しろくま
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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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2009年:<1月、2月><3月>

●「不定期日記」●

 相変わらず、木曜日の午後は忙しい    2009/04/30 

■木曜日、最後の患者さんの診察が終了したのは、午後7時45分だった。直接来院した患者さんの中には、1時間半以上も待たせてしまった人もいた。本当にすみませんでした。おととい水曜日は休日当番医だった。93人診た。まだB型インフルエンザがけっこういる。天竜川の西側でも、伊那小2年毅組での流行が目立つ。しかし、このGWで終息に向かうだろう。

でも、新型インフルエンザが既に日本へ上陸していたとなれば大変だ。GWの民族大移動で一気に日本中に拡散されてしまう。しかし、伊那保健所も上伊那医師会も、具体的な対応策をまだ何も示してくれない。緊急ファックスで「怪しい患者さんが出た時には、至急保健所へ届け出て下さい」という連絡が廻ってきただけだ。それに、厚労省がすすめる「発熱外来」といったって、小児科には熱の出た子が来るのだ。いったいどうすればいいのか? まぁ、今回の新型インフルエンザは幸いにして毒性は強くなく、日本では梅雨に向かう季節でもあり、流行が蔓延するとは考えにくい。ただただ不安を煽るだけが商売のマスコミに、踊らされないことが大切だ。

『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・キーワード編』    2009/04/28 

■しつこく『東大アイラー・キーワード編』の感想。『歴史編』よりもさらに知的好奇心を刺激する、ワクワク・ドキドキの面白本だった。

第一章「ブルース」より、気になった部分をピックアップ。
 これ、聴いてまずぱっと感じるのは「係留」って感覚だと思います。係留、または、反復というか、ある場所に留まったまま、同じところをぐるぐる回って終わらないっていう感じね。(中略)これは怒っているのか喜んでいるのか、悲しんでいるのか楽しんでいるのか判然としない(中略)何というか、歌詞も宙吊り感たっぷりね。

 暗いものと明るいもの、悲しいことと楽しいこと、怒りと喜び、善意と悪意、生と死。---- 一般的には対立していると考えられるこういった要素が、係留し反復する時間の中で、グダグダに混在しているんだけど、しかし何か、はっきりとした手応えのあるエモーションで唄われていく。こういったものが、僕たちが初期の「ブルース」を聴いたときに受ける印象の特徴だと思います。(中略)ブルースは悲しみを表現する唄だ、みたいに言われることも多いんですが、しかしブルースは短調で書かれた曲ではない。ブルースというのは西欧的な短調世界に属する曲ではない。ってところに注意して欲しいと思います。(中略)ブルースはそうじゃなくて、メジャーとマイナーが不調和のままマーブルみたいな形で共存していて、長短調性の対比によって物語を語るってことをしない。二項対立によって発動するドラマっていうものを設定しない。(p26〜34)
うーむ、こうやって書き写していたんじゃ、いつまで経っても終わらないねえ。さらに、57頁からの楽理のはなしになると、もうついていけないのが情けない。ただ、バークリー・メソッドは「ブルース」をちゃんと解析してなくって、「モダン・ジャズ」っていう平均律を基盤にした黒人音楽は、複雑な迂回路を経て、ブルースを記号化することに成功したんだな、きっと。ゲストの飯野友幸先生の話では、ロック界のストーンズやクリーム、それにレッド・ツェッペリンが上手にブルースを取り込んでいる、というところと、映画『ジャズ・シンガー』のアル・ジョルソンがユダヤ人で、ユダヤ人と黒人音楽との関連についての話とかが面白かった。


第二章「ダンス」: ジャズ評論で「リズム(律動)とダンスの関係」を歴史的に考察し、きちんと言及したのは初めてじゃないかと思う。クラブ世代のジャズ本も持っているが、そんなこと書いてなかったな。ゲストの野田努さんは、「モッズ」というイギリス・サブカルチャーとジャズとのつながりを分かりやすく解説してくれた。

■しかし、この本で一番面白かったのは、第三章「即興」第四章「カウンター/ポスト・バークリー」だ。大友良英氏と菊地成孔氏の対談が面白すぎる。それから、濱瀬元彦氏の講義。ぜんぜん分からないのだけれど、めちゃくちゃ凄い!ということだけは感じた。音楽理論って、数学や物理学のように明晰な整合性を持っているのだということが驚きだった。しかし、「音響」は音の波長を単に物理学的に解析したのではわからない。人間の耳には、物理学的には「聞こえないはずの音」が確かに聞こえるのだ。耳の奥にある、蝸牛基底膜の音のセンサーの反応と、それ以降の経路(大脳聴覚野へ至る)を経て、「聞こえないはずの音」が協和性を持って響く。それがブルー・ノートなのだと。違うか? まったく自信ないが……

それにしても、濱瀬元彦氏って凄すぎる。日本人でこんなこと(と言っちゃ失礼だが)長年一人で研究しているとは驚きだ。なんという探究心! しかも、10年に渡ってチャーリー・パーカーのアドリブを600曲採譜して解析し、「ジャズのイディオムの九割は全部パーカーです。それを世間が分かっていない。」と豪語する。おぉ! 「楽理というのはシステムです。しかし、100%の普遍性を持つシステムはない。全ての音楽は自分の理論の中で動いているなどという理論は信用しないほうがいい」 カッコイイなぁ。

■それから、この本を読んで一番疑問に思ったこと。それは、「大谷能生って、いったい何者?」だった。昭和47年生まれだから、ぼくより14歳も年下。それなのに、この博識。資料魔。先日、高遠町図書館から借りてきた『日本ジャズの誕生』という本では、あの、日本ジャズの生き字引である瀬川昌久氏と戦前のジャズに関しても対等に渡り合っている。いったいどこでジャズを聴いてきたんだろう? まさか「ジャズ喫茶」ではあるまい。謎だ。

 伊那のパパズ「絵本ライヴ」(その52) 諏訪郡富士見町図書館   2009/04/26 

■今日は富士見町図書館の「子ども読書の日スペシャル」のイベントに呼ばれて行って参りました、諏訪郡富士見町。ぼくは伊那で開業する前まで、厚生連富士見高原病院に勤務していて、12年前の3年間を富士見町図書館近くの二ノ沢団地に一軒家を借りて住んでいた。だから、富士見町図書館には当時ずいぶんとお世話になったな。1歳4カ月の長男を連れてクリスマスの読み聞かせ会に父子で参加し、せっかくプレゼントを渡してくれたのにサンタさんが怖かったのか、息子が大泣きして困ったことをよく憶えている。あの時の長男も中学1年生になった。時の経つのは早い。感慨深いなぁ。

■この日は、午前10時から既にイベントが始まっており、ぼくらの前に「ふじみ子どもの本の会」と、40年!の歴史を持つ、茅野市保育士の人形劇サークル「くりたけ」の公演があって、午前11時10分から「トリ」でぼくらの出番となった。メンバーのうち、坂本さんと伊東パパが来られず、今日は、宮脇・北原・倉科3人の布陣。3人だと、どうしても歌が弱くなるねぇ。仕方ないけど(^^;; 3人だから、2冊づつ読めるかと思ったのだけれど、案外時間がなくて、結局、それぞれ1冊読んでお終いだった。ぼくは『かあさんになったあーちゃん』の「ねじめ正一/コンプリート・ヴァージョン」を、昨日の晩さんざん練習してから本番に臨んだのだが、結局はお披露目できなかった。また次回ということにしよう(^^;)

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<本日のメニュー>

1)『はじめまして』新沢としひこ・作、大和田美鈴・絵(すずき出版)
2)『さかさのこもりくんとてんこもり』あきやまただし作・絵(教育画劇) → 宮脇
3)『ぐやんよやん』長谷川摂子・文、ながさわまさこ・絵(福音館書店) → 北原
4)『かごからとびだした』(アリス館)
5)『しちどぎつね』たじまゆきひこ(くもん出版) → 倉科
6)『のびのびの〜ん』(アリス館)
7)『ふうせん』(アリス館)


■『東大アイラー・歴史編、キーワード編』を読み終わり、何だか無性にジャズが聴きたくなった。「この本」の一番の効用は、まずは「その点」にあり、それは作者が最初から意図したものだったのだろう。ぼくの場合、取りあえず「この本」で紹介された音源の半数以上を所有しているのだから、それを聴いてみない手はない、というワケだ。で、昨晩レコード棚からピックアップして深夜ヘッドフォンで聴いてみた。デレク・ベイリーが珍しくアコースティック・ギターで臨んだ、1978年来日時の「名古屋でのライヴ」もなかなかだったが、チャーリー・パーカーが一番よかったかな。そうか、少しだけパーカーが判ってきたような気がした。

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レコードを聴きながら、「あっ!」と思った。チャーリー・パーカーの「サヴォイ盤」には、19歳のマイルス・デイビスが参加している。そうか、モダン・ジャズの歴史は、結局はマイルス・デイビス一人の人生の歩みだったのだな。

『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』(その3)    2009/04/23 

■今日は、北原こどもクリニック開院記念日。12年目に突入した。開業当初の、あの新鮮で緊張した気持を思い出した。それにしても、伊那市内では「木曜日午後休診」の医院が多くて困ってしまう。この4月に上牧で開業した竹松先生も、やはり「木曜日午後休診」だ。中村クリニックも、高橋医院も、滝小児科も、いくやま医院も木曜日の午後はやってないので、そうすると、必然的に仕方なくみんな当院へやってくる。だから木曜日の午後は週で一番忙しい。

それなのに、今日はよる7時から伊那中央病院救急部の「小児一次救急当番」が入っていた。10分遅れで到着。3人診たが、みんな当院のおなじみさん。スミマセン(^^;; しかも、うち2人は救急外来で点滴になった。電子カルテの「処置オーダー」の仕方を教わって、なんとかこなす。ごめんなさい。


■昨日の発言は、ようするに単なる嫉妬ですね。恥ずかしいな。菊地成孔+大谷能生を同時代で読める若者たちが、羨ましかったのだ。ぼくがジャズを聴きはじめた頃の先生は、まずは植草甚一であり、続いて、油井正一(「アスペクト・イン・ジャズ」のヒトですね)、野口久光、粟村輝昭、大和明、岡崎正通、佐藤秀樹 、本多俊夫、間章、相倉久人、悠雅彦さんだった。彼らの著書を、何冊も何冊も、何度も何度も読んだ。いま気が付いたのだが、ジャズ・ベーシストだった本多俊夫さん(本多俊之の父親でもあります)を除くと、全員ミュージシャンではない。だから、楽理が弱かったんだね。

菊地成孔+大谷能生コンビは、自らミュージシャンであり「ジャズの楽理」(いわゆる「バークリー・メソッド」のことですね)を熟知している。その利点を最大限に活用して、彼らがリアル・タイムで経験できなかったからこそ逆に、冷徹な視点でもって「ジャズの黎明期〜最盛期〜衰退期〜終焉」を、俯瞰し再構築して見せることができたのだと思う。同じことが、最近読んだ『神器 軍艦「橿原」殺人事件』奥泉光(新潮社)にも当てはまるかな。「歴史」を語るのに、何もリアルタイムで当事者としての経験は必要ないのだ。いや、むしろ「それ」は、邪魔になるに違いない。

『東大アイラー・歴史編』の読み所は、ビバップの章と、1959年の章にある。コルトレーンの「ジャイアント・ステップス」は以前から好きで何度も何度も聴いてきたのだけれど、これほど論理的に構築された楽曲であったとは判らなかった。それから、オーネット・コールマン。彼は黒人が生まれながらに持つ「タイム感覚」を欠如した人だったんだね。何かすっごく納得した。

あとは、「コーダル・モーダル」ね。この本を読んでみてよく判ったのだけれど、ぼくが一番好きなジャズは、この「コーダル・モーダル」だったのだ。菊地成孔氏も一番好きみたい。マイルスは『キリマンジャロの娘』〜『Get Up With It 』あたりが実は好きだったりすることを再確認できた。あとは、ウエイン・ショーターね。レスター・ヤングも、コルトレーンもショーターも、キャノンボール・アダレイもアート・ペッパーも、そしてチャーリー・パーカーも(ついでにぼくも)乙女座なのさ。だからみな、贔屓にしている。

ただね、アイラーはいいよ、統合不全のヒトで。でも、ぼくの大好きなサックス・プレーヤーであるジュゼッピ・ローガンの「Dance of Satan」を、バカにするのだけは止めてほしい。ジュゼッピ・ローガンって、じつはコンテンポラリーの人だよ。ニューヨークの路上で野垂れ死にしたんだけど、今の時代の派遣労働者の「苦渋の雄叫び」のような音を、彼のアルトサックスは絞り出すように切なく絶望的に奏でるのだから。


(4月24日:追記)ジュセッピ・ローガンじゃなくて、ジュゼッピ・ローガンでした。しかも、よく読むとバカにしたんじゃなくて、逆にフリー・ジャズの代表的名盤としてリスペクトしていたのだね。失礼いたしました。ごめんなさい。さらにさらに、検索したら野垂れ死にしたんじゃなくて今でも生きているんだって。また知ったかぶりがバレてしまった(^^;; このESP盤では、「Dance of Satan」が入った A面はほとんど聴かなかった。もっぱらB面2曲目の「Bleecker Partita」ばかり。これが一度聴いたら忘れられない印象的な旋律の曲で、ジュゼッピ・ローガンは、ぐじゅぐじゅ、うねうねした変なソロを延々と続けるのだ。これが妙に癖になるのだな(^^;;

『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』(その2)    2009/04/22 

■菊地成孔+大谷能生の2人は、じつに的確な言葉を使う。例えば、これは今読んでいる『東大アイラー・キーワード編』に載っている言葉なのだが、デレク・ベイリーの即興演奏は「イディオムに根ざさないインプロビゼーション」であり、「何かのスタイルを演奏するんじゃなくて、何にもならないように音楽を作っていく。それが即興演奏では可能だ、と。」(p252)とか、「デレク・ベイリーはこういった演奏をもの凄い修練を重ねて、即興演奏の中でコントロールできる要素を全部洗い出して、その組み合せをこういった演奏時にリアルタイムで判断して、前後の音が何かのイディオムを形成してしまわないように慎重に慎重に配置していく。この演奏はそんな作業からできているものなんですね。」(p252)というふうに説明してくれる。

デレク・ベイリーのLPは今でも3枚持っていて、むかし何度か無理して聴いてみたが、まったく歯が立たなかった。そうか、そういう意志の上に構成された即興演奏だったんだ。今日初めて判ったよ。よーく判った。ただ、その手持ちのLPを納戸から探してきて再び聴いてみた上での「判った!」ではなくて、本を読んだだけで判ったような気がしたのだ。実はこのことはすっごく重要で、「この本」の一番危険な部分を端的に表しているように思う。すなわち、読者は「音を聴かなくとも、ジャズが判ったような気になれる」ということだ。

チャーリー・パーカーのことを、20代・30代の若造が「この本」を読んだだけで「判ったような気になれる」。そんなの、ぼくには許せないね。絶対に。ジャズを聴きはじめて32年経つが、正直言って、チャーリー・パーカーのことは未だによく判らない。何度も何度もレコード聴いて、CDでも買い直して聴いて、でもまだ判らない。コルトレーンだって、オーネット・コールマンだって、マイルス・デイビスだって、ぜんぜんわからない。だから、むかし集めたレコードも捨てずに、時々取りだしては思い出したようにターンテーブルにのっけて聴いている。確かにジャズには的確な理論が重要ではあるが、無駄な時間と苦行に満ちた経験だって、その理解のためには大切なんじゃないの? と、50歳のオジサンは言いたいのだった。(さらにつづく)

『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・歴史編』(文春文庫)    2009/04/20 

■B型インフルエンザは、この週明け、ゆっくりとではあるが拡大傾向にある。竜東保育園、南箕輪中学校1年生でも患者がでた。結局、編集後記は書きかけのまま奈良へ向かい、昨日の夜に帰ってきてから夜中の1時半に何とか仕上げて送信した。やれやれ。

奈良への行き帰りにずっと読んでいたのが『東京大学のアルバート・アイラー 東大ジャズ講義録・キーワード編』菊地成孔+大谷能生(文春文庫)。難しいが面白い。半分(ブルース、ダンス)まで読んだ。前編の『歴史編』がめちゃくちゃ面白くて一気読みだったので、即後編へと突入したのだった。

『東大アイラー・歴史編』の一番のポイントは「スッキリ分かりやすい」ということだ。菊地成孔氏に関しては、以前テレビの「情熱大陸」で見て興味を持ったのだが、彼のCDや著書は買ってみようとまでは思わなかった。雑誌か何かで読んだ菊地氏の文章が、あまりに衒学的で煙に巻かれてしまったので、「この人は、ちょっと合わないな」と決めつけてしまったからだ。ただ、『東大アイラー・歴史編』が単行本で出た時にすごく評判になって、気にはなったのだけれど買わなくて、でも今回文庫化されたのを機に読んでみたらビックリした。現代思想の難解な用語が散りばめられて音楽理論のテクニカル・タームも満載で、読んでいてぐるぐると目が回るような「菊地氏の文章」が、この本では全て封印されていたからだ。しかも、「目からウロコ」とはまさに「この本」のためにあると思ったな。長年よく分からずにモヤモヤしていた「ジャズのいろいろ」が、こんなにもクリアカットに解説してもらえるとは。そう、まさにこういう「ジャズ批評」を、ぼくは待ち望んでいたんだ。(つづく)

 ヒマだった小児科外来が、何だか忙しくなってきたぞ       2009/04/16 

■インフルエンザB型は、美篶小学校での流行はピークを過ぎた模様だが、伊那東小ではジワジワ続いている。あと、富県小や箕輪東小でも小流行が見られている。西春近北保育園では、A型インフルエンザが今どき流行中だ。

■さて、忙しい日々が再開した。信州大学小児科同窓会報(第46号)の編集後記の締め切りが今週末だったことを思い出したのだ。ただ、今週末は土曜日を休診にして日本小児科学会総会に出席するために奈良まで行かねばならない。帰りは日曜日の夜遅くになる。と言うことは、今日明日じゅうに原稿を仕上げなければならないワケだ。という事態に、今朝気が付いた。まったくもって、オメデタイねぇ。四苦八苦して、先ほど最初の400字だけ書けた。本当は反則だけれど、ネット上で先に公開してしまいます。ごめんなさい。

 今年の高遠城址公園の桜は、あっと言う間に咲いて1週間で散ってしまいました。今日の昼休み、落花盛んな公園の下を通って、ぼくの母校である高遠中学校へ卒業以来初めて出向きました。「見直そう!メディア漬け」と題して、1、2年生を対象に50分間授業をさせてもらったのです。校医を務める伊那東小学校では、この5年間毎年、卒業間近の6年生に薬物乱用防止の授業を行ってきましたが、中学生相手は初めてで、ずいぶん緊張しました。でも、難しい年齢の3年生が修学旅行で留守だったことも幸いし、生徒たちは静かに集中してぼくの話に耳を傾けてくれました。「メディアは時間泥棒! ハイこれ、大切だからちゃんとメモしといて」と言うと、みな一斉に鉛筆を走らせます。素直でいい子たちでした。ただ、ぼくが在学中には1学年5クラスあったのに、いまの高遠中は2クラスしかありません。急速に進む過疎化・少子化の現実を思い知らされた1日でもありました。
                              


 B型インフルエンザ流行拡大のきざし            2009/04/13 

■今日の月曜日は、1日だけで25人のB型インフルエンザを診断した。このうち12人が美篶小、4人が伊那東小だった。このほか大萱保育園、美篶西部保育園、美篶保育園でも少し出ている。今日の感じだと、今後まだまだ流行は拡大しそうな勢いだ。

■ネットで検索したら、椎名誠さん自身が作る四川省風「死に辛そば]」が載っていたが、普通のラー油を使っていることと、野外で大量に作っているので、ずいぶんと印象が違う感じがしたな。石垣島ラー油は、じつはあまり辛くないのです。それから下に沈殿している固形成分に旨味が集中しているから、耳掻きのような小さな匙で底の沈殿物もすくって使うのです。そうでないとダメだな。

 四川風ぶっかけうどん を試してみる            2009/04/12 

■『大きな約束』椎名誠(集英社)の「四川風ぶっかけ蕎麦」がずっと気になっていて、金曜日の昼休みに台所の乾物置き場を探したら、蕎麦はなかったが乾麺のうどんがあった。稲庭うどんではなくて、川越の矢島製麺所の麺だ。年末にお歳暮で問屋さんからもらったもの。稲庭うどんよりも少し細い。10分間ゆでてから冷たい水にさらしてしめる。めんつゆを「ざるそば」用に薄めてお椀に入れ、たっぷりの刻みねぎとともに麺を投入。仕上げに、石垣島ラー油じゃなくて、まがいものの「久米島のラー油」(わしたショップで購入)を、箸で中身をしっかりかき混ぜてから「どっ」とかける。なかなか美味そうじゃないか!

箸で底まで全体をがしがしかき混ぜてから麺を口に運ぶ。いや、これは美味いぞ! 確かにいける! 「まがいもの」は、「ほんもの」よりもピリリと辛いが、けっこう奥深い複雑な味わいがあって、それなりに頑張っているんじゃぁないか? う〜む、これは癖になりそうだね。今度は蕎麦の乾麺で試してみよう(^^)。

■土曜日は朝から晴天で、絶好のお花見日和。ぼくは午後3時から松本で長野県小児科医会役員会があるため、午後1時半前に最後の患者さんを診てから車で出発。伊那市街は、高遠方面へ向かう車で大変な混雑、伊那インターへの道も帰り客の車の列が続く。焦って、中央道の追い越し車線を飛ばし、3時5分に松本市医師会館に到着。やれやれ。

役員会終了後に、パルコ地下の「リブロ」へ。探していた本は見つからなかったが、『草食系男子の恋愛学』森岡正博(メディアファクトリー)と、『人声天語』坪内祐三(文春新書)を見つけて購入。二人とも、ぼくと同じ1958年生まれの気鋭の論客だ。森岡正博氏の本では、本当は『33個目の石』というのを買いたかったのだが、見つからなかった。残念。

その足で「ほんやらどう」へ行って、ジャズのCDを物色。新着コーナーで、未開封の『バラッド / レナータ・マウロ』(国内版)と、菊地成孔 DUB SEXTET 『DUB ORBITS』ほかを見つけて購入。レナータ・マウロは、イタリアの歌手で、ぼくは昔、新宿西口「オザワレコード」で壁にかかげられていた「このレコード」のジャケットを一目見てほれてしまい、中身も聴かずに即購入したのだ。いわゆる「ジャケ買い」ってヤツですね。でも、このレコードは本当に「当たり!」で、特にB面はよかったなぁ。さんざん聴いた。いま、レコード棚を探したら見つからないので、たぶん、ジャズ喫茶「BASE」にでも持って行ったままなのだろう。たしか、ジャズ・ヴォーカル好きの小町谷先生のお気に入りだったみたいだから、今度このCDを持って久々に「BASE」へ行ってみようか。

 高遠城址公園、満月と満開の夜桜             2009/04/10 

■明日の土曜日、明後日の日曜日が見ごろ。でも、すごい混雑だと思うよ。

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 知らないうちに、ローソンがつぶれていた、かと思ったら改装中なんだって     2009/04/09 

■ナイスロードに、狐島からの未来通りが合流する角にあったローソンが、知らない間につぶれていた。そう言えば、最近よるナイスロードを車で通ると、妙に「もんじゃ焼き屋さんがある、あの信号の角」が暗いことが気になっていたのだ。そうか、つぶれちゃったんだ。流行っていたのに、ローソン。コンビニ業界はほんと大変なんだね。新規開業が続く医療界の比じゃないんだね。

ところで、何故ローソンがつぶれたことが判ったかと言うと、つい最近、妻の知らない現金収入が思いがけずあって、上伊那医師会の事務の人が、直接医院の方へ理事会・県医師会出席の交通費を現金で持ってきてくれたのだ。「おぉっ、ラッキー!」ぼくは即アマゾンにアクセスして、欲しかった本、CD、DVDを次々とクリックしたのだった。でも、自宅に宅配で荷物が届くと即バレてしまうので、姑息な手段を思いついた。そうだ! ローソンで「ブツ」を受け取ればいいじゃん。という訳で、ナイスロード沿いにある「くだんのローソン」を指定して荷物を届けてもらうようにしておいたのだが、肝心のローソンが無くなってしまって、ボクの注文は結局アマゾンから「勝手ではありますが、キャンセルさせていただきます」とメールが来て、消されてしまったのだ。

女房に内緒で悪いことを企んでも、結局は失敗するようにできているのだねぇ(^^;;

■4月10日(追記):本日、とある方からメールを頂戴して判明したのだが、ローソンは潰れたんじゃないんだって。現在改装中で、5月に新装オープンするのだそうだ。ぼくの勘違いだった。ごめんなさい。

 高遠町商店街に、北原照久・おもちゃ博物館から出張展示     2009/04/07 

■日曜日に長男の詰め襟姿を母親に見せに高遠へ行って来た。遠目に高遠城址公園はだいぶ赤い色になってきていたが、まだつぼみで、見頃は今週末以降か。この日から、高遠町商店街に、北原照久・おもちゃ博物館からの出張展示が始まっていたので、早速見て回った。実家のすぐ側のカネナカ洋品店には、ぺんてるのキャラクター人形がアクリルの四角いケースに収まって店内に展示されていた。文青堂菓子店には「不二家のペコちゃん」、あかはね饅頭店には「ポコちゃん」。この「ポコちゃん」は稀少品で、なんと150万円の値段が付いていた。遠州屋薬局には「サトちゃん」、赤羽時計店にはからくり時計と、つまりはその店に一致したおもちゃがちゃんと展示されていたのだね。しかも、スタンプラリーになっていて、規定のスタンプを集めると、抽選で北原照久氏監修の復刻版ブリキのおもちゃが当たるのだという。これは面白い試みだ。

旧「北條ストアー」が、おもちゃ展示会場になっていて、戦前の双六や、昭和34年の皇太子ご成婚時の「美智子妃殿下・着せ替えセット」など、めずらしいものがいろいろあって面白かった。

「お試しかっ!」ブラマヨ小杉  『大きな約束』椎名誠(集英社)     2009/04/06 

■「テレ朝」月曜日のタカアンドトシ深夜番組「お試しかっ!」が、先週ゴールデン3時間スペシャル放映だったのだが、最初の10分だけ見て「こりゃダメだ」と思い、早々に見切りをつけてテレビを消し、トレーニングをしにテルメへと向かった。この番組の人気企画に、居酒屋チェーン店の人気メニューベスト10を当てるまで、注文した全てのメニューを完食しないと番組ロケは終わらず家へ帰れないというのがあって、たいてい毎回午前5時を過ぎても最後の1品が当たらず、参加者全員が居残りで悲惨な状況に陥るところが見所となっているのだった。

この日は、「ガスト」の人気メニューベスト10を当てるというもの。でも、ゆるーいカメラ回しと何ともいえない間の悪さが深夜帯設定そのままなんで、ゴールデンのテンポじゃなく、まったく乗れないのだった。ただひとり吉本芸人のプロとして気を吐いていたのが、ブラックマヨネーズの小杉だ。彼はこの企画の時だけのレギュラー出演者だが、本当に面白い。小杉のために「この企画」があるに違いない。いつもそうだが、小杉がおいしいところを全て持っていった。ほとんど、ダチョウ倶楽部の上原竜兵が得意とするリアクション芸の域に達したのではないか。体型も含めてね(^^;;

■今日の月曜日は、伊那小学校、伊那中学校の入学式だった。夜は、伊那中央病院の小児一次救急当番で、19時ちょうどに救急部へ。夜8時過ぎまで小児の患者さんは一人も来なかったので、持っていった『大きな約束』椎名誠(集英社)を読了した。椎名誠さんの本を読むのは、自分で買った本では『かえっていく場所』以来か。確かその後も、高遠町図書館で3冊くらい借りて読んではいる。『かえっていく場所』を読んだ時は、個人的にも軽鬱状態で、妙にシンクロナイズした気分になり、いつになく暗いシイナさんの文章が心に沁みたのだ。世間の評価は知らないが、あれは名作だったと思う。

この本では、いきなり警察拘置所の場面から始まって驚く。でも、つい最近、CS「日本映画専門チャンネル」で『それでもボクはやってない』を見たばかりだったので、検察庁に護送される場面もリアルに視覚的に体感できた。それから、この本では「死」が隠れテーマであることが提示される。椎名さんも2人の孫を持つ身となり、友人の妻の葬式の場面から、カイラス巡礼の途中で鳥葬場を通ったシーンが唐突に挿入される。そのあと、「大事なものをひとつ持っているといいよ。まことくん」と言って九州の筑豊で死んでいった叔父の話になり、孫の風太クンがサンフランシスコからいつものように国際電話をかけてきて、岳君親子がダウンタウンで昼飯を食べているそのレストランの外で、ヒスパニックの抗争があり、15歳の少年が撃たれて死んだことを「じいじい」に報告する。孫の風太君は、人の死を目前で初めて経験した。だから言う。「じいじいも死ぬの?」と。椎名さんは何て答えたか? それは、読んでのお楽しみ。

■椎名さんが北海道余市に持つ山荘で特製四川風ぶっかけ蕎麦を作って食う場面が出てくるが、これがめちゃくちゃ美味そうなのだ。決めては、石垣島にある辺銀食堂で作っている石垣島ラー油を、刻みネギとともに「これでもか!」って言うくらい大量に投入することだそうだ。実はわが家にも「石垣島ラー油」が半年前まではあった。でも、今はない。入手困難なのだ。通販もあるが、申し込んでも半年待ちだという。銀座わしたショップへ行った時も置いてなかった。う〜む、でも食ってみたいな。

終盤、長年連れ添った親友、高橋カメラマンの死が語られる。またもや死だ。老年に達しつつある椎名さんは、自らの死を日々意識し始めているのだ。ほとんど、ストーリーはない日常の出来事を淡々と綴った私小説ではあるが、『かえっていく場所』に比べて、それでもずいぶん明るい印象の本だったので、ぼくは読みながらとても安心した。なんなんだろうなぁ、読みながら味わえるこの懐かしさは。この5月発売の後編が楽しみだ。

■ついでに言うと、『きのうの世界』恩田陸(講談社)も読み終わった。う〜む、これはどうかな。すっごい「バカミス」だよね。この小説のアイデアが浮かんだ時点で、恩田さんは「アハッ!」っと思ったに違いない。でも、読者は欲張りで贅沢だから、作者が期待するほどには驚いてくれないのだろうなぁ、きっと。水路と塔が立つ懐かしい町のはなし。夢中でページをめくって「あれよあれよ」と2日で読み終わったのだが、ぼくの評価は、星三つか。ごめんなさい。

■で、今夜は8時過ぎから混みだした。3人診て、夜9時を過ぎて帰ろうとしたら、発熱の美篶小学校1年1組の入学式を終えたばかりの男の子が来ていて、その子も結局診るハメになったので、帰宅は午後10時だった。最後の子は、B型のインフルエンザだった。入学式が先週金曜日に終わった美篶小学校では、これからフルが流行るかもしれない。要注意だな。

『神器 軍艦「橿原」殺人事件』 奥泉光・著(新潮社) つづき     2009/04/04 

■この本の書評・紹介はいっぱい出ているが、これは、と思ったのが「東京新聞のこの記事」だ。よくまとまっていると思う。じきとリンク切れになってしまうので、「文芸同志会通信」の転載にもリンクしておく。

■下巻から、気になった部分の一部を、忘れないために書き出しておこう。

福金:戦争はずっと終わらないんでしょうか。(中略)
   でも、日本は負けたんでしょう? 負けたってことは、終わったわけでしょう?違いますか?
根木:俺たちの戦争は終わっていない。終われない。だから皆、いまも戦い続けている。日本の勝利を信じて。
福金:しかし、本当は、現実には、負けたわけでしょう?

根木負けた日本は日本じゃない。負けた日本は現実の日本じゃない。少なくとも、戦い続けている兵士たちはそう考えているさ。ここにいる日本人から見たら、俺たちを含め、戦い続ける兵士たちは幽霊にすぎないだろう。しかし、俺たち幽霊からしたら、生きている人間の方が虚ろな影にすぎないともいえる。福金上水だって、我々こそが真の日本に住んでいるのであって、この日本は贋物だと思ったはずだ。負けたこの日本は、たとえば鼠の住む国にすぎない。鼠天皇をいただく鼠国ニッポンである。そうは思わなかったか? (下巻 p103〜104)


「なんで、あんな風に戦うんだ? どんな戦うべき理由がある?」
「別にさ、理由なしに、戦争してもいいんじゃねえの。実際、理由なんてないっしょ、戦争に」
毛抜け鼠が達観したように応答する。(中略)

「しかし、戦争より、平和の方が誰だっていいだろうさ」福金鼠のややおざなりな発言に毛抜け鼠は即座に反応してきた。
「とは限らねんじゃね。平和よか、戦争の方がいいって奴、わりと大勢いるっしょ。どんな時代でも。戦争になってくんねえかなって、オレも昔、よく思ったし。コクドの下請けで働いてたときとか。その後も。基本、下の方の人間は、戦争を望むんじゃね? そのままじゃ、どっちみち浮かび上がれねえわけでさ。我慢はできっけど、上から無理に押さえつけられたら、結局やるしかねえんじゃね、マジな話。あと、戦争になれば、自分だけじゃないわけじゃん。国とか、そういう規模でマジ戦争なら、全部が巻き込まれるわけっしょ。否応なく。否応なしに。どっちみち戦争するんだったら、みんなでやればこわくない、って、オレ古い? ていうか、盛り上がり? そういうのあると思うし、あと、戦争だと、やることはっきりするっしょ。選択の余地なしっていうか、要は殺せばいいわけで、敵を。敵の人を。殺される前に。殺られる前に。敵が決まってて、それを殺すのって、分かりやすいっていうか、人生の意味? なんかはっきりするじゃん。ある種充実っていうか、オレいま生きてるゥ、って感じしない? カネも貰えるかもしんないし、っていうか、食えるっていうか。あいつを殺せって、誰かが命令してくれて、それを殺すのって、ある意味、ラクだし」 (下巻 p208〜210)


由井は圧迫に屈せずいい返す。「(中略)負けた場合を考えずに戦争をはじめるなど、無責任のきわみです。負けることへの想像力のない者が戦争を指導すべきでないと、まずは一般論としていいうる。今度の戦争は軍人さんが主導してはじめられたわけでして、戦争のプロフェッショナルである方々に、戦争についての思考が根本から欠落しているのは、全く驚くべきことだ」 (下巻 p244 )


揃いの事務服を身につけた20名の人間によって、さながら前衛舞踏の一種であるかのように、無言で演じられる「対抗ビンタ」に否応なく吸い寄せられながら、話を耳に入れた俺は、蒸しパン兵長の言葉の正しさを認めた。他人が存在することの苦痛。誰も成る可く直視しないようにしているけれど、それが艦隊勤務の本質であるのは間違いない。(中略)肉を打つ音が一定のリズムを刻んで響く倉庫のなか、さように考えた俺はそのとき、このことは艦隊勤務に限らず、この世界全体に妥当する真理ではないかとの、暗黒の思想に捉えられた。人は人に苦痛を与えるために存在する。人類が創世記以来、戦争を決してやめないのは、文明の根底に存する、この真理を忘れないようにするためではないのか? (下巻 p282 )


桜井:俺たちが払った犠牲に、未来は応える義務がある!

死者たち: 未来は応えよ!
      俺たちの払った犠牲に応えよ!
      俺たちの蛆の湧いた目玉に応えよ!
      俺たちの失った手足に応えよ!
      俺たちの飛び散った臓物に応えよ!
      俺たちの萎んだほおずきみたいな胃袋に応えよ!

福金:未来は応えていませんでした! それは私が断言できます。未来は我々の犠牲に何一つ応えていませんでした! (下巻 p288 )

                    

『神器 軍艦「橿原」殺人事件』 (上・下巻)奥泉光・著(新潮社)     2009/04/01 

■一見、本格ミステリ小説の体裁を取ってはいるが、この本はミステリではない。いや、確かに作者はきちんとミステリの結構を守ってはいる。探偵も登場する。でも、読み進むうちに、真犯人は誰か? なんて命題はどうでもよくなってしまう小説なのだった。

どう説明したらいいのか、途方に暮れてしまうと言うのが、読み終わって味わう正直な感想か。でも、面白い! 読んで損はなかったな。

読み始めて思い浮かんだ小説が三つある。一つは『双生児』クリストファー・プリースト著(早川書房)で、もう一冊は京極夏彦『魍魎の匣』だ。現代文学を代表する作家はみな、第二次世界大戦を引きずっているのだな。そういうことを思った。ただ、プリーストの『双生児』は何が事実で何が虚構か読めば読むほどワケ判らなくなる現実崩壊感が読書の醍醐味となった希有な小説なのだが、奥泉光氏の『神器 軍艦「橿原」殺人事件』 は少し違う感じだった。

■箱の中に箱があって、それがそのまま、さらに大きな箱に覆われていた、というのが『魍魎の匣』の主題であったが、この小説も、語り手(騙り手)石目水上が乗船した軽巡洋艦「橿原」が、ひとつの軍隊(海軍)という箱であり、「日本」という国のミニチュア箱でもある。謎のゲストが居る「奥の院」という箱。船尾鑑倉「5番倉庫」という最大の謎の箱。その中にはさらに「神器」が納まる箱があるらしい。これらの箱は迷路のような秘密通路で連絡し、橿原鑑底にはさらに、もう一つの密室である「竜の腹」があって、鼠たちが跋扈する謎の空間が時空を越えて広がっているのだった。でもそれは既に、推理小説マニアの語り手石目が中学生時代に執筆した『緑死館殺人事件』のストーリーと同じ展開を示すことになる。え? だから何なの? 結局は、メタフィクションな訳? 違うの? 毛抜け鼠じゃないけど、「ワケわかんね」(^^;;

という段階で、この小説は「ミステリ」という仮面を剥がしてしまうのだが、読者としては「そんなこと、どうでもいい」のだった。はたして、軍艦「橿原」は、いったい何処を目指して進路を取るのか? 艦長の運命は? 副官は? 航海長は? 語り手石目は? で、結局「橿原」の運命や如何に? なんだな、結局は。

■ぼくが面白いと思ったのは、この小説が「トンデモ本」の極地を行っていることだ。荒唐無稽の「法螺話」が此処まで行けば、読者は笑って許すしかないでしょ(^^;;) こういう小説、ホント好きだなぁ(^^;) 『安徳天皇漂海記』に似て、ラストは黄金と虹色が輝くのだが、ここまで大風呂敷を広げ、物語の結構も無視してまで「どうだ、まいったか!」と言い切る作者は、やはり凄い! ははぁ、恐れ入りました。

忘れていたけれど、この小説を読んで思い出した小説の「その3」は、スタニスワフ・レム の『ソラリスの陽のもとに』だ。鼠の集合体が、過去も未来も感知して具現化するその実体は、その人間の心の奥底に封印した決して他人には知られたくない個人的に決定的な記憶なのだった。これが凄いのだ。鑑底には「荒野」が広がっている。そこには、無念のうちに死んでいった兵隊たちが跋扈している。彼らは、フィリピン・ミンダナオ島で、ニューギニア奥地で、アッツ島で、レイテ島で、硫黄島で、そして、特攻隊として鹿児島知念基地から飛び立ち、無念のうちに死んでいった兵士たちだ。

この小説の作者は言う。彼らに返る場所はない! と。「靖国」には、ネズミがはびこるばかりで、大日本帝国陸軍・海軍の英霊たちは決して、ヤスクニには祭られてはいないのだった。だって、日本は戦争に負けたのだから。靖国には勝者しか入れない、そういうことを、戦時下の誰もが知って いたのだ。じゃ、彼らは何処へ行くのか? それは、軍艦「橿原」の東進の航路の果てにあるのか? いや、そうではない。彼らはいつまでも命果てたジャングルに留まって、平成21年の「いま」も死してなお戦地で戦っているのだった。

戦艦大和はなぜ、沖縄へ向かう途上で撃沈されることが分かりきっているのに出航したのか? それが、この小説の主題の一つでもある。その理由とは、何時まで経ってもぜんぜん吹かない「神風」に業を煮やした海軍が、神に対して乗組員3000人の人柱と供に戦艦大和を「生贄」として海に捧げたのだ、と作者は言う。でも作者は、「大和」が単なる人身御供となったワケではなくて、出撃した「大和」にこそ「真の日本国」があると信じ込ませて、乗組員3000人の自らの死を納得させたのではないか? とも言う。う〜む、太平洋戦争をどう認識するかはむずかしい。
ただ、重要なことは「我々は決して忘れてはならない」ということだ。つきつめれば、この小説が言いたいことは、「そのこと」に他なるまい。でないと、「彼ら」は決して浮かばれないのだから。

 次々と発売される「落語のDVD」は、はたして買う価値があるのか?    2009/03/31 

■どうも、ぼくが思う以上に世の中は落語ブームであるらしい。落語のCDやDVD、それに「落語特集」の雑誌が、雨後のタケノコの如く次々と発売されているからだ。遅ればせながら、レコード会社や出版業界は「落語」が商売になることに気が付いたみたいなんだな。あとは、ブームの波に踊らされる大衆がいればいいだけだ。ぼくなんかは、まんまと波に乗せられた口か。

落語DVD全集も、柳家小三治、古今亭志ん朝(上・下)と買い揃え、amazon から発売前にオススメされた「八代目・桂文楽 TBS落語研究会」も、思わず「ぽちっ」とボタンを押して予約してしまったがために、先日その品物が自宅に届いた。上記のDVDも、見たのはまだ 1/5にも満たないのに、また買ってしまったのだ、女房にないしょで。この秋には「三遊亭圓生全集・TBS落語研究会(上)」がDVD12枚組で出るというのに。

でも、結果オーライだったかな。この動く「桂文楽」は、わが家の家宝だ。凄い、スゴすぎる! 桂文楽という落語家さんは、その所作(仕草)を見ないことには、昭和の大名人たる所以の半分も理解できない噺家さんなのだなぁ。そのことに気が付いたのは、以前「ニコニコ動画」の中で桂文楽のビデオ「夢の酒」を見つけた時に、じっくり観賞したらものすごく面白かった経験があったからだ。そうか、この人は見ないと面白くない人だったんだ、この時、そういうことがよく分かった。

実際、今回DVDを入手して早速見たのが「按摩の炬燵」「素人うなぎ」「愛宕山」「景清」「明烏」だが、TBSはホント偉かったな。当時ものすごく貴重だったビデオテープに、桂文楽を録画して、決して消去することなく今日まで保存しておいてくれたのだから。NHKならこうはいくまい。ほとんど世界遺産だね。しかも、実にクリアーな映像と音声が奇跡的に残されていたのだ。こうして「動く文楽」を見ると、その笑顔が何とも言えず御機嫌にイイのだ。それから、ジェットコースターのように強弱と高低が目まぐるしく変化する彼の声に呼応したその表情の変化の面白さ。それから、お茶を口にする絶妙のタイミング。思いのほか大きな動作で見せる上半身の激しい動き。そうしたCDで聴いていたのでは決して分からない「桂文楽の落語は視覚的に構築されているのだ」という事実が判明して、DVDを買って良かったとしみじみ思ったのだった。

桂文楽は、若旦那・幇間・盲人ネタを得意とした人だが、「愛宕山」なんか見ると、ホント面白い。つい最近、柳家さん喬の「愛宕山」のDVDを見たけど、いまいちだった。さん喬師は、幇間には向かない顔立ちなんだな(^^;; もちろん、志ん朝さんの「愛宕山」もDVDで見て、CDでも何度も聴いている。個人的にも、志ん朝落語の中ではかなり好きな演目だ。それでもやっぱり、「愛宕山」は桂文楽が演じる幇間「一八」に限る! そういうことがよくわかったな。

『神器 軍艦「橿原」殺人事件(下巻)』を本日読了した。う〜む、すんげぇ〜本だった。この1週間、毎晩連日、寝る前に楽しましていただきました! 太平洋戦争の意味と戦後の「いま」の日本というテーマは非常にヘビーなんだけれど、とても面白く読めた。純文学がこんなに面白くて、はたしていいのか? そう思いながら、読み進むうちに謎が謎を呼んで「いったいぜんたい、この後どうなるんだ?」という疑問を推進エンジンにして、決して読み易くはない文章を懸命に読み進んだのだが、混沌としたカオスの中に突入して行って、この下巻は終わってしまった。それなりにミステリとしての「結構」は保ってはいるのだけれど、きちんと落とし前をつけずに小説が終わってしまった感は否めないか。でも、面白かったのだ。(つづく)



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