。「タッちゃんとカッちゃん」というタイトルで、彼の双子の弟たち(一卵性双生児)の面白い話が書かれていた。あれ、なんだまた「いしいしんじ」かよ そう思いつつ、何かすごく不思議な気がした。

■人(作家と読者)はみな「地下水脈」でつながっているのかもしれないな。松本で、浅草で、伊那で、ニューヨークで、キューバで、メキシコ・カンクンで。ある場所で水が満ちあふれれば、またある場所では引き潮となっている。そういうことなのだ。「エネルギー保存の法則」。エントロピーの問題なのだ。

「いしいしんじ ごはん日記」の愛読者である僕は、2005年10月29日の日記で、園子さんが妊娠したことを知り、人ごとではない喜びを感じた。よかったね、いしいさん。もしかするとこの胎児の影響で、彼の作風が変わるかもしれない、そう思った。そして実際に書き上がった『みずうみ 第一章』はとてつもない傑作だと思う。もうほとんど「神話」だよね。読者はもう小説を解釈することを最初から放棄して、その圧倒的な幻想的イメージの世界に身をゆだねるだけで、ただただ幸せなのだった。

ところが翌年1月、思いもかけない事態が「いしい夫婦」を襲うこととなる。それでも日記は書き続けなければならないから残酷だよね。読みながら読者である僕は、いたたまれなくなった。妊娠5カ月を過ぎると、胎児は初めて「人間」として認められることに法律上はなっている。つまり、流産ではなくて死産なのだ。「おぎゃー」と泣くこともなく鼓動も止まったまま産み落とされた胎児には、死亡診断書と埋葬許可証を市役所に届け出る義務があり、火葬場へ行って、小さな棺を花いっぱいにして子供を燃やし、お骨拾いをしたのであろう。これは辛いよなあ。切なすぎる。

それから半年近く経って書き始められた「第二章」と「第三章」は、もうぜんぜん違う話になっていた。文章のタッチも違う。「第三章」は外国人が書いた文章を日本語に翻訳したみたいな感じだ。小説の結構としては、長編小説ではなくて、3つの中編小説集とでも言ったほうがよいのではないかと思ったりする。だから、長編小説としての完成度は決して高くはないのだが、どうしても作者によって書かれなければならなかった小説であることは間違いない。

じつは、僕らの最初の子供も「いのち」すでになくこの世に生まれた。でも、まだ妊娠2カ月半だったので「死産」ではなく「流産」だった。臆病者のぼくは、産み落とされた胎児と対面する勇気はなかった。いま、『胎児の世界』三木成夫(中公新書)を読みながら、彼は「こんな顔」だったのかなあと想像する。あれから半年して、今の長男が妻の子宮に宿ったことを知ることになる。その彼には「ほんとうは、お前に兄さんがいたんだよ」と、いまだ言えないでいる。

 『胎児の世界 人類の生命記憶』三木成夫・著(中公新書)        2007/05/09 

『脳と仮想』茂木健一郎(新潮文庫)は未だ読み終わっていないのだが、もったいないので、ゆっくりゆっくり少しずつ読んでいる。第一章「小林秀雄と心脳問題」を読んで、無性に「小林秀雄の講演テープ」が聴きたくなり、伊那市立図書館から『信ずることと考えること』(新潮カセット文庫)を借りてきて聴いてみた。なるほど、古今亭志ん生みたいな甲高い声だ。間の取り方も志ん生の落語を聴いてるみたい。しかも、話す内容の原稿がきっちり出来上がっているのではなくて、かなり行き当たりばったりな感じで話している。これには確かに驚いた。さらに、いきなしユリ・ゲラーの超能力の話から始まって、柳田国男が少年時代に体験した不思議な話へと続いて行くんで、その講演内容にもっと驚いた。

この講演テープは「落語」みたいに何度も何度も聴いて味わえるアイテムなのだな。でも、ぼくの場合はいつも、聴きながら心地よい眠りに誘われてしまうので、ちゃんと最後まで聴いたことがないのだった(^^;)

■昨日読んだのは、第七章「思い出せない記憶」のパートだ。最初の「三木成夫の講演」を読みながら「あっ!」と思った。
 昔、東京芸術大学に三木成夫という生物学の人がいたらしい、ということは薄々知っていた。数年前から、ことあるごとに、「三木成夫という人がね」と周囲の人々が噂するのを聞いていた。解剖学の先生で、生物の形態や進化の問題について、ずいぶんユニークなことを言っていたらしい、ということも理解していた。人間の胎児が、その成長の過程で魚類や両生類や爬虫類などの形態を経る、ということを「生命記憶」という概念を用いて議論していたらしいという知識もあった。(中略)

そうか、ミキシゲオは、芸大にいたけれども、東大の医学部で特別講義もすることがあった人なんだなあ、と思った。
 読んだ時はそう思っただけだったのだが、読み終わったしばらく後に道を歩いていて、突然はっとした。
 どうやら、私は、三木成夫の講演を一度だけ聞いたことがあるような気がしはじめたのである。
 (『脳と仮想』p182 〜183)

三木先生の名前は全く記憶になかったが、ぼくも確かに一度講義を聴いたことがある! ということに気がついたのだ。ここの『へっこきあねさ』紹介文にある「東京芸術大学の先生が解剖学の特別講義をしてくれた」とあるのは、間違いなく三木成夫先生のことだ。あの当時聴いていた大学の講義内容なんて、ほとんどまったく記憶にないのに、30年近くも前に聴いた三木先生の特別講義はよっぽど印象的だったんだろうね。不思議だなあと思う。あの時の講義をもう一度体験してみたくなって、今日、『胎児の世界』三木成夫著(中公新書)を買ってきて読み始めたところだ。

三木成夫先生の「人と仕事」に関しては<ここ>に詳しく載っているが、「三木成夫といのちの世界」吉増克實(東京女子医大)がよくまとまっていて理解しやすいように思う。

 5月3日、4日の東京             2007/05/07 

■3日は9時過ぎにチェックアウトして、雷門から仲見世通りを浅草寺へ。朝早くからすでにけっこうな人出。われわれみたいな「お上りさん」か、アジア各国から東京観光にやって来たちょっと裕福そうな家族連ればかり。お参りを済ませてから「花やしき」へ向かい、午前10時の開門を待つ。こちらもすでに同様の家族連れが多数列をなしている。30分ほど待って、1日フリーパス券は買わずに入場券と回数券を購入。開園直後だったので、ほとんど待ち時間なく「日本最古のジェットコースター」に乗ることができたが、乗ってる時間は「あっ!」という間だったな(^^;) けっこう怖かったぞ。有名な「オヤジが怒ってちゃぶ台ひっくり返している場面」も一瞬しか見ることができなかった。

気がつけば、あの狭い敷地内に人があふれ、回数券も使い切っていたので、昼前には退場。仲見世通りも満員電車並の混雑で人、人、人。お昼は「葵丸新」で「かき揚げ丼」を食べる予定だったが、こちらも既に凄い行列ができていてあきらめる。そうは言っても、せっかく浅草に来たのだから「天麩羅」が食べたい。 仕方ないので「浅草・松坂屋」7Fのレストラン街で「新宿つな八」に入り、天ぷら定食とデザートに「アイスクリームの天ぷら」。ともかく天ぷらが食べられれば満足なのだった。

午後は上野公園。こちらも凄い人。中央の噴水近くでは、JIPC 主催の「上野の森 親子フェスタ」が開催中。販売している全ての絵本が「2割引」だったが、荷物になるので1冊も買わずに通り過ぎる。その後は、東京国立博物館へ。話題のダビンチ展は、やはり「凄い人出」で行列になっていたので、こちらも諦めて通常展のみの見学。それでも、法隆寺宝物館と東洋館に展示された「エジプトのミイラ」を見ただけで、子供たちは疲れ切ってしまった。無理もないな。休日は子供の入場料は無料で、しかも「子どもといっしょ割引」で大人ひとり600円のところ500円で入場できた。これなら、また来ればいいか(^^;;


■4日はお台場へ。「ノマディック美術館」で、グレゴリー・コンベール「 ashes and snow」写真&映像展を見る。この巨大な仮設美術館(貨物コンテナを積み上げて、天幕で覆ってある)そのものが芸術作品になっていて、館内へ入場する前に、ギリシャ・アテネの神殿前に立っているかのような錯覚を覚える。扉を開けると、暗い館内はまた独特の雰囲気を醸し出していて、タイムトンネルを通過して迷い込んだかのような別世界が構築されていた。

<ここ>に書かれている感想が印象的で、ぜひ見に行きたいと思ったわけだが、ぼくは、遙か昔の人間と動物たちの「蜜月時代」をイメージしているというよりも、むしろSF小説『キリンヤガ』を読んでいる時のような、遙か彼方の未来の地球を見ている気がした。ちょうど、自閉症でありながらコロラド州立大学准教授で動物学者であるテンプル・グランディンが書いた『動物感覚』(NHK出版)を読み始めたばかりだったので、この展覧会に展示された写真の「動物と人間の近すぎる位置関係」をまったく違和感なく受け入れることができたのかもしれない。ちなみに、GW中は子供の入場料は無料だった。これは有り難かったな。でも、写真集は高価すぎて購入をあきらめざろうえなかった。

昼前には「ゆりかもめ」で新橋へ。銀座博品館で子供らは「デュエル」のカードを購入。対面地下にある「吉宗」で昼飯。みなで長崎皿うどん。山野楽器本店で金原亭馬生のCDを購入した後、教文館のカフェでお茶して、同館9階で開催中の「堀内誠一展」を見る。『ぐるんぱのようちえん』『こすずめのぼうけん』の原画は、以前「八ヶ岳小さな絵本美術館」で見たことがある。それにしても、やっぱり堀内誠一さんは天才だったんだな、ということを改めて再確認することができた。お父さんはその後に「アップル・ストア」へ寄りたかったのだが、歩き疲れた子供たちから拒絶された。残念(^^;;

午後7時発の「あずさ」を予約してあったのだが、予定を変更して6時のあずさで帰る。それにしても、馴れない人混みはほんと疲れたね。それから、東京の人は早足でよく歩くね。僕らも、とにかくよく歩いたんで、足がパンパンになてしまった。ふだん如何に歩かない坐ったまんまの生活をしているか思い知らされたよ。

 今日は東京も暑かったね (パート2)          2007/05/05 

■つね日頃、車で移動する際には努めていつもCDで落語をかけてきた。NHK教育で放送していた「えほん寄席」から「たいらばやし」や「んまわし」、立川志の輔の「みどりの窓口」に、先代の三遊亭金馬「金明竹」などなど。そうやって息子たちに「落語という古典芸能」に馴れ親しんで好きになってもらいたかったのだ。それに「なんばグランド花月」と「ルミネ THE よしもと」へは過去に計3回家族で足を運んでいるという実績もある。だから、小学5年生と3年生でも「鈴本演芸場」デビューは決して無理ではない大丈夫! とタカをくくっていた。でも、ぜんぜん大丈夫じゃなかったんだ(^^;;

M1グランプリに輝いた「チュートリアル」が大好きな8歳の次男にとって、「昭和のいる・こいる」の漫才は縄文人の会話みたいだったろうし、坐ったのが最後列の席だったから、演者の声の通りが悪くてどうしても聞き取りにくく、あまり興味のない子供たちは最初から聴く耳を持たない。彼らが唯一舞台に注目したのは、声が大きい三遊亭歌之助さんの「綾小路きみまろ」みたいな漫談だけだったな。「ぱんにはむはさむだ!(韓国語)」「じゅとじゅでにじゅう(フランス語)」ここだけ受けた(^^;) でも、それがガマンの限界だったんだね。で、「おとうさん、ウンコ」となったワケだ。

柳家小三治師の演目終了後に「中入り」。急いで親子でトイレへ駆け込むと、すでに順番待ちの列ができている。でも有り難いことに、奥の個室が空いていることを教えてくれる人がいて、間一髪間に合ったのだった。そんなんだったから、中入り後は父親だけ席に残り、妻子は先に外へ出てしまった。柳家三三(さんざ)さんは若手で一番の注目株だ。この5月末公開予定の映画『しゃべれどもしゃべれども』で、主演の国分太一くんに落語の演技指導をしたのが柳家三三さん。顔は地味な人なんだけどね、今回初めてナマで聴いたが、この人には華があるねえ。古今亭菊之丞さんと同じような「江戸の粋」を感じさせる落語だった。演目は知らない噺だったが、後でネットで調べたら「不孝者」と言う噺だったらしい。また近いうちにぜひ聴いてみたい噺家さんだ。

本当は、林家正楽師の神業的な「紙切り」を子供らに見せたかったし、トリの権太楼さんを最後までじっくり聴きたかったのだが、仕方なくあきらめて途中退場。上野広小路に出て5〜6軒先の中華料理屋で待つ妻子と合流し、地下鉄銀座線で浅草へ。無事「ドーミーイン浅草」(それにしても憶えにくい名前だ)にチェックインし、早速息子たちと最上階の大浴場へ。とても「大浴場」とは言えないようなお風呂ではあったが、対岸の「アサヒビール本社」の金色に輝く「ウンコ」みたいなオブジェを正面に、隅田川を見下ろす露天風呂は本当に気持ちよかったよ。

(もう少しつづく)

 今日は東京も暑かったね                2007/05/04 

■水曜日は午前中で診療は終了なのだが、GW谷間の5月1日(火)はメチャクチャ混んだので、5月2日(水)も診療は午後2時近くまでかかるのだろうなぁ と諦めていたが、一生懸命がんばって診察を続けたら、なんと午後1時ちょい前で外来が終わった。幸い、息子たちが通うこの日の伊那東小の授業も半日で終了。下校時間は午後1時20分だ。このぶんなら、茅野発14時25分の新宿行き「あずさ」に間に合うかもしれない。急いで支度をして車に荷物を載せ、妻は歩いて通学路を小学校まで迎えに行き、ぼくは車に乗って先に牧田邸西側の竜東保育園前の駐車場で待機した。しかし、1時半を過ぎても息子たちはなかなか現れない。次発の「あずさ」では、この日の予定を変更しなければならないので、どうしても先発便に載りたかった。

その願がかなったのか、ぎりぎり5分前に茅野駅駐車場に到着し、14時25分発「あずさ」に無事乗ることができたのだった。よかったよかった。ところが! 焦っていたぼくは、先だって楽天トラベルで予約し、この日宿泊することになっていた浅草のホテルの名前と電話番号をメモした紙を診察室の机の上に忘れてきてしまったのだ。ホテルの名前は何故かぜんぜん記憶にない。確か片仮名で「○○○○浅草」とか言うビジネスホテルだったということしか憶えていなかったのだ。これはヤバイかも? と思いつつ平静を装っていたのだが、挙動不審のぼくを目ざとく察知した妻はこう言った。「今晩泊まるホテル、どこだっけ?」「えっと、あの〜、じつわぁ、メモを忘れてきちゃったんだ」「えぇ〜! うっそぉ! いったいどうすんのよ、ホテルが判らなかったら私たちみんな隅田川の河原で野宿すんの?」「えっ、うんとね、最上階に大浴場と露天風呂があるのが自慢のホテルだったから、ぜんぜん自信はないけど、このガイドブックに載っているドーミーイン浅草のような気もするなぁ」

「ほんとにそうなの?」そう言いながら妻は車両前方のデッキに移動して携帯でホテルに電話し「あの〜、すみません、今晩宿泊予約をしてある北原ですけれど、ちゃんと予約は入っていますでしょうか?」と訊いた。すると電話に出たフロントの人は、「はい、北原さまですね。あのすみません、どちらの北原さまでしょうか? フルネームでお知らせ願えますか?」「はい、キタハラフミノリです」「キタハラフミノリさまですね、はい、確かに承っております」

あぁよかった(^^;; これでわが家4人連れは、今晩露頭に迷わなくてすんだのだ。

■この日の予定は、上野鈴本で寄席を見に行くことになっていた。5月上席「夜の部」はこんなんで、「夜の部」は柳家一門の実力派が勢揃いしている。何せ柳家小三治が出るのだ。ナマで見るのは、たぶん初めて。新宿から中央線で神田で下車し、山手線に乗り換えて御徒町。人混みを縫うように走り抜け、上野広小路を右へ曲がって午後5時5分に「鈴本演芸場」へ到着。有り難いことに、まだ席は残っていた。この日のメニューは以下の通り。

1)翁家 和楽社中(大神楽曲芸)
2)柳家甚五郎 「つる」
3)橘家圓蔵  「猫と金魚」
4)柳家さん喬 「初天神」
5)昭和のいる・こいる「漫才」
6)三遊亭歌之助「B型人間」
7)柳家小三治 「出来心」
8)柳家紫文  「三味線漫談」
9)柳家三三  「不孝者」
10) 林家正楽  「紙切り」
11) 柳家権太楼 「大工調べ」


柳家さん喬さんを聴くのは、これで3度目。上手いなぁ、しみじみ。初夏の季節を感じさせる「藤色の紋付き」で登場し、時候の挨拶の後「まくら」に振ったのは子供の噺だ。これは聴いたことがある! 先代・三遊亭金馬の『真田小僧』の「まくら」といっしょじゃないか?。と思ったら、噺は『初天神』へと。この噺は、季節を選ばずに演じられるんだねぇ。いいなぁ。ほんといいなぁ。今日もさん喬さんは、とうとう最後まで紋付きを脱がなかったよ。

この日、ぼくが一番見たかったのは柳家小三治さんだ。「まくら」が長いことで有名な小三治師匠だが、お囃子に乗って出てくるなり、この日京都の街中の青信号に「蜜蜂」が数千匹とまって、大騒ぎとなったという話。そこから「泥棒」の噺に。「穴どろ」かな? と思ったら、「出来ごころ」だった。羊羹をじつに美味そうにほおばる小三治さんは、やっぱいいなぁ(^^) でも、次男が横で突然「おとうさん、ウンコ。我慢できない!」と言ったもんだから困った。天下の小三治さんが演じている途中を抜け出して場内を退場する失礼はしたくはない。でも息子は「今にも出そう」と言う。「頼むから、もうあと2分我慢してくれ!」ぼくはそう懇願した。息子は何とかガマンしてくれたが、気がきではない僕は、ほとんど小三治さんの落語を落ち着いて聴いていることはできなかったな、残念(^^;;
(つづく)



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