しろくま
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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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●「不定期日記」●

 長野県民の味方「サバ缶」!          2009/03/27 

■わが家の「キムチ鍋」は美味い。これには自信がある。いや、ぼくが作るんじゃなくて、妻がいつも作ってくれるのだが、でも自信あるのだ。「ためしてガッテン!」で以前取り上げられたのを見て、妻はその極意を会得した。ポイントは2点。(その1):キムチと豚肉を、鍋に投入する前にフライパンでゴマ油といっしょに炒めること。つまりは「豚キムチ」ね。(その2):鍋に「サバ缶」「煮干し」と、キャベツを入れること。それさえ守れば、「キムチ鍋」はメチャクチャ旨くなる。

で、昨日のわが家の夕飯は、その「キムチ鍋」だった。「やったぁ!」と喜んだのもつかの間、この日は上伊那医師会総会で、よる7時までにプリエキャスレードに出向かなければならない。従って、わが家のキムチ鍋は食べられないのだ。懇親会終了後にプリエから歩いてわが家に帰ると、子供たちはすでに寝ていた。さて、楽しみの「キムチ鍋」! と、台所へ走って鍋の蓋を開けると、鍋の底が見えた。つまりは、ほとんど中身が残っていなかったということだ。いやはや。ぼくはただ、キムチ鍋に残った「サバの水煮」が食べたかっただけなのに。残念無念。


■今日は、今月2回目の伊那中央病院救急部小児一次救急の当番だった。夜6時45分に自宅を出ようとすると、伊那消防署から電話が入った。今日午前中に発熱で診た1歳女児が先ほど「けいれん」を起こして救急要請があったのだが、これからそちらへ向かってもよいか? とのこと。いや、それは困る。伊那中央病院へ行って下さい、ぼくもこれからそちらへ向かいますので、そう言って電話を切った。ところが、金曜日の夜は何だか町中が混んでいて、信号はことごとく赤だし、入舟の信号はちっとも直進できない。イライラするうちに、7時10分前、漸く伊那中央病院に到着。あわてて駆け込めば、すでに「くだんの女児」は採血と点滴を終え、これから放射線部へ行ってCTを撮るところだった。あ、もう診察は終わっていたのだね。救急部の先生ごめんなさい。すみませんでした。

その後、小児科の患者さんは一人も来なかった。おかげで『神器 軍艦「橿原」殺人事件(上巻)』を、324頁まで読み進むことができた。すみません。よる9時10分を過ぎて、さて帰ろうと思ったら、6歳男児が受診した。知っている子だった。むげに帰るワケにはいかなかったので、彼を診てから家路につく。帰ったら夜10時前だった。


■ところで、「サバ缶」を入れて、最も旨くなる食べ物は「根曲がり竹の、竹の子汁」に違いない。今から20年近く前、ぼくは飯山日赤の小児科一人医長だった。5月中旬だったように思う。飯山日赤・旧南病棟の菊池婦長が言った。「北原センセイ、たけのこ取り行きませんか?」って。もちろん「行く行く!」と答えたよ。

約束の早朝、木島平村の麓で落ち合い、我々は一路「カヤノ平」を目指した。ここは、奥志賀高原のさらに奥に位置する秘境だ。1時間近く車に揺られてようやく現場に到着し車を降りると、菊池婦長は持参した手さげ袋から「サザエさんに登場する三河屋さんの前掛け」を取りだして「ハイ、これ付けて」と言った。目指す山は薮だ。朝露に濡れた薮だ。その中を、ぼくは酒屋さんの前掛けをして、びしょびしょになりながら、ひたすら薮を掻き分けて登って行くと、高さ20cm、直径 1.5cmほどのタケノコがあちらこちらに顔を出している。タケノコは簡単に根元でポキンと折れる。「酒屋の前掛け」には大きなポケットが付いていて、そこに取った「タケノコ」を次々と入れるのだ。

信州北信濃地方で言う「タケノコ」とは、根曲がり竹のことを指す。積雪量が2メートルを超える豪雪地帯の高原にしか自生しない、笹のように細い竹だ。このタケノコを取って、直ちに皮をむき、包丁で輪切りにし、山の上でコンロの鍋に投入する。味付けは味噌味だ。あと、タマネギの薄切りと、サバ缶を入れる。タケノコは、取ってから時間が経つほど灰汁が出てエグくなってしまうので、取ってすぐに「タケノコ汁」にして食うに限る! これは本当に旨かった! 今でも忘れられない味だな。決め手は「サバ缶」。ね、忘れないでね(^^;;

 『あの犬が好き / LOVE THAT DOG 』シャロン・クリーチ作、金原瑞人訳(偕成社) 2009/03/24 

「中村キース・へリング美術館」はしかし、何だか訳判らないけれど、超個性的で面白い美術館だった。建物の外観からして不思議で、老子「タオ」のマークのような白石と黒石を敷きつめた中庭も変。中村和男さんという人が個人でコレクションしたキース・へリングの作品を展示するために、小淵沢に中村さんが個人で建てた美術館というところも変だ。いったい、中村和男さんて、何者だ?

しかし、今は便利な時代で、ググればたちどころに判明する。すると、意外な事実が浮かび上がってきた。中村和男さんは、医薬品開発受託会社「シミック」の会長兼社長であった。なんだ、ベンチャー企業の社長か。という認識は甘い。中村さんは、日本最大手の製薬メーカー三共が、世界で初めて開発した新薬である高脂血症治療薬「メバロチン」の開発プロジェクトチームの責任者だった人だ。「メバロチン」は、世界中を席巻した怪物ゴジラのような薬だ。その開発物語は、NHK「プロジェクトX」で取り上げられてしかるべき世界に誇る業績なのだ。

しかし、何故か中村さんは「三共」を辞め、ベンチャー企業を立ち上げたのだった。そして、故郷の山梨県に個人で収集したコレクションの美術館を開く。「メバロチン」の儲けで出来た美術館と、陰口をたたく人もいるかもしれないが、そんなの関係ない不思議なパワーのある人だ。よくは分からないけれど、もの凄い人であることは間違いない。(つづく)


『やさしい現代詩 自作朗読CD付き』を読んで(聴いて)から、ずっと「詩」のことが気になっている。手始めに、ねじめ正一さんの「かあさんになったあーちゃん」を、伊那のパパズ絵本ライヴで読んでみようかと思っているのだ。ついでに自分で「あーちゃん」の絵を何枚か描いて自家製絵本にして読んだら面白いかもしれない!そんな計画を立てていたのだが、なんと、『かあさんになったあーちゃん』は、長野ヒデ子さんの絵ですでに偕成社から絵本になっていた。知らなかったな。じゃ、この絵本を読めばいいじゃんと、今日伊那図書館から借りてきたのだが、絵本のテキストは、ねじめ氏が朗読している文章とずいぶん違うぞ。はてさてどうしたものか、よわったな。

■ここまでは「まくら」。ようやく『あの犬が好き / LOVE THAT DOG 』シャロン・クリーチ作、金原瑞人訳(偕成社)のはなし。これは良かったな。本当によかった。ジャックという少年が、授業でストレッチベリ先生の読んでくれた詩に反応して、先生に感想の手紙を書くうちに、いつしかジャック少年の心の奥底に封印されていた気持を、「詩」という表現方法を使って、自分の「ことば」で他者に伝えていくことになる。少しずつ「ことば」が増えて行くうちに、少年自身も階段を一歩一歩上るように成長してゆくのだ。その過程がじつに丁寧に描かれていて、ラストで泣いてしまったよ。しかも、凝った作りの本で、全体が「ひとつの詩」になっているのだ。だから、活字が極端に少ない「この1冊」を読むのに30分とはかかるまい。

巻末に、ストレッチベリ先生が授業でジャック少年たちに読んで聞かせた詩が載っているので、ジャックと同時進行で味わうことがオススメだ。読み終わって最後に判るのだが、必然的にこの順番で「それらの詩」が選ばれていることに驚く。「ことば」は、自分の気持ちを他者に判ってもらうためにある。しかし、いまの若者たちは決定的に手持ちの語句が少ない。「マジッ?」「ほんとですかぁ」「ていうかぁ」「だよねぇ」などなど。でも詩は、「ことば」を武器として表現することの極北、最先端で頑張る重要な文学であることを再確認させてくれる、そんな好著であると思った。

検索すると、いくつも書評・感想が見つかるが、ネタバレが多いので要注意だ。作者が巧妙に仕組んだ伏線が、最後でピタッときまる瞬間の驚きと感動が損なわれてしまうから。

 八ヶ岳・大泉 「ん路湖」「リゾナーレ」「イカロス」「マジョラム」「キース・へリング 美術館」 2009/03/22 

■子供らが春休みになって「何処かへ連れてけ」と言うので、こういう時のために便利な八ヶ岳。
土曜日の夕方5時半過ぎに自宅を出発。中央道をひた走って長坂インターで下車。左折し、八ヶ岳へ向かってずんずん上る。目指すは「御宿ん路湖」だ。この日は、妻が予約した時に「麻婆豆腐」をリクエストしておいたのだ。

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『ん路湖』の「お料理一覧のページ」が、とにかく凄いぞ! 驚いたね(^^;)

この夜に出された料理を、これらの写真を見ながら思い出してみる。

「ちりめん山椒」「切り干し大根」「凍み豆腐」「キャベツの酢の物」「菜の花和え」「ロールキャベツ」「ふきのとうのスパゲティ」「岩魚塩焼き」「ホタテとポテトのロースト」「麻婆豆腐」「野沢菜漬」「ごはん」それに、デザートの「八朔」。まだ、何か忘れているような気がするが、一品一品に真心が込められていて、どれもこれも本当においしい。決して期待を裏切らないのだ。今回初めて「ロールキャベツ」を食べたが、コンソメスープにニンニクの何とも言えないコクと旨味が沁みだしていて、しみじみ美味いのだった。「麻婆豆腐」はね、わが家の定番。とにかく山椒がもの凄く効いていて、舌が麻痺するくらい辛い。これを美味しいごはんに載せていただく。うまい! めちゃくちゃうまい! 他のおかずさえなければ、ごはん4〜5杯は食える。

「御宿ん路湖」は、朝食も凄い。和洋選べるのだが、わが家は決まって「和食」だ。蕗味噌のかまぼこ、卵焼き、シャケの焼きもの、豆腐とネギのみそ汁。自家製ヨーグルト、巨峰ソース添え。他にもあったような気がするが忘れた。残念ながら、今日は朝から雨だ。10時前にチェックアウトして、「絵本の樹美術館」は来週オープンなので寄らずに、霧雨の中を小淵沢へ。長男が「リゾナーレの本屋」へ行きたいと言うので、まずは「そこ」を目指す。運良く第一駐車場に停めることができた。

実は、お父さんも「いの一番」に行きたかった場所なのだよ(^^;; さっそく、季刊誌『飛ぶ教室』最新刊の書評欄で、松田素子さんが誉めていた『あの犬が好き』を見つけ即購入。ラッキーだった。それから、レジそばに置かれた雑貨コーナーに木彫りの「しろくまの親子」が鎮座しているのを発見。以前訪れた時には、たしか居なかった。これは買うしかあるまい。「しろくま」だからね。

雨足は途絶えることなく、われわれは「イカロス」へと向かう。子供らは早速新しい「カードゲーム」を見つけた。ドイツ製の「ゴキブリ・ゲーム」の新作、『ごきぶりサラダ』だ。イカロス店主のおじさんにご登場願って、ゲームのルールとやり方を、直接カードを配って実際にゲームをしながら教えてもらう。だって、ゲームの解説書を読んでも面白いかどうか分からないでしょ。だから実践でゲームしてみるワケ。「カードゲーム」が面白いかどうかのポイントは、瞬時に誰もがゲームのルールが理解できて、スピーディにゲームが終わって、それでいて巧妙で複雑で奥が深くて、もちろんメチャクチャ面白いことに尽きる。このハードルはけっこう高い。でも、この新作はわが家では合格だ。

購入して、すぐ近くのイタリアレストラン「マジョラム」でスパゲティを注文したあと、早速テーブルでゲームを実践。あはは!これは傑作だ。面白い。カードには4種類の野菜の絵が描かれている。ピーマン(パブリカ)、レタス、トマト、カリフラワーの4種類。それぞれ順番にカードを場に出しながら、自分のカードの絵を見て「レタス!」とか言ってゆくのだが、正直に言ってはならない場合があるのだよ。わが家では案外、長男が正直者であることが分かった(^^;;

■昼食後、次男は即帰宅を望んだ。春の高校伊那駅伝が開催されていたからだ。直ちに帰れば、ナイスロードで直に応援できるかもしれない、と彼は言った。でも、ぼくはそれを制して、前から行ってみたかった「中村キース・へリング美術館」へ車を走らせた。でも、どうだったんだろう? 小学生に、ポップアートの過激イラストを見せてはたして良かったのだろうか? よくはわからない。

迷路のように入り組んだ摩訶不思議な展示室を3つ廻って、入り口に戻ってきた時、受付のオネエサンが「キースさんのこと、好きになった?」って、うちの次男に訊いたのだけれど、彼は答えに窮していたな。そりゃ、そうだろう。ごめんな、息子よ。

■わが家へ帰宅した時には、すでにレース上位陣はゴールし終えていた。伊那インターを下りた時には、長男も妻も疲れて寝ていた。何故か次男はテレビ放送を聞きながらずっと起きていた。間に合わなかったな、ごめんね。

夕方5時過ぎまで午睡して、子供らと TSUTAYAまで行ってCDとDVDを借りる。次男が大好きな「嵐」の最新シングルCDと、長男が大好きな「ラーメンズ」のDVDだ。それから、月刊ドラゴンズ4月号を購入。帰って早めの夕食を食べ、そのあと伊那中央病院へ。午後7時から9時まで、小児科一次救急の当番だったのだ。3月は、8日が初動の日だったのだが、ナゴヤドームへオープン戦を見に行くことになって、急きょ藪原先生に22日(日)と当番の日を交換してもらったのだ。で、今日が初出勤。

ところが、伊那中央病院はこの3月から「電子カルテ」が導入されていて、操作方法が分からず勝手も違ってちんぷんかんぷん。困った。本当に困った。事務当直は、藪原先生が当番だと思っていたから、事務クラークの補助は必要なしとして、この日、誰もボクのことをサポートする人がいなかったのだ。しまった! ちゃんとお願いしておけばよかったな。

でも、この風と雨の夜だから、患者さんはそうは来るまいとタカをくくっていたら、3人こどもがきた。困って、救急部の堀先生に教えてもらって、何とか急場をしのいだのだが、電子カルテの操作方法はまるで判らないままだ。仕方なく、まずは紙に問診と所見を書いて診察を終え、患者さんが退場した後に、あわてて電子カルテの端末に向かい入力。ちゃんと間違いなく処理されたのだろうか? はなはだ不安だ。

 『とんぼの目玉』長谷川摂子(さらにつづき)   2009/03/20 

■今日のお彼岸は、午前中に高遠へ行って建福寺でお墓参り。高遠は風が吹かない土地なので、ぽかぽか陽気に汗ばむほどの1日だった。午後は、伊那のパパズ結成5周年を記念して、伊東パパ宅で妻子もいっしょにホームパーティ。午後2時から8時過ぎまで、延々飲み続けた。いやいや楽しかったね。それにしても5年とはよく続いたものだ。伊東パパ&奥様、お世話になりました。パパズのみなさん、ありがとうございました。それからそれから、パパたちを陰ながら支え続けてくれたママたち、子供たち、ほんとありがとね。


■お彼岸にちなんだ話で、『とんぼの目玉』には「あの世の名前」という話題が載っている。これがまた面白い。古いお寺の墓地に、江戸時代の小さな墓石が積み上げられていて、それらは幼くして亡くなってしまった子供たちの墓石なのだ。長谷川さんは、それらの墓石に刻まれた赤ん坊や幼児たちの戒名を次々とノートに記載した。

「紅顔温容童女」 「幻秋嬰児」 「海眠童子」 「素秋童子」
「心苗童女」 「繊月童子」 「梅霖童子」 「蝶周童女」
「夏光童子」 「寒光童子」

長谷川さんは、これらの幼子に付けられた、儚くも美しい戒名の由来を想像して、コメントを付けているのだが、これがしみじみといい話なのだった。

■「ことば」に関して様々に思考を巡らしたこのエッセイ集には、この他にも興味深い話がいっぱい載っている。例えば、辰巳芳子さんの料理本の話には笑った。109頁には、辰巳芳子さんの凛とした言葉の数々が紹介されている。ぼくも読んでみたくなったな。
青菜を茹でる仕事について

同じほうれん草でも、一回ごとに菜の性質が異なると思います。手にした瞬間に、茹で時間の見通しを立てられる人になろうとすることは、自己実現の一端です。

ひたしものの水のしぼり加減について。

神経と掌の感覚に、経験をたたき込むこと、一回一回の仕事が意識的でなければなりません。こういうことは30歳までの自己訓練です。
■あと、木下順二の戯曲で使われる、どの地方の方言でもない「おんにょろ語」に関して、柳田国男が「木下順二は人民の敵だ」と言ったとかいう話。(144頁)
 人が「その言葉、いいぞ、おもしろいぞ」と思う理由は、もちろん意思伝達のうえでの便利さや、目新しさ、意味の鋭さ、あるいは曖昧さ、といろいろあるだろうが、根本的には声にしたとき、耳を打ったときの響きのニュアンスと生理的なリズムの快感が大きいのではないだろうか。赤ん坊が言葉を学んでいく過程を見ていても、いつもそのことを感じる。耳を打つリズムと声の響きの心地よさがまず赤ん坊を揺さぶり、体内の鼓動と響きあって生命感の高揚を導くのである。
■長谷川さんは、「どんな地方、どんな階層もそれなりの言葉の海を持っている、ということだ。それぞれの海の潮流は時代とともに変化する。変化するのはあたりまえ」(p128)と言い切り、最近の若者ことば(例えば「やべー」「こえー」「ビミョー」「ウソッ」「マジっすか」など)をスクエアーに否定せず、むしろ好奇心を持って自ら使ってみたりもする。彼女は、言葉に対して非常に貪欲で、なおかつフレキシブルな人だ。また、不眠症の彼女は、夜十時に布団に入るとラジオのスイッチを入れ、NHK第二放送の気象通報を聞きながら眠るのだそうだ。「南大東島では東南東の風、風力2、晴れ、11ヘクトパスカル、気温は28度」っていう「あれ」だ。彼女は、男性アナウンサーの静かな声を聞きながら、半覚醒状態で日本中を世界を旅する。(おわり)

 『とんぼの目玉』長谷川摂子(つづき)   2009/03/19 

■こういう言い方が正しいのかどうかわからないが、 長谷川摂子さんは、東大全共闘の残党だ。東京外語大を卒業して東大大学院に入学した長谷川さんは、夫である哲学者・長谷川宏氏と伴に「文共闘」というノンセクトの組織に属していた。たしか、『ゲド戦記』の訳者、清水真砂子さんも全共闘の残党であったと思う。でも、じつは「そのこと」がとても重要なのだ。闘争に敗北し疲れ果てて、現場からは退場を余儀なくされた長谷川さんは、保育園の保母さんになった。

失意のうちの彼女を支えたのが、一冊の本だった。それが、筑摩書房・現代日本文学全集12『柳田国男集』だ。

 この本を読み始めたには二十代の半ば。いい潮時だったと思う。世は吉本隆明だ、谷川雁だ、丸山眞男だと、民主主義と左翼思想をめぐって、生活に根のない学生たちが、だからこそ大状況を観念的につかんで考えようとして、熟した頭で議論をしていた時代だ。そのころ、議論の場に行き交っていた言葉は「展開してみろ!」だった。私は全然、展開できず、いつもかたすみで、他人の<展開>をあきれたように聞いていた。まるで穴から顔だけ出してきょろきょろするねずみだった。顔を出してはひっこめて吉本隆明をかじり、谷川雁をかじり、首を傾げては、また穴から顔をだしていたのである。

『とんぼの目玉』長谷川摂子(未来社)p202 〜203より引用
■重要なことは、団塊の世代に生まれた彼女が、「当時も今も」一貫して自らの言動に、きちんと責任を取っているということだと思う。戦中派の吉本隆明は、きちんと落とし前をつけているよね。高橋和巳もね、小説『散華』で言いたいことをキチンと言っている。糸井重里さんもね、責任を負っていると感じているのだと思う。諏訪中央病院の鎌田センセイは、どうなんだろうか? よく分からない。

一番ちゃんとしているのは、なんと言っても村上春樹氏だな。60年代末〜70年代初頭の全てをチャラにして企業戦士となり、バブル経済を容認した団塊の世代の人たちは、村上春樹氏がエルサレムで発言した言葉を、何回も反芻したほうがいいと思う。

そしてもちろん、その後の世代である僕らも、彼らと同様に、自ら発した言葉にきちんと責任を取らなければなるまい。

 「さよなら」をめぐる謎(その2)『とんぼの目玉』長谷川摂子(つづき)  2009/03/18 

■さて、アン・リンドバーグは『翼よ!北に』の中でどう記載しているのか? 長谷川摂子さんは、この本『とんぼの目玉』の68〜69頁で以下のように紹介している。

 この本はアンの意志的で、飾り気のない、初々しい感性にみちた旅のエッセイである。1931年、アンは夫とともにニューヨークから空路を北にとり、北極圏から東洋にいたる飛行を試みた。彼女たちは帰路、上海から船で日本の南端へ、そこから汽車で横浜へ旅し、港や駅でかわされるたくさんの「サヨナラ」の声をきいた。彼女は「サヨナラ」という日本語の別れの言葉への思いを、日本人には届きえぬ視線で、まるで空から日本語を見るように語っている。引用しよう。
「サヨナラ」を文字どおりに訳すと、「そうならなければならないなら」という意味だという。これまで耳にした別れの言葉のうちで、このようにうつくしい言葉をわたしは知らない。 Auf Wiedersehen や Au revoir や Till we meet again のように、別れの痛みを再会の希望によって紛らわそうという試みを「サヨナラ」はしない。(中略)けれども「サヨナラ」は言いすぎもしなければ、言い足りなくもない。それは事実をあるがままに受けいれている。人生の理解のすべてがその四音のうちにこもっている。ひそかにくすぶっているのを含めて、すべての感情がそのうちに埋み火のようにこもっているが、それ自体は何も語らない。言葉にしない Good-by であり、心をこめて手を握る暖かさなのだ ---- 「サヨナラ」は。
 私はこの文を読んで立ちつくしてしまった。ここにあるのは日本語の「さよなら」の真実の姿ではなく、アン独特の思惟である。いってしまえば美しい誤解だ。私はアンが異邦の人であるからこそ、その誤解に心打たれてしまう。「さよなら」を「そうならなければならないなら」と訳して伝えた人はどんな人だったのだろう。(中略)

「さよなら」はもともと意味から、たとえば宴会の席で「それでは、そろそろお開きに」というときの「それでは」と同じで、いたって軽く、意味などないような言葉だ。立ち際の呼吸を整える間投詞のようなものである。「さよなら」は「さようなら」、もっと古くは「さらば」である。ためしにまた辞書をひいてみると、「さらば」の第一の意味は「先行の事柄を受けて、後続の事柄が起こることを示す(順態の仮定条件)、それならば、それでは」とある。

■それならば、須賀敦子さんは「この話」をどのように紹介しているのか? 
手持ちの『遠い朝の本たち』は、納戸の奥にあって見つからないため、いま読んでいる新書『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』 竹内整一(ちくま新書)116ページから引用する。

……さようなら、についての、異国の言葉にたいする著者の深い思いを表現する文章は、私をそれまで閉じこめていた「日本語だけ」の世界から解き放ってくれたといえる。語源とか解釈とか、そんな難しい用語をひとつも使わないで、アン・リンドバーグは、私を、自国の言葉を外から見るというはじめての経験に誘い込んでくれたのだった。やがて英語を、つづいてフランス語やイタリア語を勉強することになったとき、私は何度、アンが書いていた「さようなら」について考えたことか。しかも、ともすると日本から逃げ去ろうとする私に、アンは、あなたの国には「さようなら」がある、と思ってもみなかった勇気のようなものを与えてくれた。
『遠い朝の本たち』
■長谷川摂子さんは、アン・リンドバーグの美しき誤解として「さよなら」の意味を紹介しているが、ぼくは「それ」もありなんじゃないか、と思った。『日本人はなぜ「さようなら」と別れるのか』の著者、竹内整一氏も、そう考えたようだ。読み終わったら、ご紹介しよう。(つづく)

 「さよなら」をめぐる謎(その1) 『とんぼの目玉』長谷川摂子     2009/03/17 

■今日は伊那東小学校の卒業式。わが家の長男も卒業証書を頂戴した。卒業おめでとう!

仰げば尊し 我が師の恩  教えの庭にも はやいくとせ

おもえば いととし このとし月  いまこそ わかれめ いざさらば

卒業式といえば、この「仰げば尊し」を思い浮かべるのだが、今の卒業式では歌われないのだそうだ。お風呂で息子に訊いたら、「そんな歌知らない」と言われた。そうか、そうなんだ。「いまこそ わかれめ いざさらば 」このフレーズがいいのにな。

■3月は別れの季節だ。あちらこちらで「さようなら」が交わされる。そんな中で、とても印象的なエッセイを読んだ。

 私は小津安二郎の映画が好きでビデオやDVDでくりかえし見ている。十回以上見ると、しまいには、見るというより空気のように映画を吸っている。台所で立ち働いているとき、音楽をかけるように小津の映画をかける。ちょっと体をずらして視線をやれば画面は見えるのだが、炊事しながらだから、ほとんど映像は見ない、聴覚で音や声や沈黙をさとり、場面の雰囲気を感じている。小津映画の気配は音だけでも部屋いっぱいに満ちる。私はその気に包まれて、ゆえ知らずやすらぐのである。(中略)

耳をすまして小津の映画を全身で浴びていると、昭和二十年代から三十年代初頭の人々の会話が、小津独特の口調をさしひいて考えたとしても、現代とはずいぶんちがうことを随所に感じる。
 たとえば「さよなら」という言葉。映画の中で若い友人同士が、なんのことはなく「さよなら」といって別れるのが、このごろ、新鮮で美しく感じられて仕方がない。あの時代、「さよなら」という言葉は普通に自然に使われていたのだ。ひるがえって考えると、近頃、私たちは「さよなら」をといわなくなった、という思いがしきりにする。若い人たちはとくにそうではないか。(中略)

友人から聞いた「さよなら」にまつわる興味深い話を思い出した。ある外国人が「さよなら」という日本語の別れの言葉が「そうあらねばならぬのなら」という意味であることを知って、深く感動したという話である。(中略)その外国人は、日本語の「さよなら」の底には、お互いが別れの必然性を納得する静かな諦念が流れていて、そこに、心打たれたのだという。

(「さよなら」をめぐる小トリップ 『とんぼの目玉』長谷川摂子 p64〜65)
■その外国人とは、「翼よ!あれが巴里の灯だ」で有名な飛行士、リンドバーグの妻アン・モロー・リンドバーグのことで、彼女の著書『翼よ!北に』(みすず書房)に「そのこと」が書かれていることを、須賀敦子さんが『遠い朝の本たち』の中で指摘しているのだいう。『遠い朝の本たち』は、ぼくもハードカバーが出てすぐ買って読んでいるはずなのだが、このことは記憶にない。ちゃんと読んでないんだな。(つづく)

 『やさしい現代詩 自作朗読CD付き』小池昌代・林浩平・吉田文憲・編著(三省堂)   2009/03/16 

■土曜日に高遠町図書館で見つけて借りてきた、『やさしい現代詩 自作朗読CD付き』(三省堂)。これはいい。すごくいい。自作朗読CDが、いいのだ。

詩の言葉は、本来は人の口から発せられた音声として耳に入り、聴く人の頭の中で意味あるものとして再構成されるのかもしれない。そんなことを思った。ぼくの父はアルコールは全く受け付けない人だったが、宴会の折にはよく、島崎藤村の詩を朗々と暗唱して聞かせていた。気のきいた詩の数編も暗唱できないようでは、教養人ではなかったのだ。西欧では昔からそうだ。詩とは耳から聴いて味わうものなのだな。そんなことを思った。

掲載された詩の中で、朗読された詩の中で、ぼくが一番好きな詩は、

「西武線練馬映画劇場のおばあさんへ アミの手紙 古賀忠昭のために」 稲川方人  だ。

稲川方人の声がいい。読み方がいい。劇団「転形劇場」にいた大杉漣に声が似ている。佐々木昭一郎のNHKドラマ『紅い花』に主演した草野大悟にも、何となく雰囲気が似ている。2度目にこの詩を聴いたとき、図らずも涙が一つぶ流れ落ちた。センチメンタルだけれど、土砂降りの雨なのだけれど、淡々と乾いているのだ。これが「詩」というものか。

次に好きな詩は、藤井貞和「あけがたには」だ。新川和江「欠落」もいいな。上手いと思った詩は、小池昌代「夕日」。朗読も上手い。朗読として最も面白いのは、なんといってもねじめ正一氏の「かあさんになったあーちゃん」か。これは是非まねして、子供たちの前で読んでみたい。女性の詩として、怖いなって思ったのは、平田俊子「宝物」。男は、むかし好きだった女の子のイメージを、いつまでも決して捨て去ることなく大切な宝物として取っておくのに、女の人は「こんなにも」いとも簡単に捨ててしまうのか! 驚いた。しかも、「私は少しも傷ついていない」のだ。あぁ、男と女はかくも違う生き物なのだな。

今週水曜日には、高遠町図書館に返却しますので、興味がある方はぜひ読んで(いや、聴いて)みて下さい。

 ちまたで噂の「HQCD」は、確かにいい音がするぞ!(その2)     2009/03/15 

■まず、前回の続き。『BASH !』 DAVE BAILEY SXTET は、そんなワケでレコードは持っていたがCDはなかった。渋いジャズ・ギタリスト、グランド・グリーンを擁する姉妹編『REACHING OUT』 Dave Bailey Quintet の方はレコードも所有しておらず、ぜひ一度聴いてみたいとかねてから思っていた。そしたら、昨年末に JAZZTIME/JAZZLINE レーベルのこれらのアルバムが「HQCD」で発売されたのだ。

このレーベルで一番有名な『スピーク・ロウ』ウォルター・ビショップJr (p)を始め、『エンジェル・アイズ』デューク・ピアソン(p)、『グルーヴィー!』フレディ・ハバード(tp) などと供に上記2枚も購入。今回は、通常CDではなく「HQCD」のみでの発売だったので、1枚 2,600円(税込)と、今どき再発ジャズCDにしては高価だったにも関わらず、仕方なく買った。

HQCDに先行する、日本ビクターが開発した高音質CD「SHM-CD」には全く興味がなく、買ったこともなかった。だって、普段ソニーの安いラジカセで聴いているワケだし(たまにラジカセをiPod HiFi につないで音質を少しは良くしてはいるけれど)あとは、Mac の iTunes に取り込んで、iPod で聴くだけでしょ。だったら「高音質」なんて意味ないもの。

■で、今回初めて「HQCD」を聴いてみて驚いた。ぼくの貧弱なラジカセで聴いても、明らかに「音がいい」と違いが判ったからだ。レコードに近い「太い音」がした。特にベースの音が締まって聞こえた。ドラムスも、シンバルやハイハットが決してドンシャリした五月蠅い音でなく、澄んでリアルに聞こえたのだ。これは意外だった。本当にイイ音するじゃん! 今までも、デジタル・リマスタリングとか、24ビットCDとかで同じCDが何度も再発されてきて、メーカーの惹句にまんまと騙されてぼくも「同じCD」を何枚か持っているのだが、結局は「その思い込み」ほどには音の違いは分からなかったというのが正直な感想だ。

ところが、HQCDは明らかに「音がいい」と、ぼくの耳でもその違いが判るのだ。これは凄いことではないか?

でもよく考えると、そんなことで「CDの音」が変わってしまうのかよ、じゃぁ、今までいったい何をしてきたの? そう難しい技術じゃないでしょ? そう言いたくなる。今や音楽はネットからダウンロードするものだし、TSUTAYA でCDをレンタルしてきて自分のPCに取り込み、携帯や iPod で聞くものだから、CDはぜんぜん売れない。だからメーカーにとって「SHM-CD」「HQCD」それに、ソニーの「Blu-spec CD」は起死回生の逆転ホームランになるかもしれず、必死でPRを続けているワケだ。オーディオ評論家も以下のごとく一生懸命ヨイショしている。う〜む、どうなんだろうか? 悩むところだ。結局は、自分の耳を信じるしかあるまい。

■オーディオ評論家、及川公生氏の発言。 「HQCD の驚異的再現性」「HQCDについて」「話題の高音質CDを聴き比べる」「Speak Low/Walter Bishop Jr.のHQCD盤はたしかに高音質だった。」
 

 ちまたで噂の「HQCD」は、確かにいい音がするぞ!『BASH !』 DAVE BAILEY     2009/03/12 

■これでようやく一段落つける。やれやれよかった。

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■デイヴ・ベイリーの『バッシュ!』を初めて聴いたのは何時のことだったか…… 場所は憶えている。新宿東口のジャズ喫茶『びざーる』でだった。今はもうないのかなぁ、新宿アルタ前の横断歩道を紀伊國屋書店方面に渡らずに、左折して歌舞伎町へ向かう坂道の左側にあって、狭い階段を地下に下って行くと、煉瓦で固められた防空壕のような穴蔵が出現し、そこが『びざーる』だった。そうは行かなかったな。新宿と言えば『DIG』だったし、アルコールが飲みたいときには、もう少し先に行くと『DUG』があったからね。

■DiskUnion の山本さんは、B面を薦めているけど、この時に聴いたのは A面だった。でも、やっぱ「A面」でしょ! 無名のうちに癌で死んじゃった薄倖のテナー・マン、フランク・ヘインズが兎に角いいんだ。彼のサックスの音色を例えるとすれば、「滑舌のいいハンク・モブレイ」だな。彼が1曲目の _ Grand Street _ のテーマを奏でると、ケニー・ドーハム(tp) カーティス・フラー(tb) が加わって3管ユニゾンとなるのだが、この部分を聴くと、ぼくはいつだってゾクゾクしてしまう。おぉ〜これぞジャズじゃ。2曲目の _ Like Someone in Love _ もいい。これは、トミー・フラナガン(p) ベン・タッカー(b) デイヴ・ベイリー(ds) のピアノトリオ演奏。ドラマーがリーダーなのに、品がいいデイヴ・ベイリーは、決して出しゃばらないのね。そこがいい。そうして、トミフラがめちゃくちゃいい仕事してるのよ。いぶし銀の職人芸をね。

当時、都内のレコード屋をあちこちずいぶん廻ったけど、このレコードは手に入らなかった。1975年にトリオレコードから日本盤が出ていたのにね。そんなある日のことだ。たしか、銀座並木座で初めて小津安二郎監督の『東京物語』を見て感動し、一人リュックを担いで尾道まで旅したことがあった。ということは、まだ学生の頃か。尾道駅前から左手にアーケードの商店街が続いていて、その中に中古レコード屋さんがあって、そこで偶然この『バッシュ!』を発見したのだ。うれしかったな。値段はやや高かったが、もちろん買って帰った。ライナーノートは、岡崎市の外科医、内田修先生だ。内田センセイは文章がうまいね。(つづく)

 忙しい、間に合わない!      2009/03/06 

■来週火曜日の午後は、伊那東小6年生全員対象に「薬物乱用防止」の授業を1時間しなければならないのだが、ぜんぜん準備が出来ていない。毎年この時期に授業をさせてもらっていて、前半はいつも黒板にチョークで書きながら説明していたのだが、字は汚いし、書き順は自信ないし、漢字が書けないしで、生徒さんたちの前で毎回冷や汗モノなので、今回は PowerPoint でスマートに決めてやろうと考えていたのだ。

しかし、今週火曜日の伊那市役所が終わって気が抜けてしまい、火水木と何もせず、金曜日もこの時間になってしまった。明日の土曜日は、午後から長野市で郡市医師会生涯教育担当理事会議に出席しなければならず、夕方終了後に車で日帰りするのだが、翌日の日曜日は、朝7時発の中央道高速バスに乗って名古屋へ行き、午後1時からナゴヤドームで始まる中日・日本ハムのオープン戦を家族で見に行くことになっているのだ。伊那へ帰り着くのは夜10時過ぎ。月曜日の夜には「週刊いな」が我々パパズの取材に来ることになっている。おぉ、時間がないぞ! 何とかしなきゃ。

■来週火曜日の夜は、医師会で4月からの伊那中央病院夜間一次救急診療に関わる話し合いがある。
水曜日の午後は、茅野市図書館まで出向いて絵本のはなしをさせていただき、同日夜には駒ヶ根の昭和伊南総合病院で両伊那小児科医会がある。「えいやっ」て、何とか乗り切るぞ! ガンバレ、自分(^^;;

 『小さな島のちっちゃな学校 野忽那島シーサイド留学物語』(その2)     2009/03/04 

『小さな島のちっちゃな学校 野忽那島シーサイド留学物語』沢田俊子(汐文社)の話のつづき。

興味深かったのは、第6章「島の最後の小学生」の項だ。島在住で最後の小学生になってしまったのは、祐介くん。平成20年度の松山市立野忽那小学校在校生は、6年生の祐介くんと、シーサイド留学でやって来た、3年生女子1人、4年生男子女子の2人、5年生の男子1人の計5人。この5人が本の表紙に笑顔で写っている。写真左端で穏やかな表情で佇んでいるのが祐介くんだ。

 留学生は、シーサイド留学センター(寮)で共同生活をすることになっています。島の人たちも高齢になり、制度発足当時のように、里親ができる家庭がほとんどなくなってしまったからです。
 寮母さんに見守られながら、留学生は、みんなで朝食や夕食をいっしょに食べ、お風呂に入り、元気に野忽那小学校に通うことになります。自宅から通っている自分だけ、のけものにされるような気さえしてきました。

 そんな時、大阪のテレビ局からの取材の申しこみがありました。毎日放送の「知っとこ!」という番組の中で、シーサイド留学を紹介するというのです。
 奥本ディレクターは、「ひとりぼっちになった祐介くんの心に寄り添って取材をしたい」と言いました。
 これには、学校の先生や島の人たちもおどろきました。というのも、今まで、たくさんの新聞社やテレビ局が島に取材に来たのですが、そのほとんどが、留学に来る子どもたちばかりにスポットを当てていたからです。(中略)

 悩んでいる祐介くんに直接インタビューしたのは、お笑いコンビ「TKO」の木下隆行さんでした。テレビでいつも笑いをとるためにふざけている木下さんですが、たった一人で留学生を受け入れなくてはならない祐介くんの悩みを、静かに、やさしくきいて、相談にのってくれました。(『小さな島のちっちゃな学校』p62 〜66)

■先だって高遠北小学校で行った「ノーテレビ・デー」講演会の終了後に、校長室でお茶を頂きながら PTA会長のおとうさんがこんなことを言った。
「わが家の周りには、すぐそこに山はあるし川もあるし、自然はいっぱいなんだけれど、子供がいないんです。息子が学校から帰ってきても、外でいっしょに遊ぶ友だちが同じ集落には一人もいないんですよ。だから、家の中でいつもゲームしてる」 過疎の町では少子化の影響はこんなところにも出てくるのだね。

この3月で廃園が決まってしまった、新山保育園の最後の卒園生の男の子が、先週土曜日に風邪で受診した。4月からは、伊那市内で一番小さな新山小学校の1年生だ。一人っきりの入学式になるかと思われたのだが、他の地区から「ぜひ新山小学校へ入学させたい」という親御さんがいて、新入生は2人になったのだそうだ。よかったね。林京子先生に教わるのかな? だったらいいな。


■『とんぼの目玉』 長谷川摂子(未来社)読了。これは面白い本だった。感想はまた後日。

 

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