しろくま
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北原こどもクリニック  



しろくま 不定期日記


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2004年:<1/2/3+4月><4 / 5/6月>< 7/ 8/ 9月> < 10/ 11月>
2005年:< 12月/ 1月>< 2月/ 3月><4月><5月/ 6月><7月><8月><9月><10月><11月/12月>
2006年:<1月><2月><3月><4月><5月><6月/7月><8月><9月><10月><11月><12月>
2007年:<1月><2月><3月><4月><5月><6月><7,8月><9月><10月><11,12月>
2008年:<1,2月><3月><4月><5月、6月><7月、8月><9月><10月・11月><12月>
2009年:<1月、2月><3月><4月><5月><6月・7月>

●「不定期日記」●

  総選挙の日           2009/08/30 

■8月29日(土)30日(日)は、大宮で日本外来小児科学会だったのだが、第9回の大阪から計10回、毎年参加してきたこの学会を今年は欠席した。直前まで参加するかどうするか迷っていたので、絵本のWSのサブリーダーを任されていたのに、ぼくのドタキャンでWSリーダーの佐々木邦明先生には多大なご迷惑をおかけしてしまった。本当にごめんなさい。そして、ずっと前から医院に掛けられたカレンダーの8月29日(土)には「臨時休診」と赤マジックで書かれていたので、すでに予定を入れていたであろう医院スタッフにも大変申し訳ないことをした。ただ、病床の母をおいて学会に泊まりで参加する気分にはどうしてもなれなかったのだ。

土曜日は午後2時で診察終了し、3時から5時過ぎまで伊那中央病院で付き添い。その後、テルメで6km 走ってから帰宅。出かける前に今日は外食にしようと話しておいたので、家族で近くの「麺屋二八」へ。暫し待たされたあと、ぼくが注文したのは塩ラーメンと、つまみチャーシュー。それにしても、ここの塩ラーメンは旨い! 開店以来、試行錯誤紆余曲折の味の変化だったが、ここへ来てようやく麺もスープも安定した。麺は極細ちぢれ麺、スープは塩味なのに濃厚な深い味わい。これは得難い。実にいい仕事をしている。

■今日は朝から子供たちは陸上の自主トレで東部中グランドへ。僕は妻と境区公民館へ行って投票。悩んだ最高裁判事国民審査だったが、結局3人の裁判官に×をつけた。帰宅後午前10時〜12時まで庭の草むしり。昼飯を食べ、一人高遠へ。どうしても「高遠ブック・フェスティバル」に行きたかったのだ。午後1時過ぎに着くと、高遠の町中は何だか信じられないほどの賑わい。若者グループ、親子連れ、老夫婦なと、老若男女さまざまな人たちが夏のぶり返しのような暑い日差しのもと、笑顔で高遠の町中を歩いている。ほんと信じられないぞ!

世の中の本好き(活字中毒者)は、だいたい人口の5%くらいだと言われている。TSUTAYA に行けば、夜遅くまでいつでもいっぱいの人が雑誌の立ち読みをしてはいるが、彼ら彼女らの全てが「本好き」のワケではない。ベストセラーになるような本は、本好きでない残りの95%の人が珍しく本を買うからベストセラーになるのだ。だから、今回のイベントが発表されても、わざわざ遠く高遠までやって来る物好きなんて、ほとんどいないんじゃないかと僕は危惧していた。しかも、地元高遠の住民はみな、ほとんど他人ごとのように、ことごとく冷たい眼差しだったではないか。

実家に車を置き、高遠町図書館へ延滞していた本を返しに行くと、暑さを避難して涼みに来た人たちがいっぱいいて、これまた驚いた。世の中にはこんなにも物好きな「本好き」がいたのか! その足で高遠福祉センター「やますそ」へ。午後1時半から3Fで「本の町シンポジウム」が開かれるのだ。作家の角田光代さん、司会の永江朗氏、高遠本の家代表の北尾トロ氏ほかが参加する。ちなみに、永江朗氏も北尾トロ氏も僕も1958年生まれだ。正確には、北尾氏は(みうらじゅん氏と同じ)1958年の早生まれなので、学年は一つ上だが。

シンポジウムは開始予定の午後1時半が過ぎても一向に始まる気配はない。遅れる理由を詫びるアナウンスもない。後でわかったのだが、シンポジストの一人、小布施堂社長・市村次夫氏の到着が遅れたみたいだった。遅刻したから印象を悪くした影響もあるが、この市村氏、話がぜんぜん面白くない。自分に割り当てられた役割をまったく理解していないのだ。打ち合わせ時間がなかったから仕方ないかもしれないが、せっかく角田さんが「小布施の話題」を振ってくれたのに、なんなんだろうなぁこの人。市村氏の代わりに、何故、地元を代表して伊那図書館長をシンポジストに加えなかったのか? やはり、地元は「蚊帳の外」なのか?

いや、誤解を招くような発言をしてしまったが、市村氏以外のシンポジストの発言は期待以上の面白さだった。ぼくは何故、北尾トロ氏がこの高遠の町にリアル古本屋を開店したのかどうしても分からなかったのだが、今日初めて直接北尾氏の発言を聞いてみて、よーく分かった。イギリスの本の町「ヘイ・オン・ワイ」がどんな所か、その雰囲気もよーく分かった。突然よそ者が過疎の町にやって来て、地元の人たちには無視され疎まれながらも勝手に作り上げたのが本の町「ヘイ・オン・ワイ」なんだね。じゃぁ、それで日本国内の「ブック・ツーリズム」という概念がはたして成立するのかというと、本屋だけでは無理、美味しい食べ物屋さんと気の効いたお土産がなければ、女性は絶対に訪れないわよ。そう言い切った角田さんの発言が「目ウロコ」だったな。

本当はシンポジウムの最後まで聞いていきたかったのだけれど、午前中から付き添いをしている高遠の兄と、午後2時で交代する約束だったので、2時45分になってそそくさと会場を途中退場して急いで国道を伊那中央病院へ。6時40分まで母の病室に留まって、あとどれくらい一つ屋根の下いっしょに過ごせるか分からない母の手を握っていた。

ところで、民主党よ! 「勝って兜の緒を締めよ!」 だぞ。 ガンバレよ!

  SHURE SE115(高遮音性イヤホン)           2009/08/27 

■長年(と言っても4年間ぐらいだが)愛用してきた、iPod 用イヤホン「SHURE E3」が、コードが断線したのか、ハードが壊れたのか、右側のイヤホンの音が鳴らなくなってしまった。仕方ないので、Apple 純正のイヤホンを使っていたのだが、どうも耳へのフィット感が悪い。特に、装着しながら走ると、汗ですぐにずれて外れてしまうのだ。これはよくない。

そこで、最近売れ線のカナル型イヤホンを調べてみたら、オーディオ・テクニカの「ATH-CKS70」の評判がいい。特に低音の出方が出色とのこと。早速、伊那の「K's電機」に行ってみたけど「モノ」がない。一つ下の機種「ATH-CKS50」はあったのだが、これは何故かネットで評判が悪いのだ。直接買えないなら、ネットで買うしかなくて、だとしたら、今まで使ってきた「SHURE E3」の後継機種? の「SHURE SE115」にした方が満足感が高いかな、そう思って、結局 SHURE を注文した。

結果正解だったな。コレいい。すっごくイイ。装着感が抜群なのね! 耳への違和感が少ない。コードが短い(45cm、延長コードが別に付いている) ので、iPodシャッフルをTシャツのネックにはさんでちょうどいい長さなのだ。胸のポケットくらいなら大丈夫だと思う。コードが長いとその処置に悩むことが多いし、音質劣化の問題もある。ネット上では、高音が貧弱だとか悪口が横行してるが、いやいやどうして、すっごくいい音だと思うし、ぼくは満足している。オススメです。

SHURE.JPG



  花王ビオレ U 「手洗いのうた」           2009/08/26 

■最近、おかあさん方に話をする機会がある時には、必ず「手の洗い方」を指導している。元ネタは「花王ビオレU あわあわ手洗い教室」。これはスグレモノです。「6つのポーズ」でしっかり手洗いすると、洗い残しがないのだ。しかも、「あわあわ手洗いのうた」というのが、ちゃんとできていて、この「6つのポーズ」を歌いながら楽しく手洗いできるというもの。

夕食前、小学5年生の次男に訊いてみた。「おい、ちゃんとした手の洗い方、知ってるか? おとうさんが教えてやるぞ」そしたら、「そんなの知ってるさ。歌になってるんだよ。おねがい、おねがい カメさん、カメさん…… ていう歌。うん、あのね、3年生の時に学校で教わったんだ」 いやぁ、驚いた。そんなに有名な歌だったんだ。知らなかったのは僕だけか?

■いま、NHK教育で「LIFE 井上陽水 第三夜」をやってたが、これは面白かったな。第二夜、第一夜を見逃してしまって損したぞ! リリー・フランキーとの対談で始まって、持田香織が「いつのまにか少女は」をカヴァーして歌っていたが、これが良かった。そのあと井上陽水本人のヴァージョンも演奏されて、これもめちゃくちゃ良かった。中学生の頃から大好きだった曲なんだ。「海へ来なさい」もよかったなぁ。この曲はどのCDに入っているんだろう? 明日も夜11時から忘れずに見なくちゃ。

■今日、「最高裁判所裁判官国民審査公報」が新聞にはさまって届けられた。9人の現最高裁判所裁判官の略歴と関わった裁判、裁判官としての心構え、趣味などが載っている。ぼくは毎回衆議院選挙の際には「とにかく全員に×印をする」ことにしているのだが、今回は困った。と言うのも、最高裁判所裁判官の一人那須弘平さんは、長野県伊那市出身で、しかも伊那北高校卒業の先輩なのだ。最高裁判事に伊那北高校の先輩がいるという話は、この間、成田の兄(伊那北高校卒業生)に聞いたばかりだった。

伊那北の先輩だからなぁ、×は付けられないよなぁ。でも、「ここ」とか読むと、「君が代」ピアノ伴奏職務命令事件を判決した人だし、最近では、あの佐藤優氏の上告を棄却した人でもあるのだ。う〜む、困ったぞ。

いろんなブログを読むと、ぜんぜん知らなかったのだが、竹内行夫(もう呼び捨てなのだ)は論外だな。この人、外務省のキャリアで、しかも外務次官というトップに登りつめたあと退職して、何故かいま最高裁判事に納まっているというとんでもない人。訳わかんね。じつは彼こそ、小泉政権時代に自衛隊のイラク派遣を決定した人物なのだ。もう、×を10個くらい付けてやりたいよね。

あと、竹崎博允(こいつも呼び捨てなのだ)。なんだかよく判らないうちに始まってしまった「裁判員制度」導入に尽力した「ご褒美」に、最高裁判事にしてもらった人らしい。こうゆう小役人に判決文を言い渡されたくないよね。

  シャルル・トレネ「ブン!」と、ジャコ・ヴァン・ドルマル『トト・ザ・ヒーロー』   2009/08/24 

■戦前フランスのシャンソン歌手、シャルル・トレネの「ラ・メール(海)」を聴いてみたら、「あ、この人、聴いたことある声だ!」そう思った。確か、とある映画の挿入歌、エンディングテーマとして使われていて、やたら「ブン、ブン」言うのがすっごく印象的で気に入ったのだけれど、歌手も曲名も不明で検索を諦めた曲があったのだ。その曲の歌い手の声だったんだな。

YouTube は便利だから、シャルル・トレネの他の映像をチェックしたら、即見つかった。「ブン!」だ。そう、これこれ。思いがけず発見できてうれしかったな。ところで、この曲を使った映画のタイトルが思い出せない。うんと、たしかフランス・ベルギーの合作映画で、監督の2作目作品が『八日目』という、ダウン症の役者さんが主演した映画だった。ぼくは確か、富士見町にある東京都の障害者施設で、上條恒彦さんの奥様が主催した映画会で観た。傑作だった。感動した。印象的なシーンは今でも鮮明に覚えている。そう、モンゴルの平原で馬に跨ったダウン症の主人公が、チンギス・ハーンの衣装を纏って遠くを見つめるシーンだ。あれはよかったな。

検索したら、すぐに判った。まったく便利な世の中だ。ダウン症の彼は、ジャコ・ヴァン・ドルマル監督の処女作『トト・ザ・ヒーロー』にも出演している。そう、この映画の中でシャルル・トレネの「ブン!」が使われていたのだ。よかった、思い出して(^^;; それにしても、変な映画だったな、『トト・ザ・ヒーロー』。未だにDVD化されていないらしい。なにせ、老人ホームで日々を過ごす老人トトが、自分の人生の何処が間違っていたのかを回想する映画なのだから地味だよね。記憶上の過去は、主人公トトの思い出の中だけの真実。それは、カズオ・イシグロの小説に登場する人たちの回想と同じだ。

でも、何故か不思議と忘れられない映画。もう一度見てみたいな。

http://www.youtube.com/watch?v=moPbM7Co8CY&feature=related



http://www.youtube.com/watch?v=p0KWyWwVp0E&feature=related


 『大きな大きな船』長谷川集平(ポプラ社)              2009/08/23 

■父と息子のはなし。泣けた。『パパはジョニーっていうんだ』以来じゃないか? これはいい。絵もいい。黒色をわざと使ってない。ていうか、青と黄と赤の3色の水彩絵の具だけで描いたと作者は言う。絵に何とも言えない哀愁と不思議な透明感があるのは、そのせいか。

母親が吹いていた口笛の曲、「ラ・メール(海)」は、シャルル・トレネのシャンソンで、以下の YouTube で聴くことができる。しみじみいい曲。
http://www.youtube.com/watch?v=fd_nopTFuZA&feature=fvw


■『ミレニアム1』読了。下巻は一気読みだった。そう来たか! いや面白かった。本格ゴシックミステリーの様相を呈しつつも、結局はハードボイルド小説なんだね。そこがいい。Macintosh のノートパソコン(PowerBookG4, MacBook)を主人公の2人が愛用しているのもいい。ただ、ミカエル・ブルムクヴィストが女にもてすぎなところが鼻につく。
すでに『ミレニアム2上下』も入手済みなのだ。『ミレニアム1』で一応ストーリーは完結しているのだが、物語はどう続いていくのかな。そう言えば残してきた敵がいたから、ヒロイン、リスベット・サランデルが復讐されるのでは? おぉ、心配だぞ。

■母は、病室で81歳の誕生日を迎えることができた。ひとえに伊那中央病院の看護師さんたちの献身的な看護のおかげだ。本当にありがとうございます。土曜日の夕方、病院に着いた成田の次兄と、高遠の兄と僕の兄弟3人で、伊那北駅前の「昭和軒」で焼き鳥を食べながら、ささやかに母の誕生日を祝った。

 爆笑問題のニッポンの教養・スペシャル版              2009/08/19 

『爆笑問題のニッポンの教養・生物が生物である理由』爆笑問題+福岡伸一(講談社)読了。この回の番組もテレビで見たが、福岡先生の言いたいことがすっきりとまとまっていて、すごく分かりやすかった。これはオススメです。

先日の放送はスペシャル版「爆笑問題のニッポンの教養」スペシャル:『表現力!爆笑問題×東京藝術大学』で、途中から見たのだが、これまたなかなかに面白かった。特に、番組終盤での菊地成孔氏の発言(以下引用)

菊地:僕が思うのは、生々しさっていうのがどんどん増していると思う、かえって。パソコンなんかによって。今日だって、生まれて初めて、テレビでいっぱい見ているけど、初めてこの至近距離で田中さん見るっていうことで、ちょっと興奮しているわけですね。その生々しさがあるわけ。で、その生々しさも、実はそんなにもたないんだけど。2時間ぐらいたっちゃうと、もうああ、テレビで見ているあの感じだっていうふうに戻ってきて、ちょっともう今眠いんですけど。

田中:眠い?眠いって何ですか?

菊地:暑さもやられちゃって。あるんですけど。だけどオルガンもそうだし、クラシックもそうだけど、漫才もそうだし、ジャズもそうなんだけど、いざ聞いたらすごいね、生々しいねっていうのが10年前、20年前よりはるかに上がっていると思うんですよ。

田中:今の方が?

菊地:うん、マスメディアが発達したおかげで。
■菊地成孔氏の言う「生々しさ」に反応した。直訳すれば、そのまま「LIVE」となる訳だが、菊地氏はもう少し違った意味で使っているような気がした。つまり、今は「YouTube」や「ニコニコ動画」で検索すれば、ネット上でいとも簡単に、しかも無料でオンデマンドに動画を見ることができる。一昔前と比べると、ぼくら東京から遠く離れた田舎に住む観客が、とあるミュージシャンやジャズメン、芸人や噺家を自宅に居ながらにしていくらでも簡単に出会うことができる時代なのだ。菊地氏は「そういうお手軽さ」を「生々しさ」と表現したのではないか?

ネットで発見したアーティストに興味を持てば、今度は本当に「ナマ」で体験してみたい、そう思うだろう。そこが大事だ。やっぱり、YouTube の小さな画像としょぼい音声で見るのと「ライヴ」体験では圧倒的に違うのだから。ただ、ぼくが危惧するのは、受け手側が、YouTube 体験だけで「あ、この人はこの程度ね」と判断してしまう可能性が高い点だ。同じことを、堀井憲一郎氏が「落語のDVD」に関して警告している。(明日に続く)

■本日初めて、当院でも「新型インフルエンザ」が2人発生した。正確には、迅速診断キットで A型が陽性だったというだけで、PCRによる遺伝子診断はしていないから「新型」とは断定できないのだが、たぶんそうだろう。個人情報に関わることなので、詳しい情報は流せないが、この2人は、箕輪町在住の小3の兄と小1の妹の兄妹で、お盆を親の実家がある新潟県上越市で過ごした際に感染したらしい。その上越在住の従兄弟が一昨日から発熱し、昨日インフルエンザA型と診断され電話連絡をもらって、今朝から発熱した小1の妹を連れて母親が当院を受診した、というわけだ。(兄は15、16日と発熱。17日に当院を受診した時には既に37度台で、夏カゼと診断して帰したのだが、本日再診して検査してみたら、A型が陽性だった)

夏休みの短い当地では、昨日・今日から小学校・中学校の新学期がすでに始まっている。今後、学校での集団感染の発生が心配なところだ。

 「離見」がない              2009/08/18 

■少し前の中日新聞のコラム「紙つぶて」に、放送作家の水野宗徳氏が「落語家の苦悩」と題して、こんなことを書いている。

 僕の大学の後輩にプロの落語家がいる。まだ二つ目の修行中の身だが、「落語家は世情のアラで飯を食い」という言葉があるとおり、今、世間を騒がせている出来事でどうやってお客さんを笑わせるか?を日夜考えている。(中略)

彼ら(酒井法子や押尾学ら)が世間を裏切ったことは正直、残念でならない。元来、まじめな落語家の彼は「あの人たちは役者なのに離見がないんですかね」と言った。
 離見とは、室町時代初期の能役者・世阿弥が残した言葉。客前で芸ごとを披露する際、演じ手は客席から自分がどう見えているのか?という客観的な視点を持たなければいけないという意味。これは芸ごとの基本で、この眼を養わないと独りよがりの芝居になってしまう。(後略)
同じことを、『落語論』堀井憲一郎(講談社現代新書)では、こんなふうに言っている。

 すべての音は、客に対する気合いから発する。技術よりも先に気持である。(中略)
 すべての客を覆う気迫。すべての客の胸に届く気迫。その気を発さないといけない。
 そして、その気はきちんと「観客を心地よくさせる」という方向で発せられていないといけない。
 ときに「おれ、うまくやってないですか」とか「ほめて欲しいな」という依存気分で融和へもっていこうとする演者がいるが、その気が発せられた瞬間に、客の多くは黙ってしまう。一部の客に”中手”(途中の拍手)をもらったところで、サイレント・マジョリティの支持を失っている。気持はわからないでもないが、舞台の上では自分のことではなく先に客の気持ちを掬ったほうがいい。自分の芸については、あとで袖で考えればいいのだ。演者が自分の芸について考えた瞬間に(特にうまくいっていると自分でおもってしまったときに)、気配にノイズが混じる。言葉ではなく、気配のノイズに観客は敏感である。

 常に客にとっての心地よさを考えていたほうがいい。

 一番まずいのは、自分だけ気持よくなっている落語である。自己陶酔しているカラオケを聞かされているみたいだ。たしかに心地よさを求めている落語なのだが、心地よさに対する客観性が抜け落ちている。客はどんどん離れていく。でも演者は、うまくいってるとおもっているから、「どうして、客に受けないんだろう」と不思議そうな顔をしていることが多い。(89〜90ページ)
■この「離見」は、じつは「幽体離脱」と同じ部分の脳の働きによるらしい。『単純な脳、複雑な「私」』池谷裕二(朝日出版社)の 174〜178ページには、脳科学的に幽体離脱現象が既に証明されている、と書かれているのだ。人間の脳の頭頂葉と後頭葉の境にある「角回」を電気的に刺激すると、肝試しで夜中の墓場を一人で歩いている時、急に「後ろに誰かいる」感じがしてゾワゾワ〜と寒気がする時と、同じ感覚を味わうのだという。さらに、右脳の角回を刺激すると、被験者は「自分が2メートルぐらい浮かび上がって、天井の下から、自分がベッドに寝ているのが部分的に見える」という。これって、まさに「幽体離脱」ではないか! 面白いなぁ。すぐれた芸人は、この角回を絶えず意識的に働かして観客の空気を読み、その場のライヴ空間を気合いでもって操縦しているのだね。(この項、もう少し続く)

 『ミレニアム1 ドラゴン・タトゥーの女』と、羊毛とおはな『LIVE IN LIVING '09』    2009/08/15 

■未読の本や文庫が山積みで、読みかけの本もいっぱいあるのだが、話題のスウェーデン産ミステリー『ミレニアム1 上・下巻』を入手したので、早速このお盆休みに読み始めた。まだ上巻の 144ページなので、ようやく物語が動き始めたところなのだが、注目すべきところは、ヒロイン、リスベット・サランデルのキャラクター設定が、奇抜さにおいて群を抜いている点だ。それでいて彼女はものすごく魅力的に描かれている。読者としては、彼女を基点として一気に物語に引き込まれて行くことができるのだ。

読んでいて、ぼくは不思議な既視感を覚えていた。むかし読んだ『マロリーの信託』キャロル・オコンネル著(竹書房文庫)のヒロイン、氷のように冷たいキャシー・マロリーに、リスベット・サランデルは実によく似ている。いや、ミレニアム3部作はまだ始まったばかりだから分からない。今後の展開が楽しみだぞ。

■少し前の信濃毎日新聞朝刊「新譜紹介」欄に、羊毛とおはなという不思議な名前のデュオグループの新譜『LIVE IN LIVING '09』が載っていた。ぼくはぜんぜん知らないアーティストだったが、100字に満たないその紹介文を読んで、これは絶対ぼくの好みの音楽に違いないと直感した。だから即聴いてみたくなったのだが、TSUTAYA伊那店には売ってなかったし、レンタルコーナーにも置いてなかった。オンラインで試聴できたのに、気が付かなかった。

iTunes Store をふと覗くと、あったあった、羊毛とおはな。試聴もせずにダウンロードした。さっそく聴いてみる。ちょっとイメージと違うヴォーカルで、こりゃ失敗かと思ったのだが、聞き込むうちに、千葉はなのフワフワとした不思議な歌声が、まるで布巾に染み込む水のようにごく自然と、毛細管現象のごとく僕の脳内に侵入してきて、切ないのに何故か心地よい快感に満たされたのだ。これは癖になるな。

このCDのベスト・トラックは、何と言っても「Big Yellow Taxi」だろう。コイツはいい! すっごくイイ。ジョニ・ミッチェルの曲の中では「リヴァー」に次いで2番目に好きな曲なんだ。オリジナルもいいが、「おはな」のカヴァーもいいな。発音がいい。リズム感がいい。バックのギター演奏がカッコイイ! この人はスローテンポの癒し系の楽曲が得意のように評価されているみたいだが、いやいやアップテンポでスウィングする楽曲のほうが似合っている。だから、彼女の本格的なジャズ・ヴォーカルを聴いてみたいと思うのは、ぼくだけだろうか?

 Enrico Pieranunzi Trio Live in Japan と『落語論』堀井憲一郎(講談社現代新書)    2009/08/12 

■最近、各方面から注目を浴びているイタリア・ジャズ界で、30年以上前から確固たる地位を築き上げているジャズ・ピアニストの重鎮、エンリコ・ピエラヌンツィ(正しくは何て発音するのだろう?)のCDを集めている。活動歴が長い人なのでCDがいっぱい出ていて、いったいどれを買えばいいのか見当がつかないのが難点だ。5月に2枚のCDをディスクユニオン新宿店で購入し、帰宅後繰り返し聴いてみて「ちょっと屈折した、難解でへそ曲がりのキース・ジャレット」という印象を持ったのだが、もう少し聴いてみようと思い、とあるブログでオススメされていた「Enrico Pieranunzi Trio Live in Japan」を、2枚組なのに安かったので、amazon で即購入した。でも、2曲目を聞き終わった途端、「あちゃぁ〜、こりゃ失敗したな」と、次の曲も聴く前に既に後悔していた。

いやね、演奏それ自体はトリオ3者が超高度のテクニックでもって、ピンと糸を張りつめたもの凄く緊張感の高いインタープレイの応酬を交わしていて、ため息がでるくらいイイ演奏なんだ。でも、でもでも、2004年3月23日の「二子玉川アレーナホール」でライヴ収録されたその曲が終わった時、会場を満たした暖かい拍手に混ざって、突如不気味な雑音が挿入される。それは、最前列に陣取った?「ひとりのオヤジ」が、まるで仮面ライダーのショッカーのように「ひょう、ひょう」と発した、素っ頓狂な奇声だった。演奏内容とあまりにかけ離れた場違いな歓声。「げっ」ぼくは生理的嫌悪感に襲われて一気に興醒めした。演奏はいいのに、すっかりそんなこと忘れてしまうような強烈な奇声。すべてぶち壊しじゃないか! いや、そう思う人、絶対多いと思うよ。

ネットで検索したら、やっぱりねぇ。いたいた、不快感をあらわにしている人が。「中年音楽狂日記」の、Toshiya さんだ。ほんとうにその通りだよなぁ。拍手! パチパチパチ。

■同じ様なシーンは、寄席でもよく見られるようだ。『落語論』堀井憲一郎(講談社現代新書)は、ものすごく真面目に書かれた「平成21年版・現代落語論」なのだが、とにかく読ませる。なるほど! と唸ってしまうくらい面白い。そこには、こんなふうに書かれていた。

落語とは、ライブのものである。
会場に客がいて、その前で演者が喋る。それが「落語」である。
場。客。演者。
このどの要素が落ちても落語は成立しない。それが落語なのだ。

落語は、落語家の語った”言葉”だとおもっている人が多い。言葉は落語の一部であるが、落語そのものではない。

  『落語論』堀井憲一郎(講談社現代新書)6ページより。


落語の本質的な特徴は「一人で喋ること」「客に想像させる芸なので、客との共同作業でしか成り立たない」「同じ話を繰り返し聞かせるものである」というところにある。
一人芸。共同作業。繰り返し。
そういう特徴がある。
一人芸は弱い。
一人だけ舞台に立っている芸は、客がぼんやりと想像しているより遙かに弱い芸である。それは現場にいればわかる。千人入っている会場でも、たった一人、妙な客がいるだけで、あっさりと落語は壊れる。妙な客でなくても壊れる。途中で帰る客がいると、それだけで演者のテンションが、落ちる。演者によっては、がたん、と落ちる。(中略)

落語はおもいのほか、弱いのだ。
寄席では、酔っ払いが簡単に壊す。酔漢が楽しくなり、演者に声を掛ける。落語の最中に大きな声で感想を言う。これから起こることを大声で臨席の友人に説明する。(中略)

笑い声でも壊れる。「落語なんだから、どれだけ笑ってもいいでしょう」という考えの人も多いようだが、そんなことはない。というか、笑い声で潰れる落語が一番多いんではないだろうか。突出した笑い声で壊れる。他の誰も笑わないところでも大声で笑う客がいる。あまり悪気はなさそうだ。(善意もなさそうだが)でも必要以上に笑い声が大きい。(中略)

同じようにやたらと途中で拍手する客が潰すこともある。(中略)とにかく落語は弱いのだ。
現場によく通っている人は周知の事実である。些細なことで壊れる芸である。
それはもちろんライブものの特徴である。(同 58〜62ページ)

 『天空の城ラピュタ』宮崎駿(徳間アニメ絵本)         2009/08/10 

■先日、当院の看護婦さんが「先生、この絵本そろそろ引退でいいですか?」そう言って診察室に持ってきたのが、『天空の城ラピュタ』宮崎駿(徳間アニメ絵本)だった。確か開院当初から置いてあったから、11年間も待合室で読み継がれてきた絵本だ。本を手に取ってみると、ボロボロではあるが、あちこちいっぱい修繕され今日まで現役を続けてきた誇りが感じられた。子供たちに、それほど愛されてきたんだね。ごくろうさん。

ぺらぺら本のページをめくっていくと、解説を林明子さんが書いていることに気が付いた。知らなかったな。読んでないぞ。少しだけ引用します。

 昔から、主人公の二人が出会う場面は数々あるけれど、こんなに美しい出会い方があっただろうか? 高い夜空の一角から、微かな光に包まれて、少女が眠ったまま、ゆっくり降りて来る。そして、地上に届く前に、少年の両腕の中へ抱き止められるなんて! (中略)

 男の子といえば、小学校四年生の遠足の時の事を思い出してしまった。暗い洞窟の中へ一歩踏み込んだ時、私と組んだ男の子が、「僕がついているからだいじょうぶだよ。」と言ってくれた。私は物語のヒロインになったような気がして、とても嬉しかった。最近になって、もう一度あの感動を味わう出来事があった。絵本の取材で保育園に行った時の事。お昼寝の時間に、ちっちゃい男の子の間に寝かせてもらった。先生がカーテンを閉め、部屋を暗くして、ろくろっ首の話を始めた。私がわざと首をすくめ、「こわいね。」と言うと、隣りに寝ていたちっちゃい男の子が、「ぼくがいるからだいじょうぶだよ。ぼく、男だから。」と囁いてくれたのだ。じーんときた。

 親方のおかみさんがバズーに言う。「いい子じゃないか、守っておやり。」という言葉の中に、心優しい男の子達のロマンがこめられている。(中略)


 この雄大な映画は、場面場面の細かいところが又、とても楽しい。シータとバズーが、目玉焼を半分づつ食べるシーンが大好きだ。「ね、そう思うでしょう?」と、誰かと喜びを分かち合いたくなる。「ほら、おばさんが、ハムをかじるところ、あそこもいいよね。」と誰かがきっと答える。「あの大きなハムのかたまりを、丸かじりして引きち切る迫力! 口から離した時、微かに糸を引いていたよね、見た?」

 その海賊のおばあさんがとてもいい。体も、声も大きいだけ、度胸も、包容力も大きい。シータとおばさんの二人で、かわるがわる、愛すべき女性を見せてくれる。一方は守ってあげたい女性、もう一方は、懐に飛び込みたい女性。

『天空の城ラピュタ』宮崎駿(徳間アニメ絵本)解説:林明子(110〜111ページより引用)

 『神様ってなに?』森達也(河出書房新社)読了         2009/08/09 

■昨日の土曜日の夕方、『神様ってなに?』森達也(河出書房新社)を読了した。申し訳ないが、期待したほどの読み応えはなかった。ただ、収穫はあった。イスラム教のアッラーの神と、ユダヤ教の神・ヤハウェ(エホバ)と、キリスト教の神(主とか父とか言われている)は、元を辿れば実は「同じ神」だったのだ。知らなかったなぁ。同じ神を唯一の絶対神として崇める一神教の信者同士が、絶対に理解不能な敵に対する「聖戦」と称して今も戦争を続けている。本当は同じなのに、水と油なのだから不思議だ。

ただ考えてみれば、同じキリスト教でもカトリックとプロテスタントでは違うし、イスラム教でもシーア派とスンニ派の内紛は絶えない。仏教だって、宗派によって考え方は全然違うのだから、こんがらかってしまうのだな。同じ神様を信仰しているから仲良くなれるというものではないんだ。難しいね。

もう1点は、この本を読んで初めて仏陀の根本思想が少しだけ理解できた。ゴータマ・シッダールタという人は凄いぞ! 先日、『阿呆者』車谷長吉(新書館)を読み始めて、仏教で言う「四苦八苦」を覚えたのだが、これは仏陀が言った「四諦」のひとつの「苦諦」のことだ。あとの3つは「集諦」「滅諦」「道諦」で、この4つの真理を知り、悟りに到達する方法を説いたのが「八正道」と言われている。

さらに仏陀は「縁起」「無常」を説いた。縁起とは、「全てのものは関係し合っている」ことを言う。つまりは、ある時、ネズミのウンコの成分として排泄されたアンモニア分子が、雨が降って地中にもぐり、畑に蒔かれたホウレンソウの根から吸収されて豊かな緑の葉を成し、農家のおばさんに収穫されて出荷され、特売日のスーパーでお母さんに買われて、その日の夕食の「ホウレンソウのおひたし」としてテーブルにのる。その家の子供が箸を延ばしてホウレンソウを食べる。胃腸で消化吸収され、彼の筋肉となる。そういうことだ。さらに言えば、地球上(いや、宇宙全体)に存在する原子の数は変わらないはずなので、そのアンモニアを構成する窒素原子は、もしかすると数億年前にティラノザウルスが排尿したアンモニアを構成していた窒素原子かもしれないのだ。

福岡伸一先生は、それを「動的平行」と呼んだ。じつを言うと人間の体は、固体でありながら動的で、瞬間瞬間に変わっている。流れる川のごとく、決して同じではないのだ。仏陀はそれを「無常」と表現した。さらに仏陀は「色即是空 空即色是」と言った。つまり「宇宙の万物は因と縁によって存在しているだけで、固有の本質や実体はない。それを知覚しているこの世の現象の姿こそが空である (p78)」という意味。さらに言えば、それは「唯識」のことを意味する(それぞれの人にとっての世界は、それぞれの人の認識の中にしかなく、またその認識も実在するするものではないとする考え方で、「空」の発展形でもある) (同じく、p78 より引用) これって、茂木健一郎さんが言う「クオリア」のことじゃない?

■今日の日曜日は、正午からプリエで伊那中央病院小川院長の叙勲(瑞宝重光章)受章祝賀会に出席。高遠の兄に相談して、背広を着ていって正解だった。よかったよかった。ぼくも兄も祝賀会に出席しなければならなかったので、土曜日から成田に住む次兄が伊那に来て母の付き添いをしてくれた。次兄は、母が倒れてからほぼ毎週、週末に千葉から伊那中央病院へやって来ている。遠いのに、始めは車で中央道を運転して来ていたが、週末一律千円の影響で高速道路がものすごく混むので、このところは成田線→総武線→中央本線(あずさ)→飯田線 と乗り継いでJRでやって来る。帰りはこの逆だ。伊那北駅発 17:50 の飯田線に乗って岡谷へ、千葉行きの「あずさ」に乗り換え、千葉駅からさらに成田線乗り換える。兄の自宅に帰り着くのは、いったい何時になるのであろうか。明日は朝から仕事だ。しかも、兄の病院にはお盆休みはない。

土曜の夜、中華の「美華」で夕食を食べながら次兄はしみじみ言った。 車で来るのはちょっと辛いな。その点、列車は楽さ。寝ていけるし、本だって読める。ネットで割り引き切符も取れるし。でもね、お盆期間は厳しいんだ。列車は既に予約で満席状態。だからちょっと来れないかもしれない。この夏はまだ夏休みを取っていない。いや、取れないんだ。周りの先生方に迷惑をかけることになるからね。兄はそう言った。どうにもならない思いは、兄だって同じなのだ。

おかあちゃん! まだまだ頑張れるよ。81歳の誕生日まで、あと、もう12日じゃないか(^^)。 ぼくは今晩、伊那中央病院救急部の、小児一次救急当番だった。夕方6時過ぎ、母の病室を訪れると、成田の次兄は既に帰路に着いたあとだった。いつものように、母の手を握り、髪をなで、もう一度左手をギュッと握って、ぼくは母の病室を後にした。悲しいかな、着実に母は衰弱の度を強めている。救急部では5人の子供を診た。幸い、面倒な子供はいなかった。よる9時半すぎ、最後の患者さんを観終わって「ほっ」とため息を突き、ようやく帰路についた。疲れたね(^^;;

 体脂肪率16%!              2009/08/05 

■最近の読書は、専ら母の病室で行っている。この間の日曜日の夕方には、『続・大きな約束』椎名誠(集英社)を読了した。気分的に重厚な本は読めないので、こういう時には椎名誠さんの本が本当にありがたい。読んでいて、なんかこう心がほっこりするのだ。ただ個人的には、名作『岳物語』『続・岳物語』『パタゴニア』、それから(ぼくは大好きなのだが)椎名誠にしては暗すぎる雰囲気の『帰っていく場所』といった椎名私小説群の中に置いてみると、なんだかあっさりしすぎていてコクが足りないというか、しみじみ感に欠けるというか(特に続巻のほう)本の帯の惹句にあるような『岳物語』の続編的傑作とは言えないと思うな。本当に申し訳ないが読者はわがままなのだ。でも、図書館で借りて読んだのではなくて、ちゃんと本屋さんで新刊を買って読んだのだから、言ってしまうのだ。ごめんなさい。

この本の中で「おおっ!」と思った記述があった。椎名さんが、奥さんの渡辺一枝さんといっしょに人間ドックに入った場面。なんと! 椎名誠さんの体脂肪率は16%しかないとのこと。これには驚いた。まぁ、ツール・ド・フランスに出場するようなプロの自転車乗りの体脂肪率が1ケタであることは理解できるが、いくら毎日ヒンドゥー・スクワッドと腕立て伏せ、それに腹筋運動を欠かさない椎名さんとはいえ、もはや60代のおじいちゃんだぞ。凄すぎる! ちなみに、ぼくの体脂肪率は22%。いやはや。

だから今日はがんばって、夕方テルメで1時間走った。時速 9.2km で9キロ走れた。ちょっと無理しすぎたためか、先々週から左ふくらはぎ(腓腹筋)に痛みが走り、軽い肉離れだったのか思うように走れなかったのだ。結局、こむら返りで肉離れではなかったのかな。今週になって走っても痛くはない。よかったよかった。走り終えて、汗もいっぱい流した後に体重計に乗ると、78.8kg だった。よし! しかしそうは言っても、体脂肪率が20%を切るのは、とてつもなく不可能に近いぞ。ましてや16%なんて。

■今日の水曜日の午後、母の病室で読んでいた本は、『阿呆者』車谷長吉(新書館)と、『神様ってなに?』森達也(14歳の世渡り術/ 河出書房新社)の2冊。これは今日、高遠町図書館から借りてきた本だ。いつでも未練がましく、うじうじと生(性)に執着して、身近な知人にも毒づくので世のなか敵ばかりで、格好悪く生き続ける私小説作家、車谷長吉氏のことが、ぼくは何故か好きだ。重いどろどろの内容なのに、妙に軽い文体が読ませるのだ。私小説作家としては、椎名誠氏よりもずっとランクは上だな。椎名誠氏は、ぼくの中ではやはりSF作家だ。
 この世は苦の世界である。過去現在未来、永劫に四苦八苦に責められている、とお釈迦さはは説かれた。四苦八苦とは「生」「老」「病」「死」「愛別離苦」「怨憎会苦」「求不得苦」「五陰盛苦」である。
 愛別離苦とは、愛する人と別れる苦しみである。今日では交通事故で倅を失った、という風なことはよくある。私が二十歳代半ばの頃、みかお祖母さんが老衰で死んだ。享年九十。大往生だった。それでもみかお祖母さんの長男である父の悲しみは、凄いものだった。四十九日が過ぎた時分から、みかお祖母さんが普段着ていたネルの寝巻を、絶えず身につけているようになった。夜寝る時だけではなく、昼間もその格好で坐っていた。村の寄り合いにも、その格好で出掛けて行くのである。私がお袋に「あれ、なりが悪いやないかえ。」と言うと、「お父さんはお祖母さんが恋しいんやがな。淋しいんや。あのネルの寝巻なしには、もういられへんのや。男はそななもんや。」
(『阿呆者』車谷長吉・著 8ページより引用)

 ダブル・レインボー(その2)        2009/08/04 

■日時と場所は違うが、ダブル・レインボーは、7月19日(日)の夕方、「山下洋輔トリオ結成40周年記念コンサート」が開催されていた日比谷野外音楽堂でも目撃されていた。菊地成孔氏のブログをご参照下さい。同じ虹の写真はとりみき・さんのブログの方が鮮明かもしれないが、やはり外側の薄い虹は不鮮明だね。辛うじて色の配列は判るかな。

■パーキンソン病のために、高遠の実家で自宅療養を続けてきた僕の母が急変したのは6月25日の朝だった。粘調な痰が詰まって呼吸困難を来たし、さらには、救急車で伊那中央病院へ搬送される途中に心肺停止状態にまで陥ったのだが、救命処置により蘇生し、母の心臓の拍動は再開したのだ。ほんと、ありがたかった。だって、何の心の準備もなく突然逝かれちゃったら困るもの。母にはまだまだ長生きして欲しいし、母方祖母の家系はみな長命で有名なのだから。母は今月21日に81歳の誕生日を迎える。日本人女性の平均寿命は86歳というから、まだまだ若いではないか。

あれからずっと、不安な緊張した毎日が続いている。母は超低空飛行ながらも、心拍・血圧は安定した日々を送っている。意識はない。自発呼吸もほとんどない。手足は動かさない。手を強く握ると、少しだけ首を右後方に曲げ口を歪める。でもそれは最初の1回だけだ。病室で付き添っていても、母には何もしてあげることができないのだ。このもどかしさ。とてもさびしい。

この宙ぶらりんで不安定な気分は、実に居心地が悪い。自分勝手でさまざなな思い(今後の予定とか)が交錯する。イライラ感はつのり、ストレスは増すばかり。で、結局ぼくは、その場から逃げ出したくなる。ぼくは困難にぶち当たると、いつだって逃げ出してきた。人間が卑怯にできているのだ。読書や、走ること、それにツール・ド・フランスのTV観戦にかこつけての現実逃避。

でも、どうにもならないこの思いを抱えつつ、この1ヵ月間それでも何とか僕の心の均衡を保ってこれたのは、テルメのトレッドミルで走ってストレスを発散させているからだと思う。時速10km で30分間、必死で走り続ける。3kmくらい走ると本当に苦しくなる。もうダメだ! と思う。オリンピックのマラソン選手は、時速20km で2時間も走るというのにね。でも、そこを我慢して走り続けると、急に体が軽くなって、足も痛くなくなる時が来る。脳内モルヒネが分泌されたのだ、たぶん。いわゆる「ランナーズ・ハイ」と言うのは、もう少し違うものだと思うが、走っている間は、様々な雑念が消え去ることは確かだ。ぼくはただ走るだけ。身体の筋肉の隅々にただ精神を集中させるだけで、気分が不思議と楽になる。さっきまで重く垂れ込めていた「辛い思い」が、たとえ一瞬とは言えども雲散できる。これは本当にありがたい。なんとか明日も生きてゆける。

身体と脳の関係は本当に不思議だ。体をいじめると、逆に快感が訪れる。苦しくても5km 汗ダラダラで走り切ると、その達成感といったらない。とげとげギスギスした気分が解消して、ゆったりとした実に穏やかな気持になれる。思春期の性の目覚めの最っただ中にあるもんもんとした中学生が、辛うじて「わたし」を保っていられるのは、ひとえに部活で「スポーツ」をして汗を流しているからだね。そうに違いない。

明日も走ろ!


 伊那まつりの夕方、ダブル・レインボーが東の空に出た   2009/08/01 

■今日の土曜日は、お昼前から重たい雨雲が西の空に垂れ込め、今にも雨が降り出しそうな天気だった。案の定、昼からは雨になった。伊那まつり開催までにはとても止みそうになかった。可哀想に、伊那東小3年生と伊那小の2年生は、親子でTシャツを揃えたのにお披露目の会場がなくなってしまったな。先週の「箕輪まつり」も急な土砂降りの雨で急きょ中止となったのだ。

午後2時に外来を終え、自宅に戻って妻が作ってくれた「ナポリタン」を食べたら急に眠くなってしまい、午後3時過ぎまで昼寝。目覚めたら、西日を浴びて汗をかいていた。あ、雨が上がったのだ。あわてて着替えて伊那中央病院へ。昼過ぎから詰めていた高遠の兄と、母の付き添いを代わるためだ。午後4時10分前、病院着。空はまだ暗い。

母の病室は6階の東向きの部屋で、眺めがとってもいい。晴れた日には、南アルプスが一望できる。左から鋸岳、甲斐駒ヶ岳、仙丈ヶ岳、間ノ岳、北岳、塩見岳。その手前には、入笠山と鹿嶺高原。目を落とすと、月蔵山と高遠の街並みが遠く見える。6時半。さて、そろそろ帰ろうかと思い、母の手を握ると、母は少しだけ首を左後ろに動かして、レスピレーターに逆らって自発呼吸を2回した。無理な呼吸でかえって苦しくなったのか、酸欠の金魚のように口をパクパクさせた。ぼくはちょっと焦った。もしかすると、母は意識があるのかもしれない。

ふと、窓の外を見ると、虹が出ていた。ちょうど高烏谷山の山頂から天に向かって伸びている。辺りは薄暗くなってきているのに、虹だけ輝いていて何とも神々しい不思議な眺めだった。ダブル・レインボーって言うんですか? 右側にもう1本、薄い色の虹が2重に出ている。モンゴルの草原にかかる『スーホの白い馬』の虹みたいに。ぼくはあわてて、携帯を取りだし写真を撮った。それが以下の写真です。でも、虹が1つしか見えませんねぇ。

病院からの帰りに伊那北駅前を通ると、伊那まつり「市民踊り」は、無事にぎやかに開催されていた。よかったよかった。帰ってきて、絵本『スーホの白い馬』を確認したら、確かに赤羽末吉さんが描いたものとまったく同じ虹だった(右端しか見えなかったけれども) 今日、実際に虹を見ながら初めて気が付いたのだが、2本の虹は「色の並び」が逆転しているのだ。内側の虹は右端が赤で、外側の薄い虹は右端が青紫。絵本でもちゃんとそう描かれている。知らなかったなぁ。写真に写っていないのが残念だ。

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